第2話 病院

「ぅ……ぁあ! ハァ…ハァ…ハァ……」



 まるで、悪い夢でも見ていたかのような気分に襲われた。


 苦しい。

 以前、貧血になったことがあるが、今はまさに、そのような感覚だった。反射的に呼吸が荒くなり、身体中が酸素を求めているのを感じる。全身が痺れている。

 思わず心臓に手をやると、いつもはドクッ、ドクッと波打つように一定のリズムで感じるというのに、今に限って、その鼓動はとても弱々しいもののように思えた。

 意識が朦朧とする中、起き上がるなんてとてもじゃないが出来ない。


「ハァ…ハァ…ハァ…ハァ……」


 しばらく、まともに思考を巡らすことが出来ず、ただ呼吸をするためだけに、身体に残った少ない体力と精神力を削る。

 そして漸くーー呼吸も落ち着きを取り戻し、鼓動も今までのように、ドク、ドク……と、いつもより速いペースでありながらも、正常に動いていた。


 そこで彼女は、今自身が置かれている状態の異常さに気がついた。

 全裸の上に置かれた一枚の白い布。部屋は薄暗く肌寒く。驚きと恐怖で今にも凍え死んでしまいそうに感じる。

 今思い出せる一番新しい記憶はーーそうだ。トラックに轢かれた時のことだ。


 此処は何処だろう、と辺りを見回す。

 霊安室のようにも見えるが、まだ遺影も蝋燭も置いていなかった。死後は身体の穴に何かしらの詰め物をすると聞いたことがあったが、それもない。

 ……少し待っていれば、看護師が来るかもしれない。



 理沙はゆっくりと台から起き上がると、布の下から自らの身体をまさぐった。

 指に、縫われているような感触がした。押すと少し痛い。

 この部屋に監視カメラはないのかと、まだぼんやりとした視力のまま天井を見るが、そこにはただ無機質な四隅があるだけで。唯一の光源たる蛍光灯しか目につかない。

 首を回してみると、コキリと嫌な音がする。相当久しぶりに動いたのか、身体の節々が痛い。


 そのまま台の上でストレッチをしていると、案の定、看護師数名がカートを引いてやってきた。




「あの……私、生きてるんですけど」


「え、えっ……?」



 それからが理沙にとって一番の修羅場だった。


 まず、やってきた看護師がまるでこの世のものではない存在を見てしまったかのように、悲鳴を上げたのだ。少なくとも、彼女達はそう思ったのだろう。

 一応理沙は、自分の知る限り、紛れもない生者である。

 看護師達はすぐに落ち着きを取り戻し、中でも一番年上だろうと思われる女性が、理沙に上着を持ってきてくれた。



「大丈夫ですか? あぁ……穴を塞ぐ前で良かったわ……」


「穴ってやっぱり……」


「中の物が出ないように、口や鼻、耳まで塞ぐのよ」


 ーーうわっ。ギリギリのタイミングじゃん。

 三人いた看護師の内、一人は医師を呼びに行ったようで、二人が部屋に残っている状態だった。彼女達は理沙の顔色や体調を伺い、何度も何度も謝ってくる。


「本当にごめんなさい。死亡確認を怠っていたこちらのミスよ」


「い、いえ……私は別に構いやしないんですけど……」


「すぐに保護者の方に連絡を取るわ。きっと、きっと喜んでくれるはずよ」



 その後、すぐさま病室に戻され、何時間もかけて数人の医師による身体検査が行われた。

 結局この日眠りにつく事が出来たのは朝の六時だというのに。



 若狭 一葉はいつになっても、病院には来なかった。




 ***




 東京都 小笠大学病院 特別病室



 一ヶ月。

 理沙は目を覚ましてから、目紛しい生活を送っていた。豪華で大きな一人部屋に移され、看護師に希望を言えば、何だって好きなものを持ってきてくれた。

 その代わりのつもりかは知らないが、一日に何度も血液を採取され、理沙の精神は今まで以上に磨耗していた。彼女にとってこの世で一番恐ろしいものは、幽霊でも宇宙人でも暗闇でもなく、注射針なのだ。


