5 好きだから 苦しくなる
「そっか。話したんだ」
八坂の声を聞いて、美緒は笑顔で頷いた。冬休み明けの最初の登校日。八坂と美緒は人けのない廊下を、並んで歩いていた。話したとは、美緒の過去のことだ。
「穂高ちゃんのこともあったから、その勢いでね」
美緒は人懐っこい笑顔で言った。
初詣の日、穂高のカミングアウトの後、八坂は三人での時間を作るため、一人で先に帰宅した。優愛たちはカフェでおしゃべりをし、その時に美緒も自身の過去について話した。驚く二人を尻目に、それは過去のことだから、二人とも今まで通りでいいからね、と言ってのけた。あまりにさらっと言われたため、優愛と穂高はただ頷くのみであった。
「言えたのは、八坂くんが背中を押してくれたからだよ。ありがとう」
美緒の笑顔は万人の心を和ますことができる。それぐらい笑顔が綺麗な人だ。そんなことを思いながら、八坂も微笑んだ。
二年二組の教室では、優愛が自分の席に着いて、八坂の席を眺めていた。そこに彼の姿はない。今日は朝のホームルームが終わり次第、体育館へ移動し始業式を行う流れだ。
「トイレかな……」
呟いた優愛はおもむろに立ち上がり、廊下に出た。しかし一歩も踏み出すことなく、教室のドアの前で立ち止まってしまった。目の先には、談笑しながらこちらへ歩いて来る、八坂と美緒の姿があった。面白くないと感じた優愛は、無意識に眉をひそめ口を真一文字に口を結んだ。美緒が手を振っていることに気づき、すぐに笑顔を作った。
「おはよ~」
いつも通りの笑顔で挨拶をする美緒。その隣で八坂も微笑んでいる。
「おはよう」
「うん、おはよう」
優愛の声のトーンはいつもよりも低くなっていた。それに自分で気がつき、もう一度笑顔を作ってみせる。
「じゃああたし、教室戻るね」
手を振りながら踵を返す美緒。自身の教室に向かいながら、いたずらっ子の笑顔で呟く。
「優愛ちゃん、少し怒ってたな。よしよし」
優愛を嫉妬させる。これも美緒の作戦であった。大きなお世話のように思えるが、その効果はあったようだ。
優愛は八坂と並んで教室へ入るも自身の席を素通りし、八坂の席までついていく。
「何話してたの?」
いつも通りを装いながら八坂へ質問する。八坂は着席すると、優愛に視線を向けた。
「ああ、初詣の日のことについてね」
教室の前方の黒板の前に置かれた教卓を囲み、由比、小金井、学級委員長の館山が談笑している。しかし由比の意識は、その会話の外にあった。彼の目に映っているのは、二人で話をしている優愛と八坂がいる。しばらく見続けていたが、目を伏せ小さく息を吐いた。
始業式を終え、教室で三学期の日程の説明がされる。大正寺谷先生と生徒たちのいつも通りのくだらないやり取りを経て、この日は午前中に全日程を終えた。
由比は優愛に声をかけようと立ち上がり振り返った。しかし由比よりも先に、教室の外からの声が優愛の元に届く。由比は無意識に声の主を見る。そこには、美緒と穂高の姿があった。優愛は鞄を担ぎ上げると、二人の元へと歩み寄る。
「穂高は今日は、役員の仕事ないの?」
「うん」
「三人で帰るのって久しぶりだね」
無邪気に声を上げる美緒。優愛は笑顔で頷くと、三人仲良く歩いていく。由比の視界から、すぐに優愛の姿は消えた。ため息をつくと、気怠そうに鞄の持ち手を肩にかけて、教室を後にした。
優愛には話をしたい人がいた。今すぐにでも。美緒と穂高とのランチを終え、優愛は二人と別れて、一人で歩いていた。向かう先は、柿の木学園。こころと話がしたかった。尋ねたいことがある。そして、伝えたいことがある。
学園の玄関をくぐり、エントランスに面する事務室の窓ガラスを軽く叩いた。ガラス越しに森内と目が合う。優愛は会釈をした。森内は笑顔で手を挙げると、席を立って優愛へと近づいて来る。窓ガラスが開けられると、よく通る声が優愛へと向けられる。
「こんにちは。今日は早いね」
「あ、はい。始業式で午前中だけだったので。あの、こころちゃんはもう帰ってますか?」
優愛の問いに、森内は申し訳なさそうな表情へと変えた。
「ごめんね。あの子はまだ帰ってない。学校にいるんじゃないかな」
「そうですよね」
