16
「ごめん。待った?」
「あ、いいえ、私も今来たところです」
山内さんとの食事の約束は、結局ふたりとも時間の都合がつかずに、流れに流れてやっと今日実現に至った。
「どうしよう。予約してる店はここからそんなに遠くないんだけど、この時間だとタクシー捕まえるより歩いた方が早そうだな。十分くらいだけど、いい?」
「はい」
とはいうものの、サラリーマンの帰宅時間帯の今、足早に駅へ向かう人の流れに逆い、且つ、彼を見失わないように歩くのは並大抵のことではない。
向かってくる人をなんとかかき分け必死で後ろを歩いていると、突然ぐっと腕を引っ張られた。足を止め、ちらっと私を振り返った山内さんのその手が腕から離れ、私の手を掴む。ぎゅっと握られ伝わってくる熱にドキッと心臓が高鳴る。
「逸れたら困るから」
前を歩く山内さんの背中を追いかけながらも、握られたその手に意識が集中してしまう。
私は今、彼と手を繋いで歩いている。
いや、これは違う。勘違いをしてはいけない。手を繋いでいるのではなく、逸れないように手を引かれているだけだ。頭の中で何度もそう唱え、浮つく心を鎮めるべく努めた。
手を引かれ連れていかれた先は、表通りから一本入ったオフィス街。まだ通勤時間帯には違いないが、この辺りまで来ると人通りも少なく、さほど高さのない古びたビルが薄暗い通りに寂しげに並んでいる。
一階正面はどこも電気が消され入り口にはシャッターが降りていて、営業の終了を知らせている。その一角にある雑居ビルが、どうやら彼の目的地らしい。地下へ続く細い階段の前で、山内さんは足を止めた。
「ここだよ。階段急だから足元気をつけて」
この先に、いったい何があるのだろう。
薄暗い階段の、見るからに怪しげな佇まいに気圧され訝しく思ったが、繋いでいた手をさり気なく離して、人ひとり通れる幅の階段を下りていく彼の後を追った。
カランカランとカウベルを響かせ開く古びた木製のドアをくぐり、山内さんの後に続いて店内へ。中は思いの外広く、レトロな内装のレストランだった。
「よう山内! 久しぶりだな」
「おう」
奥から現れたちょっと強面髭面の男性は、この店のシェフだろうか。親しげな挨拶を交わしているふたりは、どうやら知り合いのようだ。
「あれ? お連れさん? いらっしゃい!」
山内さんの後ろにいる私を覗き込むように、大きな体で首を傾けにっこり笑った意外と可愛い髭面の彼に、私はつられて笑顔を返した。
「こんばんは」
「おまえが女連れとは珍しい」
「余計なこと言うなよ。仕事関係だ」
山内さんに先手をピシャリと打たれ、好奇心を封じられた彼は、つまんねぇと小さく一言呟いたかと思うと気を取り直し、営業スマイルで私たちを一番奥のテーブル席へ案内してくれた。
それでも私の椅子を引いて席につかせる山内さんを、チラチラとなにやら物言いたげな目で見ているその様子に、少し違和感を覚えた。
「ごめんね。びっくりしたでしょう? 本当は、もっとお洒落な店の方が良いかとも思ったんだけど、やっぱり君をここへ連れてきたくてね」
メニューを手渡しながら目の前で微笑む彼には、どうやら私の考えていることなんぞお見通しらしい。
「彼の方……お知り合いなんですか?」
「ああ、あいつ? あいつはね、竹中って言って、今でこそこの店のシェフやってるけど、僕が知り合ったのは学生の頃で、まだバイトだったんだよ。ここは、もう何年になるかな? その頃からずっと通ってる店なんだ。美味い安い量が多いで、金欠の学生には最高の店」
「はは。なるほど……」
こんなふうにククっと笑う山内さんは、初めて見た。言葉も声色も、仕事のときとは違い幾分柔らかい気がする。きっとこれが本来の彼の姿なのだろう。
「なんにする? なんでも美味いけど、特に美味いのはドライカレー。オススメだよ」
「じゃあ、そのオススメいただきます」
山内さんは閉じたメニューを受け取りテーブルの隅に片付けると、私の食べられる量を考慮してライスを少なめにと一言付け加え、ドライカレーと食後のコーヒーを注文してくれた。彼のこういう何気ない気遣いが嬉しい。
やってきたドライカレーは、どこからどう見ても普通盛りと特大盛り。その特大盛りの山を、山内さんは涼しい顔で崩しながら、黙々と一定速度で口に運んでいく。
その上、私に向かって残すのは惜しいから多かったら食べるのを手伝ってあげるよなんて言ってしまうからすごい。この人と何度も一緒にランチをしたけれど、ちょっと食べるのが早いかなと思う程度で、こんなにたくさん食べる人だなんて今まで知らなかった。
結局、三分の一ほどを手伝ってもらい、私も完食できた。はじめは量の多さばかりに目がいってしまったが、お味もなかなか本格的。スパイシーで後を引く美味しさ。満腹になっても、また次のひと口を頬張りたいと思えるほどだ。
手伝ってもらったおかげで、彼が食べ終わる頃に私も一緒に食事を終えることができた。よかった。これで今日は焦らなくて済む。そう安堵しながら食後に運ばれてきたコーヒーをひと口、口に含んだ途端、無意識に微笑んでしまった。
「どう? 美味しいでしょう? ここ、コーヒー
山内さんの言葉に、食器を片付けていた竹中さんが、『は』は無いだろうと、ボソッと呟いた。
「美味しい。好きです。この味」
甘い香りのダークロースト。苦味と酸味のバランスが絶妙で、喉を通る直前にふわっと特有の甘みが広がり、食事の名残をスッキリ消してくれる後味。豆の個性が際立っているわけではないので、多分、食後のコーヒーに最適な味と香りになるよう厳選されたブレンドなのだろう。
料理の味といい、このコーヒーといい、竹中さんの拘りが見て取れる。
「ほら。彼女『は』ちゃんと分かってくれてるぞ」
竹中さんは私に向けてニッコリ笑いかけた後、山内さんを斜めに一瞥している。このふたりの遠慮のなさ。相当に仲が良さそうだ。
「用が済んだらさっさと引っ込め」
言葉は乱暴だが、その声音には親愛の情を感じる。男同士の戯れ合いってなんだか可愛い。
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