「えっ。ちょっと待ってくださいよ。絶対に嫌ですからね! もう嫌ですからね!」


「我儘言わないでください。血液採取しますよ」


「嫌だ! 嫌だってば!!」


 と毎回看護師と攻防を繰り広げるのだが、いつも無駄に終わっていた。

 無機物を身体の中に差し込むなんて、どうかしている。もしもタイムスリップが出来るならば、注射針を開発した人間を殴り殺してやりたいとさえ思った。


 看護師との格闘と恐怖によって荒んだ理沙は、保護者の存在を求めた。


「……若狭先生は来ないんですか?」


「来られないそうですよ」


「……そうですか」


 一ヶ月も経ったのに、孤児院の院長も、友達も、先生も、誰一人として見舞いに来ない。手紙や見舞いの品も届いていないという。

 そんなに自分は無価値な人間だったのか、と心の隅で思うのと同時に、看護師達への不信感が湧き始めた。


 確かに看護師達は、理沙の望む物ならば何だって持ってきてくれた。

 しかし、テレビや新聞、インターネット等、外部と繋がりを持つための道具を、一切理沙に与えないのだ。何か具体的な理由を述べてさえくれれば、理沙は小説や参考書だけの生活に文句を言うつもりはないのだが、いかんせん、いつも誤魔化される。

 彼等は何をしたいのだろう。

 そう思う度に、今の生活への不安が大きく膨らむのだ。



 そして、もう一つの懸念。



「どうも。担当医師の山城です。身体の具合はーー」



「おはようございます。担当医師の佐藤です。新しい薬を投与したのですがーー」



「初めまして。担当医師の城之内です。今日からはもう少し本格的にーー」



 担当医師が高頻度で変わる。

 一週間続いた医師もいれば、一日で変わってしまった医師もいた。あえて看護師に事情はきいていないが、何か並々ならないということは、鈍感を自称している理沙にでも分かる。

 自分に何か特別な力があるーーとは思わないが、理沙は、自身の身体に『普通ではない何事か』が起こっているのだろうとある程度確信していた。

 そこである日、新しく担当となった北条医師に、


「あの、すみません。私がこんな長期間入院しないといけない理由を、好い加減教えていただけませんか」


「実は私も、詳しく聞かされてはいないのです。……そうですね。そろそろでしょうか」


「何がですか?」


 彼は視線を左に逸らし、数秒考えた後、苦笑を浮かべながら、看護師には聞こえないよう、呟くように言った。


「そろそろ、私の上司が貴女を迎えにやってきます。そうなれば、今よりも窮屈にはなるかもしれませんが、退屈は凌げるでしょうね」


「……よく、分からないんですけど」


「私も詳しくは言えないんです。そもそも私は、それ程多く情報を貰える立場でもなくて」


「……そうですか」


 嘘をついているようには見えなかった。

 しかし、何か申し訳なさそうに、理沙の顔色を伺ってくる。そしてしばらく静寂が続く。医者と無言で見つめ合うというのは、あまり気持ちの良いものではなかった。


「もう良いですか?」


「すみません。では、私は今日はこれで」


 最後に彼は、理沙へ向けた顔に一瞬哀れみを湛え、部屋を出て行った。


 一人ぼっちとなった理沙は、ベッドの上で大きくため息をつき、自分の両手を見つめる。

 ーーどうやらこの病院の医療関係者は、インフォームド・コンセントという言葉を知らないらしい。

 ーーこれ、警察行ったら訴えられるんじゃない? 傷害罪とかでさ。

 しかし、この部屋から出る事は出来ない。

 以前、試しに立ち上がり、ドアの向こうへ旅立とうと試みた理沙だが、現代技術の結晶『鍵』によってその壮大な計画は阻まれた。おまけに、部屋の角をよくよく見てみると、監視カメラのようなものまでも置いてあった。

 無論、理沙はカメラを取り付ける許可など微塵も与えていない。プライバシーの侵害でも慰謝料を取ることが出来そうだ。

 そんなことを考えながら、今日も無駄な一日が終わる。何がある訳でもない。何を手にいれる訳でもない。


 今日一番の収穫は、北条医師の台詞だろう。

 上司の迎えとは一体何なのだろうか。




 ***




 それから一週間が経った。

 理沙の担当は変わらず北条医師で、今までの医師達とは違い、まともなコミュニケーションの取れる人種だったことに、理沙は心から喜んだ。これまで彼女に関わってきた医師達は皆、極力彼女との接触を避けたいようで、話しかけたり話題を振ったりしても、まともに取り合ってはくれなかった。しかし北条医師は、理沙の下らない愚痴に付き合ってくれたし、仕事があるからと早々に切り上げることもなかったし、理沙に、実験動物を見るような目を向けることもなかった。