やはり時間が早かったか。学園で過ごすか、もしくは外で時間をつぶすか。優愛は頭の中で時間の過ごし方を考えていると、森内が問いかける。
「急ぎの用だった?」
「いや、そういうわけではないんですけど」
「時間があるんだったら、あの子の学校に行ってみれば?」
「え?」
森内からの提案は意外であった。学校へ行くという選択肢は、優愛の頭には、頑張って探してもないものだった。
「学校までの地図があるから、ちょっと待ってて」
森内は優愛の返事を聞くことなく、事務室の奥へと消えた。
「教えられて来たものの、ここ、私が入ってもいいのかな?不法侵入にならない?でもここでうろちょろしてるほうが不審者だよね。……あれ?これ、前にも体験したような……」
森内からもらった地図を頼りに、こころが通う学校までたどり着いた。しかし正門の前で、ここから先に進んでいいものなのか、自問自答を繰り返している。考え込んでいると、正門の向こう側にいる眼鏡をかけた少年と目が合った。
「こんにちは」
目が合うなり、少年は優愛に挨拶する。
「こ、こんにちは……」
挨拶を返すも、ばつが悪い。
「何かご用ですか?」
当然聞かれるであろうと予測はしていたので、用件をさらっと伝える。
「えっと、ここに通っている友達に会いに来たのですが」
「そうでしたか」
少年は、どうぞ、と優愛を中に入るよう促す。彼女は少し戸惑った。
「え、でも、入ってもいいんでしょうか?」
「僕はここの生徒ですから。僕と一緒なら大丈夫ですよ」
笑顔で答える男子生徒。許可が下りたのだから問題ないだろう。そう思った優愛は、会釈して正門の中へと足を踏み入れた。
「昔は、盲学校、聾学校、養護学校と、明確に分かれていましたが、今は特別支援学校という名称に統一されています。ここには、様々な障害を抱える子たちが通っています」
男子生徒の説明を聞きながら、優愛は学校の敷地内を歩いていく。小学校低学年ぐらいの子ども数人が、こちらの方へ走ってくる。笑顔で話しながら、その子どもたちは優愛のそばを通り過ぎていった。背中を見送ると、優愛の口元が綻ぶ。
「あんな小さい子もいるんですね」
「初等部から高等部まであるので、年齢も幅広いですよ」
笑顔の生徒は、思い出したように話を続ける。
「あ、ところで、あなたの友達はどなたですか?」
「小松心ちゃんという、十七歳の女の子です」
「ああ、小松さんですか。なら居場所は見当がつきます」
「知ってるんですか?」
「ええ。彼女は、全国の特別支援学校に通う生徒たちが集まる大会の、手芸部門で優勝したんです。この学校で彼女を知らない人はいないでしょう」
優愛は感嘆の声を上げた。これは初耳だった。こころ本人からはもちろん、八坂や森内からも聞いたことがなかった。
ある疑問が頭に浮かんだ優愛は、少し言いづらそうに、男子生徒へと声をかける。
「あの、どんな障害を抱えているか聞いてもいいですか?」
「僕ですか?」
優愛は頷く。聞いていいかどうか分からなかったが、ここまで流暢に話されると、なんだか違和感がある。ここの生徒なら、なんらかの障害を抱えているはずだ。それがなんなのか、知りたくなった。
「僕は小学生の時に事故に遭って、左の肘から下を失いました」
男子生徒はそう言うと、右手で学ランの左の袖を握った。それは簡単に小さく潰れ、右手で拳を作ることができた。優愛はそれまで、左腕の欠損には気づかなかった。
「左目は摘出して、今は義眼をつけています。右耳の聴力も失いました」
優愛が想像していたよりも多くの障害が露わになったため、少し決まりが悪くなる。
「……大変ですね」
「でも、僕はまだいいほうだと思っています」
明るい声が返ってきたため、優愛は自然と顔を上げ生徒の顔に視線を向ける。
「右利きなので矯正する必要はなかったし、目も耳も片方は問題なく機能しています。コミュニケーションも問題なく取れるし、歩くこともできます」
生徒は目線を前に向けた。その時の目は、悲観なんて一切ない、とても生き生きした目に見えた。
「だから僕は生徒会長になったんです」
「生徒会長なんですか?」
「ええ。生徒の想い、悩み、伝えたいことを代弁するために」
男子生徒の目があまりにも眩しく見えたので、優愛は思わず目を逸らす。
