32

 子供の頃は、もっと大きな池だと思っていたが、改めて目の前にすると、それほどでもない。あの頃の私と今の私の体格差はそれほどないので、あの頃は大きな池だと思い込んでいただけだったのかと考えると、不思議な気がする。


 池には、左右にドラム缶のウキをつけた筏状の橋がかかっている。俊輔は私の手を引き、橋の中央まで歩いて立ち止まった。


「波瑠、ここ、覚えてるか?」

「うん。みんなで渡って遊んだよね」

「違う。俺が言いたいのはそれじゃなくて……」


 俊輔が繋いでいた手を離し、私の腰に手を回してぐっと側へ引き寄せた。


「な、なにっ?」

「昔、ここで俺が告白したの、覚えてるか?」

「……うん?」


 そうだ。小五の秋、みんなと逸れ、ここでふたりきりになったとき、突然、こいつに好きだと告白されたのだった。


 あのときの、私の気持ち……。


「あれからずっと、俺はおまえが好きだった。話もしなくなって無視したみたいになってたけど、それでもおまえが好きな気持ちに変わりはなかった」

「俊輔?」

「離れ離れになってからも、いつもおまえを思いだしてた」

「……いつも?」


 訊き返すと、俊輔の眉間にシワが寄っていく。


「……ときどきかな?」

「…………」

「……たまにだ、ごくたまにっ! これでいいだろ? 突っ込むなよ」


 腰に回された俊輔の両手に力が入る。私は真面目な顔をして私を見つめる俊輔の瞳を笑いを堪えて真っ直ぐに見据えた。


「正直でよろしい」

「そういうおまえはどうなんだよ?」

「もちろん…………忘れてた。キレイさっぱり」

「ひでぇ……」


 悔しそうな顔。奥歯をキリキリと噛みしめる音が聞こえてきそうだ。


「だからなに? それがどうかしたの?」

「いいから。黙って人の話を聞け」


 おかしい。おかしくて大声で笑いだしそう。だが、ここは絶対に笑う場面ではないのは承知している。私は俯いて、震えの止まらない口元をきつく結んだ。


 突然、抱き締められた。背中に回された手が私の肩を力強く掴み、耳に俊輔の熱い息がかかる。狼狽えもがくと、抱き締める腕の力が強くなった。体がぴったりと密着して、私の心臓が暴れ出す。


「ちょっと……急になに?」

「馬鹿。大人しくしてろ」

「俊……」

「波瑠、好きだ」


 そっと囁かれた声と言葉に背筋がゾクゾクし鳥肌が立つ。笑ってる場合ではなくなった。


「今度こそ、おまえを離さない」



『俺、藤本さんのこと、好きだ』



 小五の俊輔の声が、頭の中で再生された。私より背の低い俊輔が、少しだけ上を向き真っ直ぐに私を見ている。



『私も……浅野君が好き』



 大人になった今の、私の気持ちは…………。


 いつの間にか体の拘束が解かれ迫りくる俊輔の顔。そのとき、目の端に写ったものにハッと我に返り、手で彼の口を押さえた。


「なっ……」

「ギャラリーが……」

「えっ?」


 ふたり同時に横を見ると、数メートル離れた所に、十人ほどの子供たちの好奇の目が。


「キスしないの?」

「そうだよ。早くキスしなよ」

「…………」

「…………」


 その瞬間、俊輔が私の手を掴み、走りだした。橋が揺れているが、そんなことはお構い無し。背中に聞こえるキスキスの合唱が遠くなった頃、私たちは彼らから遠く離れた林道にいた。良かった。追ってはこないようだ。


 息が上がる。膝を抑えゼイゼイと荒い呼吸を繰り返しながら、こんなに全力で走ったのは何年振りかと思う。顔を見合わせ、思わず吹きだしてしまった。


「波瑠」

「うん?」


 俊輔の両手が私の頬を包み、その唇が私の唇を捉えた。


「おまえも。もう逃げるなよ」

「……馬鹿」


 なんとなく彼の背に腕を回した。お互いの唇を求め合い、甘い舌を絡ませる。きっとこれが、今の私の気持ちなのだ。


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