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 デートだった。正に、夢のようなデート。俊輔がこんな素敵なサプライズをしてくれるなんて、まったく想像の上を行っている。


 エレベーターの中、ぼーっと夢見心地であの食事の光景を思い返していると、目の前に立っている俊輔が、ポケットから何やら取りだしているのが見えた。なんだろう、と思ったとき、エレベーターが停止した。


「降りるぞ」


 俊輔の後からエレベーターを降りると、そこはロビーではなく、どうやら客室階のエレベーターホールらしい。


 私は何が起きているのかわからず、厚い絨毯が敷き詰められた廊下を、迷いもせずにまっすぐ歩く俊輔の背に声をかけた。


「ねえ、どこ行くの?」

「部屋取ってあるから」

「へっ?!」


 足を止め振り返った俊輔が、私の目の前でカードキーをひらひらと見せびらかせながらニヤリと意地悪く笑って言った。


「さっきの分、ちゃんと回収しないとな」


 どうやらサプライズプレゼントに感動したのは間違いだったらしい。こいつはやはり俊輔だ。


「ちょっとそれって……」

「デートだろ。最後まで付き合えよ」


 そうかデートはまだ終わっていなかったのか。大人の男と女なのだから、ホテルで一晩一緒に過ごすのは、当然の成り行きといえば確かにそのとおりだが、ちょっと待て。


 ちゃんとした服だなんだとそればかりに気を取られすっかり忘れていて、そこまでの準備はしてきていない。今日はどんな下着を着けていたっけ、と、思い巡らせたところで気づく。今はそんなことを考えている場合ではなくて、と。


そう、これは、貞操の危機ではないか。


 私はこのままこいつとどうにかなって、本当にいいと思っているのか。自分のこいつに対する気持ちは、そこまで確かなものになっているのだろうか。ドアの前に立ち、解錠する俊輔の後ろ姿を見ながら自問自答した。


 部屋に入ったら終わりだ。逃げだすなら、今しかない。


 『逃げだす』との言葉を思い浮かべたとき、胸がチクリと痛んだ。今、ここから逃げだせば、こいつとの関係が終わる。俊輔を傷つけるのだ。しかも、敵前逃亡という絶対に許されない方法で。


 こいつはもう二度と、私と恋愛関係と呼べるものになりたいとは思わないだろう。それどころか、今日この場限りで友人関係すら破綻し、私という人間をまるごと拒絶されてしまうかも知れない。それでも、こいつを拒否して逃げだせるのか。その決断が、今この瞬間、私にできるのだろうか。


 受け入れ準備OKと明言はできないが、それでも、その答えはひとつだ。自分の不安な気持ちに目を瞑ってでも、今、俊輔の手を離したくない想いの方が強いのだから。


::


 部屋へ一歩入ってまず目に飛び込んできたのは、窓の外に広がる港の夜景。その美しさに惹かれるように窓際に足を進め、ソファに腰下ろし景色を眺めた。


「どうする? 飲むか? それとも、先に風呂入ってくる?」


 頭上から聞こえるその声にハッとして、窓から視線を離し振り返る途中、目の端に映ったサイドテーブルには、ワインクーラーで冷やされているスパークリングワインのボトルとフルートグラスが二脚。準備万端というわけか。


「さっ、先にお風呂入る」


 顔を上げて正面を向き立ち上がったその瞬間、全身に緊張が走った。顔が強張り頭のてっぺんから血の気が引いていくのがわかる。足が竦んで一歩も前に踏み出せない。


 嘘だろ。ここでどうやって風呂に入れというのだ。


 ガラス張りのバスルーム。つまり、すべて丸見えだ。


 単なる想像だったこれから自分に起こるであろうことが一気に現実となってのし掛かってくる。頭ではわかっていた。だが、いざ現実となるとこんなにも気持ちも身体もついていかないものなのか。


 こんなことなら俊輔とこの場で絶交しようとも逃げだしておくべきだったと、いまさら悔いても手遅れ。後悔に効く薬なんて無い。


「波瑠、どうした?」

「な、なんでもない」


 こうなったらもうヤケだ。意地でもこいつにだけは弱気なところを見せたくない。私は心の中で震え戦きながらも何食わぬ顔で巨大なベッドの脇を通り過ぎ、そそくさとバスルームへ入って扉を閉めた。


 豪華なバスルームを見渡すと、ありがたいことにシャワールームとトイレは磨りガラスの扉で仕切られていた。あとは、このガラス張りの空間で、どうやって服を脱ぐか、それが問題だ。


 ふと、部屋に面したガラスの上部に、ブラインドがあるのが見えた。これを閉めればいいのか。そう気づいた瞬間、全身の強張りが解け、ほーっと胸を撫で下ろした。


 高級ホテルはアメニティーも高級だとすっかり自分が置かれている状況を忘れてその香りに癒され、気分良くシャワーを浴びて出てきたところでハタと気付く。着替えが無い。


 散々迷った挙句、私は何も身に付けていない身体にバスローブを羽織り、ドアノブに手をかけてから大きく息をひとつして勢いよくドアを開いた。


 入れ替わりに俊輔がバスルームへ行き、私はひとり部屋に取り残された。


 ソファに浅く腰掛け背筋を伸ばし、見たくもないキングサイズのベッドを睨みつける。今はもう夜景を見る気力も残っていない。俊輔がシャワーを使う音を聞いているうちに、緊張で手に汗をかいてきた。まるで、刑場に引き摺り出され処刑を待っているような気分だ。

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