私の細胞は、どうやら人類の夢らしい
カドナリリィ
第1話 事故
世間は、行楽シーズン真っ只中。
テレビを付けると、常に何処かしらのチャンネルが、紅葉の綺麗な山の紹介や、有名パワースポット、絶景10選と、秋特有の見飽きた番組を放映している。
旅行会社は今が盛りとばかりに、外国人観光客向けの「日本の美しい秋を観光しよう!」とゴシック体の豪華なプランを立てるため、少し有名な行楽地や大きな公園に行けば、数多くの外国人の姿を拝むことが出来るだろう。
そんな、秋晴れのある日のことだった。
佐々木 理沙は人生初の学園祭の準備を終え、家路についていた。
有名私立高校の制服を身に纏うも、その爽やかな服装と反比例するように、少し憂鬱げな表情を浮かべている。まだ緑の残った木々が、覗き込んでくる太陽の光を受け、歩道に点々と絵を描いていた。
彼女は大きな歩道の、黄色い点字ブロックの内側を歩きながら、物思いに耽っていた。
ーー成績が伸び悩む。
二学期の中間考査の成績が著しくなかった。
孤児院にいたが、幼い頃から頭が良かったため、院長より庶民的な英才教育ーーテキストを特別に買い与えられる、塾に通わせてもらえる、人よりオヤツが多く貰える等ーーを受けさせられていた。それが影響したかは定かではないが、彼女は人と比べると頭一つ抜けて賢かった。
しかし、それはあくまでも市立中学時代での話であって。
専願入試で偏差値の高い有名私立高校に合格し、全額免除の奨学生にまでなったは良いものの、同じレベルの人間の多さにストレスを感じていた。
今まで利口だ、秀才だともてはやされた身で、勉強における劣等感を感じたのは生まれて初めてだ。不幸なことに、彼女は劣等感をバネに伸びるタイプの人間ではなかった。
ーーどうせ奨学金は何処行っても貰えたんだから、もう少しレベル落とせば良かったかなぁ。
進学出来れば何処でも良かった。高校卒業後は孤児院を出て就職する予定だ。中卒よりも、高卒の方が良い職に就くためには圧倒的に有利であることを理由に、彼女は進学を選んだ。
ーーでも、成績が下がったからといって、死ぬ訳ではない。
先生方は理沙を気に入り目にかけているし、友人も多く出来た。学園祭でも実行委員をやっている。人間関係に支障はないのだ。
そう。
放っておいても明日は勝手にやってくる。
今悩んでも何も解決しない。寧ろ、大抵の悩みは時間が解決してくれるので悩む必要はない。
ある意味ネガティブと取れなくもないポジティブな言葉を心の中に浮かべ、理沙はふと、顔を上げた。
理沙の通っている私立高校は、孤児院から徒歩十五分の所にあった。これが徒歩二十分ともなると電車かバスで行こう、と思い立つものだが、孤児である理沙にとって、余程遠くない限りは自らの足という移動手段しか選択肢がない。
この大通りは、理沙の通学路の一角であった。
人通りも車通りも多いため、今のような夕方の時間帯になっても明るい。しかし、頻繁に交通事故が起こし、市民からはあまり好まれていない場所だ。
ふと、十メートル程先で、ボールが転がっていくのが見えた。
ピンク色のゴム製のボール。
そしてその後に続いて、まだ五歳くらいにも見える幼い子供が走っていた。背を曲げ、夢中になってボールに手を伸ばしている。追いかけているようだ。
ーーあ。
呑気にそれを見ていた矢先、子供がボールと共にーー
それからの行動を、理沙は曖昧にしか覚えていない。
気が付けば重い鞄を放り出し、道路に飛び出して子供を抱きかかえていた。
あくまでも無意識下に行った行為だからかーー自分が庇ってどうなるのか、子供が死なないとは限らないのではないか、庇って怪我をした自分はどうなるのか、文化祭は、実行委員は、勉強はーーそんな人間特有の損得勘定は、一切頭に浮かばなかった。
”自分が動かなければならない”。
ただ、そんな脳に過ぎった訳の分からない使命感と、責任のない正義感に、彼女の身体は動かされた。
「はぁ……はぁ……」
荒い呼吸。
息を吸う度に、身体の何処かが鋭く痛む。嗚咽を漏らす余裕もない。
辛うじて保たれた意識の中で、彼女は、流れる赤い何かと、彼女の視線の向こう側で、怯え震える幼い子供の姿を目にした。
視界は徐々に、徐々に徐々に、どの強い眼鏡をかけたようにぼやけていく。世界が歪んでいく。
人の叫び声とサイレン音が、まるでテレビ画面の向こう側のもののように遠く冷たく感じた。
ーー嗚呼、私死ぬんだ。
ーーだけど、この子は、生きてる。
ーー助けられたんだ……良かった。
それだけ。
ただそれだけを心の隅に。