「そうですか。かっこいいですね」
「どうも」
生徒は笑顔で優愛にお礼を述べた。そして今度は、彼から質問が飛んでくる。
「あなたはあまり驚いたりしないんですね。どうしてです?」
「あ、はい。こころちゃん以外にも障害を抱えている友達がいるんです。他にもいろいろなことを抱えている友達がいます。誰だって、何かしらを抱えてるんだと思います」
少し偉そうなことを言ったように思え、優愛は顔を弱い朱色へと染める。
「あなたみたいな人が増えてくれれば、障害者への理解ある社会になるはずですね」
笑顔で語る男子生徒の顔を見て、少し照れて頭を掻きながら何度か頭を下げた。
男子生徒に連れてこられた場所は、工作室と書かれた教室の前。開かれたドアから教室の中を覗くと、こころの後ろ姿があった。今も何か作業をしているようだ。
「小松さんは、放課後よくここにいます」
男子生徒は頭を下げると、そのまま廊下を進んでいった。優愛も頭を下げお礼をする。
教室の中は、優愛の通う陽葉高校の美術室と似ていた。壁や棚には、生徒たちの作品らしき創作物が多く点在する。夢中になっているこころは、優愛の存在には気づいていない。優愛はゆっくりと、こころとの距離を近づける。
「こころちゃん」
名前を呼ばれ手を止めたこころは、頭だけを振り返らせる。優愛が目に留まると、笑顔で手を振る。
「さっき学園に行ったら学校にいるからって、森内さんに教えてもらって」
優愛の話を聞き、笑顔で頷くこころ。優愛はこころが作業を行っている台を見た。そこには刺繍や編み物、ガラス工芸に花細工と、いろいろな作品が置かれている。
「これ、こころちゃんが作ったの?凄いね」
優愛は何度か瞬きをしながら、一つひとつを見ていく。隣で作業を続けているこころが口を開く。
「わ、私は、これしか…取り柄がないから」
「これだけだとしても凄いよ」
優愛は笑顔でもう一度、こころに賛辞を贈る。彼女は顔をくしゃっと綻ばせた。
優愛には聞きたいことがあった。小さく息を吐くと、こころに向き直る。
「質問したいことがあるんだけど、聞いてもいい?」
こころは手を止め、頷いた。優愛はもう一度息を吐くと、こころの目を見据える。
「前にね、クリスマスの時、八坂くんのことどう思ってるか聞いた時、好きな人って答えたでしょ?」
こころは頷く。
「それって、友達としてってこと?それとも……異性として?」
こころは目を瞬かせると、それを細めた。頬がすっくらと赤くなる。
「い、異性として」
優愛はどんっと強い衝撃を、胸の中に感じた。そうかもしれないとは思っていたが、言葉としてちゃんと表現されると、なかなかの衝撃である。優愛は少し胸が痛く感じ、右手で胸を軽く押さえた。
「わ、私がいじめられて、…お母さんがいなくなって、ひ、独りぼっちになった時、…ずっとそばにいてくれた。じ、自分を受け入れることができた。わ、私が今、笑っていられるのは、…りゅ、龍くんのおかげ。…私は、龍くんが大好き」
真っ直ぐに語られたこころの想いは、優愛の想いを委縮させた。それだけ彼女の想いは、胸に突き刺さるものを感じた。優愛は目を伏せる。こころの想いに、勝てる気がしない。小さく息をついた時、こころの声が届いた。
「…優愛ちゃんは?」
「え?」
「りゅ、龍くんのこと、好き?」
優愛は唾を飲みこんだ。ここで肯定したら、恋のライバルになってしまうのだろうか。しかし、自分の想いを隠していられるようには思えない。勝てる気がしない。そう感じたが、負けたくないという強い気持ちも生まれた。こころがこちらの返事を待っている。優愛は一度目を閉じると、強い眼差しでこころの瞳を捉える。
「うん。大好き」
その言葉を聞いたこころは、満面の笑みをみせた。
「よ、良かった」
「え?」
笑顔と言葉の意味が分からず、優愛は首を傾げる。
「りゅ、龍くんは、まだ自分のことを受け入れきれてない。わ、私は龍くんに変えてもらえたけど、…りゅ、龍くんを変えることはできなかった。…でも優愛ちゃんは変えられた。こ、これからもっと変えることができる。りゅ、龍くんのそばにいるべきなのは私じゃない。…優愛ちゃんだよ」
