砂の涙ー3


 X先生の講演会から半年ほど前の晩春の夜だった。しとしとと降る雨が街を濡らしていた。

 東京の下町にある中華料理店・大龍の向かいに置いてあったポリバケツの横に若い男が倒れていた。ずぶ濡れで、黒いキャップを深々とかぶったまま‥‥。ヤクザな男たちの袋叩きにあって彼はいいかげんのびていたが、それでも涙はこぼれなかった。

 彼の目はガラス玉のようだった。人の心が透けて見える。途方もないクラゲの踊りが、幻のように浮かんでは消えてゆく。彼は腹をよじらせた。ボデーブローが効いたのではない。クラゲのゲゲゲが、シャレコウベの求愛のように愉快だったからだ。要は、ふられた女の哀れな復讐劇だった。『やつらはポリバケツに残飯を捨てに来たのだ。しかし、バナナの皮やビールの瓶にやつらは捨てられていることを知らない。なぜならば、やつらは塵の元だから。』彼はそう思って笑っていた。

 若い男は野良犬のように彼らを見つめた。空手の心得があったが、反撃はしなかった。致命傷を受けないように防御しながらリンチを受けていた。ヤクザな連中は蹴っても叩いても微笑している男にはじめて出会った。「気味の悪いやつだ。」最後には悪態をつき唾をはきかけて引きあげていった。彼は濡れたG服のポケットに右手を突っ込んだまま立ちあがろうとした。帽子が飛んだら自分の負けだと決めていたが、最後まで飛ばなかった。しかし、長時間叩かれ蹴られつづけたダメージは大きく筋力を上回っていた。彼は意識が朦朧として道端に倒れこんだ。


 行合覚(ゆきあいさとる)はK大の学生だった。キャンバスからの帰り道、ビニール傘をさし、スウェットシャツを着た格好でこれといった目的もないままに街をブラついていたのだが、夕暮れ時であり腹も減っていたので「ラーメンでも食おうか」と思い、財布の中身を確認し、大龍に向かっていた。

ふと気づくと向かいの暗い路地に何か青いものがあった。人の足だった。驚いて駆け寄った。

 近づいてくる靴音を聴くと、若い男は静かにからだを起こし壁に凭れた。外灯の赤い光が口元の血を浮き立せていた。

 覚はしゃがんで傘を差しかけた。

「だいじょうぶかい?

 派手にやられたね」

 若い男はうすら笑いを浮かべた。黒い帽子から巻き毛がはみだしていた。傷ついた顔の表情は真紅の薔薇のようだった。

 彼は立ちあがって歩き出したが、途中でよろめいて崩れるように倒れた。

「こりゃ、ダメだ‥‥」

 覚は、病院に連れていこうとしたが、なぜか強く拒否された。

「これで、これでいいんだ」

 思いがけず薔薇の棘で腕を引っかかれた気分だった。立ち去ろうとしたが、足が動かなかった。差しかけた傘からは雨の雫がポタポタと道路に落ちてはじけていた。それがアルファとの出会いだった。


 雨は田舎にも都会にも同じように降る。風雨は、都会もまた自然の一部であることを認識させてくれる天の恵みである。しかし、田舎は自然のなかに街があるが、都会は街のなかに自然がある。とりわけ大都会では、高層ビルの屋上に昇らなければ自然の大きな息吹を感じることは難しい。遠くに見える山々だけが、ここが自然の一郭であることを認知させてくれるからである。

 ここは巨大な人間の巣、人間の情念の結晶体、東京である。ちっぽけな人間たちが寄り集まって、これだけの都市空間を創造した。

刺激的だが、あまりに騒々しい巷。身をこがす欲望と上っ調子のファッション。カードのような群衆とその場しのぎのギャグ。残酷な微笑と無益な競争。そのような都会の隠された素顔が悪夢のような空しさを誘うとき、それでもその奥に人間の苦悩と活力とを感じて、人を愛さずにはいられない。

 だれが空しさを愛するものか! だれもが生きるために不安をこらえているのだ。軽薄短小の陰に孤独な哲学者の素顔を隠しているのだ。彼らは、他人への恐れから表情を消し、他人への不信に心がせつなく飢えている。0と1の神話は、ここで蚤のように、羊のように、あるいは虎のように生きている。彼らは、ひそかな主客のすり替えに気づいているのだろうか?

 彼ら・・それはいったい誰なのだ? 都会にも友だちはいる。都会にもオアシスはある。清らかな愛や信仰もどこかで地下水のようにこの地を潤しているはずだ。とすれば、彼らとは、頭脳の中の記号的概念、傷つきやすい魂が夢中で描いたドラキュラやフランス人形にすぎないのだろうか。

 類まれなる具象の集積。鉄とコンクリートの立体芸術。新時代を画するその空間を、虚無の風は吹き抜けていく。

 大都会に自然な体温を感じることは難しい。それは人工の夢の華麗なる大舞台なのだ。そこには中世の美はほとんど欠けている。代わりにたくましい経済の腕と、分裂して肥大化した脳細胞と、かぎりなく女性的な喜びとが満ちあふれている。

難しいことは考えなくてもいいのだというぐらいの気安さが、心の傷をやさしいオブラートで包んでいる。ジャズをモルヒネのように聴き、かわいい女の子のスカートを追って駆けていく。風もここでは気まぐれだ。明日はどこから吹くのか分からない。

汗、雑踏、渋谷駅。ああ無情、何のこれしき。もう充分ではないか? 渇きは楽しみの一つなのだよ。思わず、まあいいかとすべてを処分してしまいたくなるとき、きっと何かが起こるに違いない。


 覚が途方に暮れ、数分が経ったころ、自転車が停まった。

「どうしたい?」

 桜木拳士郎(さくらぎけんしろう)だった。調理用の白い作業衣を着た彼は、雨の中、傘もささずに平然と自転車を走らせていたのだが、二人のすがたを見てふとブレーキを掛けた。彼は中華料理店大龍の店員で配達の帰りだった。覚が事情を話すと、その決断と行動の速さは電光石火だった。

 店へ行き、自転車を置いて取って返すと、アルファを背負い中華料理店の裏側にある下宿屋大楽へと運んだ。

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