 多くのことを隠されていると分かっていながらも、理沙は北条医師との会話にほのかな安心感を感じていた。人とのコミュニケーションを心の糧の一つにしている人間にとって、自分と接してくれる人間は何よりも貴重だ。


「明日、私の上司が来ます。今日は私と貴女が会える最後の日です」


「貴方が担当なら、もう少しくらい我慢してやっても良いと思っていたんですが」


「前々から決まっていたことです。……明日は、貴女の人生を大きく揺るがす事を告げられるでしょう。しかし、必ずしもそれが、貴女にとって良いこととは限りません。今後のためにも、前向きに受け取ることを推奨します」


「……そうですか」


 彼の言っていることはよく分からない。

 北条医師の上司とやらは、理沙が何故病院に缶詰だったのかを教えてくれるだろうか。ちょっとした病気や怪我程度で、ここまで大事にはなるまい。ましてや、彼女はただ事故に遭っただけなのだ。


 その後、北条医師は理沙に別れを告げ、病室を後にした。

 ベッドの脇にあるお見舞いの胡蝶蘭は、北条医師が生けてくれたものだ。

 ーー何だか、少し寂しいな。


 ふとカーテンの開いた窓を見ると、丁度、夜の帳が下りてきた頃だった。




 翌朝。

 非常に憂鬱な目覚めだった。入院生活一ヶ月弱で、理沙の生活リズムは非常に健康的なものとなっており、九時消灯、六時半起床という定年後の老人のような生活を送っていた。病院食は不味いものと思っていたがーー部屋が豪華だからかは知らないがーー中学校の給食の三倍は美味である。

 本日も理沙は、塩分控えめ焼き魚、お茶碗一杯のご飯、漬物、青菜の炒め物、味噌汁、牛乳etcといったローカロリーな和食を口に運んでいた。

 入院当初は、身体は何処も悪くないから、とわざわざ来客用のテーブルとソファを使ってしていた食事も、一ヶ月経てば面倒になるもので、近頃は専らベッドの中で食べていた。もはや、この場所から降りることさえ、理沙にとって煩わしいものとなっている。

 常日頃ニートになって自堕落に暮らしていきたいと夢見ていた理沙だが、いざそれを強制されると、それは苦痛以外の何物でもなくなる。


 今日は、食事を運んできた無愛想な看護婦以外、誰も来ない。

 いつもは朝の九時頃になると採血に来るはずなのだがーーやはり北条医師の言っていた通り、今日は何かがあるのだろう。


 そう改めて確信した理沙は、まずは身だしなみを整える事から準備を始めた。

 この一ヶ月、医師と看護師にしか会わない事で完全に気を抜いていた理沙は、いつも髪や服は乱れていた。美人に産んでもらいながら、非常に勿体ない容貌に成り果てている。

 元々見た目に無頓着な性格なので、理沙自身は普段から気にも止めていないのだが、何か大事な事を聞かされるともあれば話は別だ。孤児院の院長である一葉はよく、「服装の乱れは心の乱れ」と言って、院の子供達がだらしなく振舞う事を許さなかった。

 結局、一度も来てくれなかった院長だが、理沙は彼女の事を尊敬していた。



 十時になった。

 身だしなみを整える作業は、一時間前に終わっている。


 ーー忘れられたか。


 そう思って、安堵と失望両方の入り混じったため息をつき、ベッドに腰掛ける。ふと、病室のドアが乱暴に二度ノックされた。相手は理沙の返事を待つ気はないようで、ノック音と同時に、ドアが開く音も聞こえた。