理沙は穏やかな笑顔を浮かべて、そのまま意識を手放した。
***
「手術をしないですって?!」
若狭 一葉は憤っていた。
『若狭孤児院』の院長である彼女は、数時間前に、自分の院の子供が交通事故にあったとの連絡を警察から受けた。子供達の保護者であり、良き理解者でもある彼女はすぐさま病院に駆けつけ、事故に遭った子供の下へとやってきた。彼女には子供達の食事の準備や、市役所に届けなければならない大切な書類の作成などと、仕事が山のようにある。それでも、彼女は”ある”子供のために動いたのだ。
今ベッドで横たわり、瀕死の状態に陥っているのが普通の子供ならば、彼女が医者を怒鳴りつけるまでに憤りを覚えることがあっただろうか。いや、あるはずがない。
しかし事故に遭ったのは、優しく、聡明で、将来有望な、彼女が一番目をかけていた子供ーー佐々木 理沙だった。
本来ならば大勢の子供の保護者として、私心を挟んで贔屓することはあってはならないのだろう。
それでも理沙は特別だった。
温かな春の日の夜、孤児院の前に捨てられていた理沙は、まだ赤ん坊だった。
親からの手紙もない。
したがって彼女の名付け親は、孤児院の子供達だった。『若狭孤児院』では、子供が、名のない子供に名前を付ける事は恒例となっており、彼女も名付けられた一人だったのだ。
理沙は、幼い頃から賢い子供だった。
大人の言いたいことや難しい本を容易く理解し、理論的な考え方が出来た。外見は社交的ではあったが、同年代の子供達とーー学校でも孤児院でもーー外では遊ばず、本を読んだり、問題を解いたりしていた。
それを見込んだ院長の一葉は、理沙に自己流の教育を施した。
彼女の欲しがる本や物を買い与えーーしかし、あまり我儘は言わない子だったーー沢山の参考書を買い、塾に行かせた時期もあった。
孤児院にいた子供達は、勉強よりも遊ぶ事が好きだったので、誰も彼女に対して文句を言う人間はおらず、寧ろ「可哀想に」と哀れられていたくらいだ。中学生にもなると、彼等は理沙の待遇の良さに皆気がついたようだが、後の祭りである。
理沙は一葉の望むように成長し、優しく、聡明で、美しい娘となった。
偏差値の高い有名私立高校に合格し、奨学生にまでなった。近所でも評判となり、市役所の担当の人からもお祝いと賞賛の言葉を彼女は貰った。
一葉はそんな彼女を見て、大きな達成感を感じていたのだ。
それは単純に、子供の成長が嬉しかっただけなのか、今後自分に返ってくる恩恵への喜びなのか、あるいはそのどちらもなのか、彼女自身でさえ分からない。
しかし、一葉は確かに、理沙を愛していた。
「何度も説明したでしょう、若狭さん。多量出血と全身骨折。それに内臓に大きな傷まで入っているんですよ? このまま手術をすると、佐々木さんの命が危ないんです」
医師の説明を受けても尚、一葉は顔を大きく歪める。
理想通りに育ってくれたのは良かった。優しい性格なのは良かった。しかし、自分の命を投げ打ってまで、人の命を救う子に育って欲しかった訳ではない。
人の命を助けるのは何よりも善いことだ。
それが、命を代償としたものでなければ。
「理沙……分かったわ。すみません、騒いで」
「大丈夫ですよ。……佐々木さんには、出来る限りの処置は施しました」
「……」
「貴女には非常に言いにくいことなのですが……佐々木さんは、本来ならば即死でもおかしくない……けれど、もう数時間も保たないでしょう。どうか、側にいてあげてください」
思わず一葉は、奥歯を噛みしめる。
ーーこんな残酷なことがあって良いものか。
ーーまだ子供なのに。まだ高校生になったばかりなのに。まだやりたいことだってあったはずなのに。
彼女は黙り込んだまま、医師を押し退けて理沙のベッドの脇に座った。
目を開けない少女の表情は、とても穏やかには見えない。顔の筋肉が何一つ動いていないにも関わらず、一葉には苦しそうに思えた。
「先生、この子が助けた例の子供は?」
「あの子も一応治療は受けましたが、擦り傷程度でした」
「そう」
今すぐにでも怒鳴りに行ってやりたい。
しかし、自分がいない間に理沙が息を引き取ってしまったら? そう考えると、もう此処から動くなんて行為は、彼女には出来なかった。
しばらくすると、医師はカルテを持って病室から出て行った。
重症患者だということもあり、理沙の病室は一人部屋。一葉はこれまで同様、理沙のために金を湯水のように使うつもりだった。
どんな手段を使ってでも良い。どんなに金を出してでも良い。また理沙が目を覚まして、自分に笑いかけてくれるのなら、何だってーー
一葉は理沙の手を握った。
