03

 思い出したくもないが、こいつは私の初恋の相手だ。


 俊輔と私は小学校の同級生。五年生のとき、初めて俊輔と同じクラスになった。気さくでお調子者の俊輔は、すぐにクラスの人気者になった。うちのクラスは男子女子ともに仲が良く、私と俊輔は男子女子入り混じった十人ほどのグループでよく遊んでいた。


 ふたりのうち、どちらが先に意識をしだしたのかはわからない。運動公園へ遊びに出かけたあの日、ドラム缶池の辺りで他のみんなと逸れ、ふたりきりになったとき、突然、私が好きだと告白されたのだ。


 とはいえ、付き合ったのはごく短期間。それも、放課後、一緒に下校したこと数回、こっそりとふたりだけで遊んだこと数回と、至って健全で可愛いお付き合いだった。


 私たちの関係は、どこからバレたのかはわからないが、あっという間にクラス中、ひいては学校中に広まってしまい、面白おかしい噂話と化した。よそのクラスの子や六年生までが、休み時間に私たちを覗きに来る毎日。ニヤニヤされ、囃し立てられ、冷やかされ、その度に私の気持ちも一緒に冷えていった。そして、ある日を境に、私たちは話すことも、目を合わせることもしなくなってしまった。


 五年生と六年生は、そのまま持ち上がりで同じクラス。私たちは、同じグループに属して一緒に遊びながらも、お互いをいないもの同然に無視したまま、卒業まで過ごした。卒業後は、彼は地元の公立中学、私は私立へと進路が分かれ、それっきり。大学生のとき、私のアルバイト先の近くのカフェで、同じくアルバイトをしていた俊輔と偶然の再会を果たすまで、初恋はおろか、こいつの存在すら忘れていた。


 昔の俊輔は、ただのチャラけたチビだったが、大人になって目の前に現れたこいつは、背もすっかり伸びて、整形でもしたのかと思うほど見目麗しく、且つ、逞しい男に変身していた。しかし、チャラいのは相変わらず。いや、年とともにさらに磨きがかかっている。


 だから、私が俊輔といまさら恋愛するなんて、たとえ無人島にふたりだけで取り残されたとしても、地球最後の日にふたりきりの生存者になったとしても、絶対に絶対に絶対にありえないのだ。



「そ、そんな大昔のこと、覚えてるわけないじゃない! それに、もうとっくに終わったことでしょ? 今まで一度も話にすら出たことなかったのに、いまさらなに言ってるの?」

「終わってもいねえこと、いまさらいまさら言うなよ。そもそも、俺はおまえと別れ話なんてした覚えねえもん」

「別れ話はしてなくても、卒業までお互い避けてたし、卒業したらそれっきりで会ってもいないし、自然消滅してるでしょ?」

「そうだったっけ? 俺は、自然消滅したつもりもねえけどな」

「じゃあ、なに? あんたは私たちが未だに付き合ってるとでも言いたいわけ?」

「違うの?」

「だったら今まであんたが付き合ってきた女の子たちはなによ? あれ全部、浮気ってことになるけど、それでいいわけ?」

「ふん。そんなの。おまえだって男何人もいたんだから一緒だろ? おあいこだよ」


 目の前にある半分飲み残したビールを、頬づえをついて、ニヤニヤと得意気に人の顔を斜めに見上げている俊輔の頭からかけて、そのついでにジョッキでぶん殴ってやりたい衝動を、私は必死に抑えた。


「ああーもう! あんたとこれ以上話してたら頭がおかしくなる!」


 忍耐力もここまで。もう耐えられないとばかりに頭を抱え、テーブルに突っ伏した。


 俊輔の熱い手が私の頭に乗り、髪を撫でている。それと同時に、そうかそうか、泣くほど嬉しいかと、勝ち誇った声が降ってきた。私は強引に頭を上げてその手を振り払い、横目でキッと奴を睨みつけた。


「どうせ私がOKするまで、この話、延々続ける気なんでしょう?」

「さすが波瑠。よくわかってんな」

「……浮気したらぶっ殺すからね」

「するわけねえ。俺が一途なのは、知ってんだろ?」


 ああ言えばこう言う、こう言えばああ言う。OKの振りでもして適当にお茶を濁し、この話題を途切れさせられればと思ったのに、このままだと、未来永劫減ることのないこいつの口との戦いが、また始まってしまう。


「あーーーっ! もうやめ! 帰るっ!」

「帰る? 帰るにはまだ時間早いよな。どうする? とりあえずホテルでも行っとく?」


 今、何を言われたのかを頭で理解する前に、私の本能が俊輔の顔を目掛けて勢いよく繰り出した拳を、奴が反射的に受け止めた。


「冗談。俺、いくらなんでもそこまでがっついてないって。でも、せっかくだから、とりあえず、キスくらいしとこうかな?」


 そう言って迫ってくる奴の顔を、掴まれていない方の手で押し返したが、その手もあえなく掴まれてしまい、もう逃げ場が無い。


「初めてでもないんだから、そんな顔するなよ」


 軽い溜め息をつきながら発せられたその一言は、私の遠い記憶を呼び覚ますのには十分だった。



 そう、私たちは一度だけ、下校途中の公園で、キスをしたことがある。


 小学五年、十一歳の私たちは、身も心もまだ純粋無垢。あのときのキスは、恋愛の何たるかも男と女の秘事も何も知らなかった私たちが、ただ、より深く、心を通わせるためだけの幸せな初めてのキス……。



 目の前に迫りくる俊輔の顔を見て、私は半ば諦めの境地で瞼を閉じた。ふたりの熱い吐息と唇が重なり、侵入した彼の舌が、逃げ切れない私の舌を追い詰め絡みついてくる。


 遠い過去に取り残され思い出されることもなかった触れるだけの可愛いキスは、こうして今、濃厚な大人のキスに塗り替えられた。


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