夕暮れだった
廊下に、窓ガラスの影が落ちている。
全体がほのかに橙色となっている校舎内は、やはり人気がない。みんな早々に帰宅、もしくは各々の活動へと向かっていったようだ。
一年A組、B組……俺のクラスであるC組、D組と歩いたところで突き当りとなった。どこの教室も空っぽ。教室の中を覗き込むも、人っ子一人いない。不気味なほどの静けさだ。まるで、切り取られた空間に自分一人だけが取り残されたかのような気分に陥る。
「あら、どうしたの?」
廊下の突き当りから引き返そうとしていると、探している当の陽香が現われた。西日に照らされ、茶色いサイドテールがつややかに光っている。
「探してた」
「探して……あー、あの美人さんの転入生さんをなのね。もう一度そのご尊顔とピンクのパンツを拝ませてもらうぜグヘヘ、ってところでしょ、ふんっ。あたり?」
あたってない。
陽香は不機嫌そうにジト目をしている。近泉の言う通りの様子である。
「ハズレ、だ。それにグヘヘって、俺にどういうイメージを持ってるんだよ」
「初対面の相手のパンツの色について言及する変態」
「おお……」
事実といえば事実であった。
「ま、オアソビの会話はもういいわ。で、実際のところは誰を探してたの?」
「お前だよ」
「あら、私だったの?」
「ああ」
「ふーん」
興味なさげに言うと、陽香は微かにニヤリと笑い、言う。
「なんで?」
「近泉に言われたんだ、陽香が不機嫌だからどうにかしろ、って」
「サキにねぇ……んー、別に不機嫌じゃないんだけどなあ。オーリがあの美人貧乳桃色下着の転入生に目を奪われていた事実について憤りを覚えていただけなんだし」
ふん、と鼻を鳴らす陽香に、
「それを不機嫌っていうんだよ」
苦笑し、俺はそう言った。「あら、そう」と陽香は冷めた表情。
そうして、一拍か二拍か、それぐらいの静寂が俺たちの間に訪れた。
「……ねえ」
「うん?」
「放課後の校舎って、綺麗だと思わない?」
「なにを、いきなり」
「あんなにたくさんいた生徒たちがみーんな一斉にいなくなって、残ったのは夕暮れと空っぽの校舎だけ。魅力的だわ。私はこの時間が好き。オーリの次の次の次ぐらいに好き」
夕暮れに相応しい涼しげな表情で、陽香は窓外へ視線を移した。そこは中庭で、一棟の時計台が聳えている。まだ建てられて数年ほどの、名のある芸術家がデザインしたらしいその時計台は、周囲と同じく夕暮れに陰っていた。
「時間は限られている。青春の時間は有限よ。私たちの若さには寿命があるの」
時計台を眺め見て、陽香は言う。まるで自らに言い聞かせるかのようなその言葉に、切実、という単語が浮かんだ。
「感傷的だな」
「それはきっと、今が夕暮れだから。ねえ、オーリ?」
身体は時計台の方を向いたまま、視線だけをこちらへ寄越し、陽香は薄く笑った。彼女はいつもは快活に、言ってしまえば子供っぽい笑みを浮かべることが多い。今のような大人びた、なにか考えがあるような笑みの仕方はあまり見たことがない。彼女はこれからなにか重要なことを言うのかもしれない。そう思ってしまうのは、この場の静けさと黄昏の為だろうか。
「おっきい胸と小さい胸、どっちが好き?」
誰だ、『彼女はこれからなにか重要なことを言うかもしれない』とか神妙な表情で考えていたのは。
「答えて」
「……強いて言えば、大きい方」
本心だ。嘘はついていない。
「……完全にペケではないけどマルは与えられない、そんな答えね。サンカクよ」
「どうしたらマルになる?」
「『そんなもの、お前の胸以外に考えられない』、かしらね」
「な、なるほど……」
「二択を提示されて二択の中で答えを選んでしまうのは、初心者が陥りがちなミスだわ。まだまだね、オーリも。選択肢というものはね、二択を迫られているように見えてその実、三択目が存在するの。それが正解か不正解かはさておいて、ね」
「初心者ってなんだよ……」
いったいなんの初心者であるのか。
「れ、ん、あ、い。そんなんじゃいつまで経ってもモテないわよー」
「それは……困るな」
「困らなくていいのに」
「けどさ」
「私にはモテてるでしょ? それ以上を望むのは欲が深すぎるのではなくて?」
「なんでお嬢様言葉……」
「あら、それはそれはごめんあそばせ」と陽香は微笑んだ。意外と、お嬢様言葉も似合っている。新発見だ。言動にさえ目をつぶれば彼女は気品ある雰囲気を放っているのかもしれない。
「男であるからにはさ、モテたいって欲望はあるよ」
「私以外にモテ始めようものなら……」
にひひ、と陽香は悪い笑みを浮かべた。
「あなたを好きになった女の子のその見る目の良さにサンジをおくるわ。オーリを好きになるなんて、あなた見る目あるわね! 死になさい! ってな具合にね!」
自慢げに快活に、陽香は言い切った。なにか物騒な一言が混ざっていた気がするが、まあ冗談だろう。そして言葉の終わりに間髪入れず、俺の腕をとり、抱き締めて、俺の瞳を見上げて言う。
「でも、あげない。オーリは渡さない」
太陽のように明るい笑顔で、彼女は独占の意を示す。その笑顔の向こう側から、夕陽の陰りが迫っている。そう経たずに陽が暮れ切ってしまう。
「だって一番最初に好きになったのは私なんだもの」
「そうか……」
「……でもね、オーリの意思だって尊重するつもりだから。あなたは一人の人間。意思により選択する人間なんだから」
そう言う彼女が浮かべるのは、慈しむような笑み。笑みの種類がころころと変わる、彼女といると退屈が逃げてしまう。
「陽香……」
「でも、ね、オーリ。これだけは覚えておいて」
「うん?」
「私を捨てたらハッキョーするから」
ハッキョー。発狂。意、狂うこと。
そう言う陽香は、にんまりと笑う。朗らかな冗談口調である。
「怖いな、それは」
「怖いでしょ? 怖いでしょっ。だからあなたは私をお嫁さんにするべきなの。だって私は────」
遠くから聞こえてきた夕焼け小焼けのメロディが、彼女の台詞を中断させる。
時期的に言えば、今はちょうど午後五時。
「帰らなきゃいけないわ。もうすぐ今日が終わるから」
つま先立ちでくるりと軽やかに振り返り、陽香は言った。「ほら、帰りましょう?」
そうして、俺たちは帰宅した。
途上、なにもなく、なにも起きなかった。言い換えれば平穏無事に、俺と陽香はそれぞれの我が家へたどり着けたのである。いつも通りに一日は終わったのだ。
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