まるで死人のように冷たい。けれど、心電図波紋や脈を表示するベッドサイドモニターは、確かに動いていた。
このモニターだけが、理沙はまだ生きていることの唯一の証明だった。ピクリとも身体を動かさない理沙の顔を見つめながら、一葉は小さな声で話しかける。
「本当、バカな子……私が貴女に、一体幾ら貢いだと思ってんのよ。もしかしてこれ、悪趣味なドッキリだったりするの?」
頭を撫で、理沙の黒髪を指で遊ばせる。
「どうせ、明日にはケロッとしてるんでしょ? 私、知ってるんだから。貴女が大型トラック如きにやられる程、ヤワじゃないって」
「昔っから怪我も病気もあんまりしなかったわよね。でも一回だけ盛大に転けて……そうそう、あそこは確か河原だった。子供達が連れ出して、号泣しながら帰ってきた時は驚いたわ。でも、あんなに大きかった傷も、二日や三日ですっかり癒えちゃって……」
「今文化祭の準備やってるんでしょ? 実行委員だなんて凄いわ。やっぱり理沙は、私の誇り」
「私が腹痛めて産んだ訳じゃないわ。でも、貴女は私の娘だと思ってるの。あの贔屓の理由……愛情が先だったのか、それとも見返りが欲しい心が先だったのか。今となってはよく分からないけど。卵が先か、鶏が先か、みたいな奴かしらね。考えるだけ無駄だとは思わない?」
「ね、理沙。明日には元どおりの生活を送りましょ。ね」
その言葉に、理沙が反応することはなかった。
一葉も分かっている。こんな状態で、話せる訳がない。
しかし、少しだけ。
一葉に握られた理沙の手が、指が、少しだけ、応えるかのように動いた気がした。
「理沙? 理沙?!」
ーー目が覚めたの?
驚きの余り立ち上がった時、
ピー
嫌な電子音が、モニターから聞こえてきた。
本来、血圧の数値を表示しているはずの場所が、「0」という数字を示していた。それがどういうことか。
一葉は一瞬で理解した。
理沙の脈が止まったのだと。
呆然と立ち尽くし、動揺するあまり、何も頭に浮かばない。
医師を呼ぶ、ナースコールボタンを押す、理沙を揺り起こす。
子供でも思いつく選択肢さえ一つも行動に移すことが出来ない。ただ、モニターから発せられる現実の音を、かき消すように、
「理沙!! 理沙!! 目を開けなさい!」
力の限りを声に乗せ、理沙に投げつけた。
手はもう動かない。
すぐさま医師と看護師は、顔を青くして駆けつけてきた。
そして未だ叫び続ける一葉を尻目に、担当医師と看護師は心臓マッサージを施す。既に肋骨は折れているのだ。心臓を再起動させるためには、手荒な手段も仕方のないこと。
心臓マッサージをし、電気ショックを与え、また心臓マッサージ。
その動作を五分以上繰り返すも、とうとう、理沙が息を吹き返すことはなかった。
再び脈を測り、完全に心停止したことを確認すると、医師は一葉を見ずに、腕時計を触りながら苦い顔で言い放った。
「……23時53分。死亡確認」
沈黙。
医師と看護師達は目を瞑り、患者の死を弔った。その中で、一葉はただ一人、碌に声を発する事もなく涙を流していた。
医療関係者にとってこのような光景は日常的だが、決して、慣れるものではない。
医師は心苦しさを感じながら、看護師達と道具を連れて、病室を出て行った。
「理沙……理沙?」
立ち上がり、乱暴に理沙の身体を揺らす。
しかし、返事も動きもしない。
「この親不孝者……私より先に逝くなんて、そんな……許さない……」
亡骸は応えない。
***
「本当に申し訳ありませんでした!」
気持ちを切り替えようと病室から一歩踏み出すと、一葉は、こちらに頭を下げる母子の姿を見た。知らない母子だ。
そして、何故か自分に対して謝ってくる。
ーー嗚呼そうか。
ーーこの子供がそうか。
母親は90度に頭を下げたまま上げようとしない。隣にいる五歳程の幼子は、母親の真似をしているのか、首を傾げながらもお辞儀をしている。
悲しみと、怒りと、殺意と。
沢山の負の感情が、一葉の中でせめぎ合っていた。
理沙が死んだのは、この子供が道路に飛び出したせいだ。理沙が死んだのは、子供から目を離したこの母親のせいだ。
しかし子供を助けることを選んだのは、理沙自身だ。
喉まで出かかった言葉を飲み込み、
「もう良いです。ただ……金輪際、私や理沙に関わらないでください。二度と、私や理沙の目の前に姿を現さないでください」
そう一息で言うと、一葉は足早にエレベーターへと向かった。
もう、何も考えたくない。
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