こころは笑顔のまま優愛に伝えると、手を動かし作業を再開させた。
優愛は、こころが強い人間だと思った。自分なんかよりもずっと強い。自分が好きなのに、他人とのほうが好きな人のためになるからといって、それを認めたり、引き下がったりすることは容易なことじゃない。
優愛は、作業を進めるこころの顔を、しばらく見つめ続けていた。
優愛はこころと一緒に、柿の木学園へと戻ってきた。
「ここちゃん、お帰り」
事務室前で、八坂の声が出迎えた。
「た、ただいま」
「あ、高山さん」
こころの後ろから見えた優愛を捉える。優愛は頭を小さく下げた。
「ど、どうも」
「こころ姉ちゃん!遊ぼー!」
元気な声と共にこころの前に現れた学園の子が、こころの手を取っている。こころは頷くと、引っ張られて子どもたちの輪へと足を進めた。
「ここちゃんとは表であったの?」
視線を優愛に移した八坂。優愛は首を横に振った。
「ううん。ちょっと話したいことがあって、こころちゃんの学校まで行ってきたの」
「そっか」
優愛は微笑で頷くと、視線をこころに向ける。
「こころちゃんて、子どもたちに凄く好かれているよね」
「うん。子どもながらに理解してるんだと思う」
「理解?」
優愛は小首を傾げ、視線を八坂へ戻す。
「児童養護施設はね、原則18歳未満の子どもが入所できるところなんだ。だからここちゃんは、高等部を卒業したら、退所しないといけないんだ」
「自立するってこと?」
「そう」
「なんか、寂しくなるね」
「だから、子どもたちは残りの一年ちょっとを、ここちゃんと楽しく過ごしたいって思ってるのかもね」
話している八坂は、とても優しい眼差しでこころを見据えていた。それを見て、少し気分が落ち込むのは優愛。もし、八坂がこころのことを好きであれば、両想いの二人の間に、優愛が入れる隙間はない。ふっと短く息を吐いた優愛のことを、八坂が呼んだ。
「高山さん」
「ん?」
「来週の土曜日、子どもたち数人連れて、水族館に行くんだけど。もしよかったら、高山さんも一緒に行かない?」
「え?」
「ボランティアとして子どもたちの付き添いってことになるけど」
八坂とのデートというわけではない。しかし彼と一緒にどこかに出かけることは、優愛にとってとても喜ばしいことである。八坂の心は分からない。だから、勝手に諦める必要なんてない。
「うん。行くよ」
優愛は力強く頷いた。
陽葉高校校舎内の一角。自動販売機が多数設置されているスペースには、ベンチが壁に敷設されている。購買部が近くにあるということもあり、お昼休みには生徒たちの声でごったがえす。生徒からはしゃべり場の愛称で、この場は表されている。
しかし放課後となると、昼間と違いぽつぽつと数人しかこの空間にはおらず、飲み物を手にゆっくりできるくつろぎスペースへと姿を変える。
放課後、優愛は抹茶ラテのパック飲料を手に、一人黄昏ていた。声をかけられるまでそばに人が近づいてくることも気づかないくらい、意識はぼーっとしていた。
「考えごと?」
声の主は三浦だった。ちょっとね、と答えた優愛。
「隣は邪魔?」
三浦の問いかけに、優愛は首を横に振った。そんじゃ、と小さく声を出すと、優愛の隣へと腰を下ろした。優愛の手元を見る。
「優愛ってほんまに抹茶ラテが好きやな」
優愛は自分の手に収められている飲み物を見る。
「それ以外飲んでるとこ、見たことないかもしれへん」
三浦は笑顔をみせると、自分の手の中にあるウーロン茶の缶を口へ運んだ。優愛は、しばらく三浦の顔を横目で見ていると、おもむろに口を開く。
「三浦ちゃんて、社交的だよね」
「そう?」
三浦は首を傾げる。
「同じクラスになった初日に勢いよく声かけられた時は、正直びっくりした」
「ああ。教室入って最初に目が合ったのが優愛やったから」
三浦は微笑みながら、持っている缶を軽く揺らした。
「変なこと、聞いてもいい?」
優愛の問いかけに、一度小さく頷いてから首を傾げる。
「別にええけど、変なことって?」
優愛は三浦から目を逸らすと、一度瞬きをして三浦へと向き直る。
「昔からそんなふうに社交的だったの?」
「え?ほんまに変なことやね」