 看護師ではない。

 彼等はもっと、理沙を丁寧に腫れ物のように扱う。


 理沙が驚いて立ち上がり、客人の姿を目に捉えた頃には、既にこの大きな病室に四人の人間が佇むという光景が出来上がっていた。

 黒服の客人は三人。二人はまるでマフィアのようにいかつい顔をした外国人。スーツの上からでも、その筋肉隆々さが、威圧感と共に伝わってくる。そしてもう一人はーー



「お前が佐々木 理沙か。……どんな奴かと思っていたが、案外普通だな」


 理沙を見て鼻で笑ったのは、日系の容姿をした男だった。しかし、瞳は透き通るような綺麗な緑色だ。


「俺は犬飼 猛イヌカイ・タケル。国際連合の者だ」


 犬飼と名乗ったーー名前からして確実に日本人だーー男は、唖然とする理沙を一瞥すると、彼女が看護師達に頼んで運び込んでもらった本の山に目を向け、その一冊を手に取った。


「『人間的な、あまりに人間的な』。……ニーチェか」


「哲学が、好きなんです」


「俺は嫌いだ。哲学や倫理みたいな、答えのない抽象的な存在が気に食わない。お前みたいな、白とも黒とも言えない、非常に不安定な存在もな」


「……どういうことでしょうか」


 理沙が呟くように問いかけると、犬飼は眉を上げる。


「お前、事故に遭っただろう? しかもその原因が、子供を助けるために飛び出した、なんて……嗚呼、殊勝過ぎて吐き気がする」


「……」


「俺はお前みたいな優しい善良な人間が嫌いでな」


「ならご安心ください。私は偽善者ですので」


「フン、”自称”善人よりかはマシか」


 すると犬飼は乱暴に本を捨て置くと、そのままソファに腰掛け、偉そうに足を組んで背凭れに凭れかかった。あまりに傲慢で、上品とは言い難い言動に、理沙は思わず眉を潜める。


「国際連合の方が、私に何の御用ですか」


「……お前の血液中には、とある特殊な細胞があった。まだ研究段階だが、恐らくそれは、『死んだ細胞、衰えた細胞を再生する能力』を持つ」


「……すみません、もう一度言っていただけますか?」


「しかし、どうやら耳は悪いらしい。書類を見せてやる。おい」


 すると、待ち構えていたかのように、黒服の一人が理沙に書類の束を渡してきた。一言礼を呟くと、彼女はそれに目を通そうとするがーー


「英語、ですか」


「不満か?」


「今時、日本語対応してないなんて不親切ですね」


「頭が良いと聞いていたから、わざわざ用意なんてしなかったんだ。……分からないなら良い」


 犬飼は口頭で説明し始めた。


 理沙は事故に遭い、一度死亡が確認されたが、その数時間後に蘇生した。

 驚いた医師達が身体検査をすると、血液に未知の細胞が複数体存在していた。

 病院は国営病院経由でそれを国に報告し、やがてそれは国際連合附属の研究機関「世界保健機関(WHO)」に届けられ、今日まで研究が続けられていた。


 その三点をーー簡潔に言えば良いもののーー皮肉や不満、悪口を織り交ぜた、非常に気分が悪くなるような言い回しで、彼は口にした。

 話が終わった瞬間、非常に理沙の機嫌は悪くなっており、文句を言う気もあっという間にしぼんでいた。


「お前の存在は、常任理事国のトップ達の中では周知のものとなっていてな。連中は日本にお前の引き渡しを要求した。連合の特殊研究施設でお前を匿い、研究するためにだ」


「は……はぁ」


 ーーどうも現実味が帯びてこない。

 怪訝そうな表情のまま、理沙は犬飼の話を聞き続ける。


「どうせ引き渡すのなら、日本もタダでは渡したくなかったらしい。何せ、研究すれば不老不死になれるかもしれない・・・・・・・・・・・・・・んだからな。よって、交渉が長引いた。最終的には、今後日本が常任理事国と同じ待遇、権限を持つこと、そして各国が多額の金を払うことで、お前の貸し出しが認められた」


「貸し出しですか」


「そうだ。国からしてみれば、世界からしてみれば、個人は所詮『もの』だ。ヒューマンライツのへったくれもないだろう? そんなものは、巨大な権力の前では無意味なんだ。お前に拒否権はない。逃げようなんて考えるなよ」


「……」


 逃げるつもりはない。

 逃げた所で保護してくれる人間もいないし、世界の手から逃れようなんて考える方が馬鹿げている。そんなことよりも理沙は、一葉や友人達が見舞いに来なかった理由を知れたことで、ほんのりと喜びを感じていた。

