砂の涙

日野 哲太郎

 砂の涙ー1 


 これから語るのは、歴史の舞台裏に発生した世にも不思議な恋の物語である。

 時は二十世紀末、日本が異常なバブル景気にわいている時代のことだった。晩秋の夜、雲行きがあやしく、木枯しが吹きはじめていた。

 大都会東京М区にあるビルのホールで『文明の火』と題する講演会が行われていた。そのとき妖怪の女王である悪魔ミウは、高名な文明批評家であるX先生に化けて人類の歴史に関する講釈をしていた。むろんその話が平板な歴史学者の博識披露におさまるわけもなく、二千人を収容した講演会場には深いどよめきが渦巻いていた。そこでは鮮明な映像とともに人間は悪魔が猿を生体改造してつくられたドラマチックアニマルであることが熱く語られていたからである。キリスト教神学や進化論ならまだしも、それは聴衆には受け入れがたいとっぴな仮説だった。しかし、そこには何かわからない魅力があった。いや、魔力があった。ウヰスキーを一気にあおったような酩酊があった。

 ところが、そこで酔いを戦慄に変える事件が起こった。あろうことか、そこに本物のX先生が登場したのである。壇上に立つ二人の老人は、白髪に眼鏡をかけた容貌といい、長身の体型といい、グレーのスーツ姿といい、何から何までそっくりだった。聴衆は混乱した。いったいどちらが本物なのか? 本物のX先生は、興奮した面持ちで悪魔の本性をあばこうとした。妖怪の女王は冷酷な一面をのぞかせて、老人を銃で撃った。

 会場に集まっていた聴衆はパニックに陥った。悲鳴があがり、怒号が渦巻いた。そのとき会場から缶コーヒーが飛んできた。彼女はそれをさらりと避け空中に消えた。聴衆の驚愕は極致に達し、どうにも収拾がつかなくなった。悪魔はたかが講演会でこれほどの騒ぎを起こすのはまずいと思い、集団催眠をかけて聴衆の記憶をいっきに書きかえた。

 ところが、その催眠術にかからない若者が三人いた。妖怪の女王は一人ひとりを凝視した。一人は、大柄で若武者といった風貌の男だった。『こいつはさっき缶コーヒーを投げたやつだ。』二人目は、生真面目で気難しそうなメガネ男だった。『こいつはわたしの苦手な考える葦だ。』そして三人目を見たとき、女王の視線は釘づけになった。美貌の青年だった。そのとき、天空から稲妻のように黄金の矢が飛んできて彼女の心臓に刺さった。いたずら者のキューピットが恋の矢を放ったのである。悪魔の女王はたちまち恋に落ちた。

「かわいい!」

 自分の口からもれた言葉に赤面した。シーザーにも、ナポレオンにも、織田信長にも恋などしなかった悪魔が、英雄でもなければ豪傑でもない無名の若者に恋をしてしまったのである。どうしてそんな不条理が生じたのか? 彼女は記憶を変えられない三人に銃の焦点をあてたが、珍しく額に脂汗がにじんだ。殺すのはたやすいが、今殺してしまったのでは深い後悔が残りそうだった。そこでしばらくの間、彼らを子細に観察することにした。

 講演会場にはアナウンスが流れた。

「まことに申しわけございませんが、X先生は体調がすぐれません。講演はこれにて中止いたします」

 場内がざわめいたが、聴衆は何事もなかったようにつぎつぎに席を立ち会場をあとにした。三人の若者たちだけがその事件性を認識し、人ごみを縫うように演壇に駆け寄った。X先生はもう一人のX氏に銃で撃たれたのだ。それなのに周りの人たちはそれを見なかったかのように引きあげていく。たしかに先生が倒れたのち、頭がキーンとなり意識が朦朧とした。そのとき彼らは、演壇に黒い生き物をみた。ところが、混乱した聴衆はいつの間にか静まり静まり返っていた。そしてアナウンスを聴くと、みな粛々と帰宅をはじめた。

 メガネをかけた若者は最前列にいたインテリ風の老婦人を呼びとめた。

「X先生はどうしたの?」

 彼女はさりげなく

「お疲れになったのでしょう」と答えた。

 会場に残ったのは三人の若者だけだった。

 メガネ男は、

「見たのかい?」と缶コーヒーを投げた若武者にたずねた。

「ああ」と声が返った。

「君もかい?」と美男子にきくと

「うす黒いやつをね」との返答があった。

 翌日の新聞には、X氏講演中に倒れる、心臓疾患のため急死という報道がなされていた。


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