三浦は少し面食らい苦笑いをみせた。うーん、と小さく唸りながら壁に身体を預ける。缶を口へ運ぶと、頭を掻きながら話し始める。
「昔の話するのって、なんか恥ずかしいんやけど……」
目を伏せると小さく息を吐き、少し口を綻ばす。
「うちな、関西弁がコンプレックスやってん」
優愛は少し目を見開く。三浦は苦笑いのまま話を続ける。
「中一の二学期にこっちに転向してきて、周りに関西弁使う人は他におらんくて。浮きたくないって思って、無理に標準語で話すようになったんやけど、変な日本語になってしまうし……」
三浦は小さく唇を舐めると、ウーロン茶を口の中へと流し込む。缶の半分以上は残っていたであろうウーロン茶を一気に飲み込むと、ふーっと大きく息を吐いた。
「言葉が原因でいじめられるとか、そんなことは一切なかった。ちゃんと友達もおったし。けど、人と話すことが徐々に億劫になってきて……」
中身のなくなった缶を見つめる三浦。優愛は黙って話を聞く。
「中二に上がった時、同じクラスに青森出身の男子がいて。その人は、あの、ズーズー弁ってやつ?それを隠さずに堂々と話をしていて。それを利用して、笑いまで取って、周りの人気者やってん」
ここでようやく笑顔となる三浦。
「その時に思った。そのままでいいんやって。無理に演じる必要なんかないんやって」
三浦は優愛へと視線を移す。
「それからかな。周りの人にいろいろ話しかけられるようになったんは」
そっか、と優愛は頷いた。照れ笑いをみせる三浦は、缶を左右に振る。音が聞こえ、まだ残ってた、と呟きながら缶を口へと運んだ。
「好きな人に対してもそう?」
優愛の言葉に虚を突かれた三浦は、缶を口から離してむせこんだ。
「大丈夫?」
心配する優愛を手のひらを向けて制すると、細かく息継ぎをしながら顔を向けた。
「突然やったから。どうしたん?」
三浦の声の後、優愛は小さく苦笑いを浮かべ、壁に全身を委ねた。
「好きになるって、少し苦しいよね……」
優愛は天井に目線を向け、目を細めた。三浦は儚げな優愛の顔を、見つめ続けていた。
二組の教室では、八坂がいつものように本を読んでいた。読み終えると本を閉じると、小さく息を吐いた。机の横に吊り下げていた鞄を持ち上げると、太ももの上に置き、本を大事に中へと入れる。立ち上がって椅子を収めると廊下に向かって歩き出す。
廊下に出た直後、由比と出くわした。
「あ……」
由比は無意識に声が漏れた。
「お疲れ」
八坂は由比にそう告げると、横を通っていく。
「八坂」
呼び止められた八坂は立ち止まり、顔だけを振り返らす。呼び止めたのは、もちろん由比。
「ちょっと時間、いいか?」
八坂と由比が向かったのは、誰の人影もない中庭だった。中央辺りまで歩いていくと、由比の足が止まった。その後ろを歩いていた八坂の足も、自然と止まる。
由比は息を吐くと、八坂へと身体を向き直した。八坂は今まで、由比としっかり話をしたことがなかった。その由比に呼ばれたこともあり、少し緊張していた。でもそれは由比も同じ。冬の寒い日にも関わらず、彼の額には汗が浮かんでいた。
「八坂……」
おもむろに口を開いた由比。八坂は彼の目をしっかり見る。
「お前は、高山のことが好きなのか?」
思わず目を見開く八坂。その反応を確認した由比は、小さく口角を上げた。
「やっぱりそうか……」
一度目を伏せると大仰に息を吐く。再度八坂に向けられた由比の目は、鋭く八坂を見据えている。
「今まで五年間、あいつのことをそばで見てきた。知らないこともまだ多いけど、俺はあいつのことを知ってるって思ってる。……少なくとも、お前よりは……」
由比は瞬き一つせず、八坂を見据えながら言い放った。八坂も目を逸らさず、じっと由比のことを見る。
「あいつを……あいつをお前にとられたくない。お前を嫌ってるからじゃない。俺は好きだから。高山のことが好きだから……」
八坂は他人のことについて鈍感だ。誰が誰を好きだなど、そういうことには一切気づいたことがない。周りとの距離をとっていたということもあるのだが。
八坂は目を伏せる。胸の鼓動が速くなっていることに気がついた。心を整えるようにニ、三度小さく深呼吸すると、目線を由比へと戻す。
「もし俺が高山さんのことを好きだったとしたら、君はどうするの?」