 ーー彼等は、私が死んだって思ったままなんだ。

 嫌われた訳ではない。そう確信出来ただけで理沙は十分だった。


「身分証を……」


「何だ?」


「貴方の身分を証明する物を見せてください。そうしたら、貴方に従います」


「良いだろう。ほら」


 そう言って犬飼が理沙に渡したのは、首から下げるタイプの身分証。

『WHO』と青文字で書かれたプレートには、犬飼の写真と名前、役職が載せられていた。理沙の高校生レベルの英語力では、この役職がどういう意味かは分からない。しかし、わざわざ理沙の迎えに来させられたということが、日本人であること以上に、彼が重要な、信頼に足る役職についていることの証明となっていた。


「犬飼さんも、『WHO』の職員の方なんですね」


「副事務局長だ」


「偉い方なんだ」


「……お前の管理は俺に一任されている。お前、傷くらいならすぐに治るんだろう? 少しでも気に食わない事を言ったら、女でも殴るからな」


 眉一つ動かさず淡々と言う彼の姿は、理沙を気後れさせるには十分だった。

 そして彼は言葉を続ける。


「お前を『WHO』の研究施設へ連れていく。今から一時間半後のフライトだ」


「国は? スイスですか?」


「わざわざ本部で匿うか。アメリカ、ニューヨークだ。下手に人のいない僻地よりも、警備のしやすいニューヨークにという事で、一昨年、新しい施設が建設された。図書館までなら一般人も入れる、開放的な場所だ」


「わ、私が言うのも何ですが、大丈夫なんですか?」


「今の所、お前の情報は外には漏れていない。また、一部の職員を除き、お前のことは『新しい毒の耐性持ち』のとだけ伝えておく。下手な接触はないだろうが、お前も誰かに聞かれたらそう答えろ」



 ***



「政府のプライベートジェットですか」


 あの後、着替えを渡されすぐに車で運ばれたかと思えば、理沙は成田国際空港へと連れて行かれた。病院の職員達には奇妙なものを見るような目で見られた覚えがしたが、それは決して理沙が異様な様相をしているというのが理由ではない。脇にいる二人のボディガードの姿に驚いていたのだ。

 一ヶ月ぶりに外に出たは良いものの、孤児院に帰られる訳でもなく、友人や院長に会える訳でもない。黒塗りの高級車に押し込められたら、そのまま一時間ほど、理沙は沈黙を我慢する羽目になってしまった。コミュニケーション能力が人よりも格段に勝る理沙ではあるが、犬飼とはどうも馬が合わなさそうだ。一言何か言えば、揚げ足を取られた上で馬鹿にされる行為を、理沙はコミュニケーションとは呼ばない。また、そのようなことをしてくる友人や大人にも、彼女は幸運なことに恵まれなかった。彼が何故出世できたのかが謎であるーーいや、日本が縦社会なだけかもしれない。


「嫌なら別に構わない。八時間、必死に右翼にでもしがみついてろ。どうせ死なないんだろ」


「いえ。喜んで乗り込ませていただきます」


「フン」


 理沙はこの数時間で学んだ。世の中、自分に対して好意的な人間だけではない、ということを。それを知ることは生きていく上で大切なことなのかもしれないが、もう少し自分の精神にダメージのない範囲で学びたかった。


「すぐに離陸する。ほら、一冊持ってきてやったぞ」


「え?」


 そう言って犬飼が手渡してきたのは、『善悪の彼岸』だ。


「好きなんだろう? ニーチェ。あの本の山の中でも、一番多いように感じた。文句一つでも言ったらぶん殴るからな」


「……えぇ。ニーチェは好きです。ありがとうございます」


 ーーなんだ、少しは優しい部分もあるじゃないか。

 理沙は本を受け取ると、小さく笑って、彼の後に続いて飛行機に乗り込んだ。人生初の飛行機がプライベートジェットなのも乙だが、貧乏根性の抜けきっていない理沙からしてみれば、エコノミークラスで満足だった。そもそも、空を飛ぶということ自体初めてだったので、彼女にとってこの日は、北条医師の言う通り、人生の岐点だった。


 良いこととは言えない。しかし全てを、肯定的に受け止めることにしよう。

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