43
スパークリングワインの栓を抜き二脚のフルートグラスにそれを注ぐ俊輔の手を、無意識に目で追っていた。サイドテーブルに置かれたグラスの中に、無数の泡がキラキラと揺らめいている。
ワインを注ぎ終わりワインクーラーにボトルを戻した俊輔は、サイドテーブルを挟んだ反対側のソファに腰を下ろした。
「少し飲もう」
促されてグラスの足を摘んだ指先が震える。情けない。こんなことでどうするのだ。自分を鼓舞するが如く息を吸い、泡の弾けるグラスを手にした。
私同様、バスローブ姿の俊輔が、サイドテーブルの向こうで微笑んでいる。
「今日は、ありがとう」
そう言って微笑んではみたが、自然に笑えていないのが自分でもよくわかる。
「満足したか?」
「……うん」
「そか。なら良かった」
会話がぎこちない感じがするのは必ずしも気の所為ではない。もっと酔いが回れば少しは緊張が解れるだろうと思った私は、グラスのワインを一気に飲み干したが、こんなもの一杯くらい追加したところで酔えると思う方がおかしい。
「おい、そんな飲み方するなよ」
「あ、ごめ……」
グラスを置いて立ち上がった俊輔が、私の手からグラスを取り上げた。
「もう寝るか」
「そ、そだね」
人ひとり間に挟めそうな微妙な距離でふたり並び、ベッドに腰掛けた。
変に意識するから気まずいのだ、仕事場の狭いベッドでいつもふたりで寝ているのだから、そのとおりにすればいいだけではないか、と、自分に言い聞かせ、ふわっと軽い布団を捲ってそそくさとその中に潜り込んだ。
俊輔が入ってくる気配がして間もなく、ベッドサイドランプを残し、照明が落ちた。
淡い光の中、頭からすっぽりと布団を被りじっと息を殺して俊輔の動きを伺っていたが、それきり何の気配もない。このまま寝るだけで済むのかと安堵しかけたとき、奴のくぐもった声が耳に入ってきた。
「とりあえず、脱ごう」
「脱ぐ?!」
「なに驚いてんだよ? 脱がなきゃなんにもできねえし」
ベッドのスプリングが軋んで掛け布団が動き、かさこそと布が擦れる音がする。今、きっと奴は脱いでいる。
「ぬ、脱いだの?」
「ああ。おまえは? 俺が脱がしてやろうか?」
「いいっ! 自分で脱げるっ!」
いい加減、覚悟を決めなければ。もうなるようになれとばかりに私も布団を被ったままもぞもぞともがいてバスローブを脱ぎ捨て、もう一度布団をしっかりと被り直した。
「見ないでよねっ!」
「馬鹿。見るに決まってんだろ?」
突然布団を剥ぎ取り覆いかぶさってきた俊輔に狼狽し、胸の前で拳を握り、瞼をぎゅっと閉じ奥歯を噛み締め身構えた。身体の震えが止まらない。
「波瑠? どうした?」
私の様子を見つめる俊輔の視線を感じた肌がゾクゾクと粟立つ。肩に触れられビクッと身体が跳ねた。自分がこんなに臆病だったなんて。もう泣きそうだ。
「ごめん……私」
少しの沈黙の後、溜め息ともつかない小さな笑い声が聞こえ、グッと抱き寄せられた。密着している肌から直に伝わる体温が熱い。
「いいよ。無理すんな」
「俊輔?」
そろそろと目を開けて、奴の横顔を見ると、少しだけ口角を上げて自嘲するように笑っている。
「俺も……ダメだ。なんでだろ? 妙に緊張してその気になんねぇ」
「……私のせいだね」
「気にすんな。おまえのせいじゃない」
「さっきの分、回収するって言ってたのに……。次は私が出すから、もう一回、リベンジしよ?」
「馬鹿かおまえ」
「だって……」
「たった一晩に大金叩くなんて、もったいねえことすんなよ。そうだな……だったら、その金ででかいベッド買おうぜ。うん。その方が絶対有意義だ」
こいつは、やっぱりケチだ。真顔でブツブツとベッドの希望を述べる俊輔に、それまでの緊張も忘れて、プッと吹きだし笑ってしまった。
「やっと笑ったな」
身体の向きを変え、私の頬を抓り嬉しそうに笑う俊輔に、なんともいえない気持ちが湧き上がる。そう。これは、愛おしさだ。
今なら、わかる。私は、俊輔とのゆるく居心地の良い関係が変わってしまうのが怖かった。恋にはいつか終わりがくる。もう二度と俊輔を失いたくなかったから、程よい距離を保ちたかっただけなのだ。
でも、もう無理。
俊輔が好きだ。
これ以上、自分の気持ちをごまかすことができない。
「寝よう」
「うん」
額にキスをしてぎゅっと私を抱きしめる俊輔の腰に私も腕を回す。
「おまえの肌、すべすべして気持ちいいな」
肌の感触を確かめるように私の肩や背中を撫でる手の動きが、少しずつゆっくりになって止まった。寝付きの良いこと。こいつも今日一日慣れないことをして疲れたのだろう。私は規則正しい寝息を立てる俊輔の頬を撫で、そっと口づけてから瞼を閉じた。
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