人が死んだ

 夢は見なかった。

 開かれたカーテンから見えるのは、秋晴れの爽やかな青空だ。ちゅんちゅん、と相変わらずの雀の鳴き声。「おはよう、オーリ」相変わらずの陽香の侵入。何も変わらない、いつも通りの朝である。


「おはよ。早いな」

「ん、なんか早起きしちゃってね」


 そう言うと、いつものように俺の椅子に逆向きに座る陽香は、ぐ、と伸びをした。そして、「くしゅんっ」とくしゃみをひとつ。


「風邪ひいたか」

「かな」

「珍しいな、陽香が風邪ひくなんて」 


 ちら、と陽香が横目で見つつ、


「んー、恋の病ならもうずっと罹ってるんだけれどね、不治のやつに……」


 声に元気がないように感じる。いつものはきはきとした口調ではなく、まるで気分が沈んでいるかのような、そんな声だ。

 

「ねー、オーリ?」

「うん?」

「私は、あなたが好きよ」


 ボーっと熱に浮かされたような瞳。陽香の告白。


「ああ、知ってる」

「性的な意味も含めて、好き」

「うん……」

「あなたが望むのなら、いつでもいいからね。受け容れる準備はできているから……」

「望むって、なにをだよ」

「オーリの、すけべ」

「なんでそうなる……」

「だって答えの分かっている質問をするんだもの。私の口から卑猥な単語を吐かせるために……」

「……ああ、もういい。もう大丈夫。言わなくても」

「セックスを」

「言わなくてもいいのにっ」


 そこまで言うと、陽香はこめかみに手を当てる。


「はーあ。なんかホントーに風邪かも……頭痛いし、ぐらぐらするし……」


 手は額へと移動させ、気怠そうに陽香は首を振る。顔も心なしか紅潮しているようにも見えた。


「熱、あるんじゃないか」


 ベッドから立ち上がり、陽香の傍へ寄る。「うつっちゃうわよ」という彼女の言葉を聞き流し、その額に手の甲をあてる。


「……どう?」

「あっつい」


 陽香は熱を出していた。


    ◇


「いってらっしゃーい……」


 熱を測ってみたら38℃を超えていたとのことで、本日陽香は休みである。


「ゆっくり眠るんだぞ」

「うん、オーリの布団借りるね」

「自分の布団の方が眠りやすいだろ」

「弘法筆を選ばずって言うでしょ」

「言うけど……今の状況とは関係ない」

「むしろ捗るのよ。私に筆はないけれど」

「今の状況とは関係ないっ」


 熱のためかは知らないが、彼女の言葉はいつも以上にブレーキがかかっていない。


「ふふ、冗談だから……行ってらっしゃい」

「お大事にな」


 マスクと寝間着姿の陽香は、「あ」と言葉をつづけた。


「ちょっと聞きたいんだけどね、オーリ」

「ん?」

「死んだほうが良い人間って、いると思う?」


 朝の登校前に何げなく聞くには少し重すぎる気もするその質問に、俺は返答に窮してしまった。どう答えればいいのか、すぐには分からなかった。冗談と捉えて冗談で返すか、真剣と踏まえて真剣に答えるか……


「いる、かもしれない。ただそれは絶対じゃなくて、個人の認識で変わる」

「……ふーん。人によるってこと? 誰かがなんとも思わない人間でも、他の誰かにとっては死んだ方が良いって強く思っちゃうみたいな」

「そういうこと」

「じゃ、もひとつ聞くわね。オーリ、あなたには死んだ方が良い人間はいる?」

「……どうしたんだ、陽香」

「答えないなら答えなくてもいいわ。熱に浮かされている私の、どうでもいい質問に過ぎないから。でも答えてくれたら……そうね、いーことしたげよっかなぁ、私もハジメテじゃあるのだけれどね……」


 妖しく笑い、陽香は唇に自らの人差し指をあてた。紅潮する頬もあいまって、なんだか艶めかしく見えてしまい、俺は彼女から視線をそらしてしまった。そらして、答えた。


「俺にはいないよ」

「そ。行ってらっしゃい」


 彼女に見送られ、俺は登校を開始した。


    ◇


 登校中、何もなかった……とはいかなかった。


 昨日、俺と陽香があのスーツ姿の男性の探し物を手伝った公園が、やけに慌ただしかったのである。パトカーが数台停車し、制服を着た警察官がたくさん。公園の入り口には立ち入り禁止の黄色いテープが張られ、その奥はよく見えない。朝っぱらだというのにちらほらいる野次馬を追い払っている警察官の横を通り過ぎる際に、俺はちらと公園の奥を見た。


「あ……」


 昨日、スーツの男が座っていた場所のベンチ周辺が、ペンキをぶちまけたかのように染まっている。何色のペンキかと問われれば、赤色、というほかない。

 そして横たわる、シートを被せられたナニカ。

 それは何かと言われれば、


「やあ、つい最近会った気がする少年ではないか」


 そう言われ、見るとダンディズムがいた。立派なヒゲを蓄えたスーツ姿の偉丈夫が、にっこりと笑顔を浮かべて俺を見ている。


「何が起こったんですか」

「……殺人、らしいね」


 神妙な表情で、ダンディズムが言った。

 なんとなくは分かっていた。

 あそこにあるのは、死体だ。

 それも、たぶん、俺が知っている人物。


『死んだ方が良い人間って、いると思う?』


 さっきの陽香の質問が脳裏によぎる。あの死体……いいや、俺にはあの人が死んだ方が良いような人間には思えない。むしろ悲劇に押しつぶされていたような憐憫が湧いた。ロケットペンダントの中にしかいない妻と娘を眺め、どうしようもない気持ちで生きていたであろう彼の……


「今日は、きみのガールフレンドといっしょではないのかな?」

「熱出して休みです」

「ほう、それはお大事に、だねえ」

「すみませんが、俺は学校に行くので」

「そう、そうだね。学ぶこと、それが若者の本分というものだ。引き留めて済まなかったね、くれぐれも気を付けて登校したまえよ」

「あなたは、いいんですか。その、出勤とか、しなくても」


 俺はそう尋ねる。

 目の前のダンディズムはその恰好から見ても、勤め人、ではあるのだろうから。


「大丈夫。私はある意味無職みたいなものだ」


 なんだかとても悲しいことを聞いてしまった気分になった。


「きみ、生きようとすることは何も恥ずべきことではない。人が生にしがみつくのは無意識にしろ意識的にしろ当然であって本能が強制させている行為なのだからね。きみの行動は間違っていない。きみの拒絶は生きた人間である証明だ」


 ある意味無職のダンディズムのそんなよく分からないエールを受けて、俺は「は、はい……」という困惑を返すことしかできなかった。

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