少し挑発するような言い方になってしまった。八坂は一瞬目を逸らす。言われた由比は、目を開けたまましばらく黙り込んでいたが、小さく息を吐き、微笑をみせた。
「……告白するよ。いつになるか分からないけど、そのうち……」
告白。その言葉が耳に入った八坂は、何も言えず立ち尽くした。
「じゃあな」
八坂にそう言い残すと、彼のそばを通って中庭から校舎へと戻っていった。
廊下の壁に背を預け体育座りをし、由比は身体と脚の間に頭をうずめている。足音が聞こえ、自分のすぐそばで音が消えたことを感じ、由比はゆっくり顔を上げた。隣に立ったまま壁にもたれ、腕を組んでいる小金井の姿があった。
「お前って、高山のことが好きだったんだな」
「え?」
「盗み聞きじゃねーよ。近く通ったらたまたま聞こえた」
由比は小さく笑う。
「好きだよ。中学ん時からずっと……」
また顔をうずめる。小金井は、由比の頭部に視線を向ける。
「告んのか?」
顔をうずめたまま、小金井の質問にこもった声で答える。
「……分からない」
由比は顔を上げると、立てている膝の上に置いている腕に顎をのせる。
「八坂には威勢のいいこと言ったけど、……告白する勇気なんて、今の俺には持ち合わせてない」
大きく息を吐く。その姿を見下ろす形で見ている小金井。
「告んのは勢いだと思うけどな」
「お前は他人事だからそう言えるんだよ」
由比は正面に見える、ポスターも何も貼られていない柱を見つめた。コンクリート打ちっぱなしのその柱には、由比自身の姿が写っている。暗くて見えづらいが、思いつめた表情をしているのは確かだった。
「小金井くん」
その声を聞いて呼ばれていないのに、由比の身体はビクッと跳ねた。声の主が優愛だったからだ。
「あ、由比くん?大丈夫?」
座り込んでいる由比の姿を見つけ、優愛の顔は心配そうな表情へと変わる。小金井は優愛と由比の顔を順々に見て、優愛に声をかける。
「高山。こいつ気分悪いみたいだから、そばにいてやってくれるか?」
「は?」
由比は驚いて小金井を見る。
「うん。分かった」
優愛は快諾する。小金井は視線を由比に戻すと、ウインクを決める。
「じゃ、帰るわ」
小金井は言い残すと、颯爽とその場を後にした。由比の呼びかけを無視して。
「大丈夫?お腹痛いの?」
「いや、大丈夫だから……」
お腹は痛くない。だから正直に答えた。うずくまっている原因は、それではない。
良かった、と声を出した優愛は、由比の隣にうずくまる。大丈夫と答えたのに、なぜ隣に座るのか。由比の身体が熱くなる。
「私と由比くんが初めて会った時も、こんな感じだったよね」
「え?お、覚えてるの?」
「うん。覚えてるよ。だって、中学生になって一番最初に友達になったのって、由比くんだったから」
優愛は笑顔を由比に向けた。由比は自分の顔が赤くなっていることに気づいた。しかし、顔を逸らさなかった。優愛の笑顔から、目を離すことができなかった。
過去の噂から逃れるように引っ越してきた当初、由比はストレスからくる腹痛に悩まされていた。学校内で症状が現れ、廊下にうずくまっている時に、優愛に声をかけられた。
「由比くんのこと見つけた時、私かなりオロオロしちゃってたね」
顔を掻きながら照れ笑いを浮かべる優愛。由比はポケットに手を入れた。聞くなら今しかない。
「じゃあ、これも覚えてる?」
ポケットから出したのは、合格祈願のお守り。それを目にし、優愛は驚きと喜びが混ざり合った表情となった。
「あ!これって、受験の時に私が渡したお守り?」
「うん」
高校受験を前にし、優愛が色違いのお守りを由比に渡したのだ。同じ中学から陽葉高校を受験するのは、優愛と由比の二人だけだった。せっかくだから高校も一緒に過ごしたい、二人とも絶対合格しようと、優愛は顔の前で両拳を強く握り、由比を鼓舞してみせた。
「由比くんて、物大事にするんだね」
「……そうじゃない。そんなんじゃない……」
由比はお守りを握りしめ、絞り出すように声を出した。目を強く瞑り、顔をうずめる。
「……由比くん?」
優愛は小首を傾げる。
「お前からもらった物だから、ずっと持ち続けてたんだ……」
こもった声が聞き取りづらく、ん?と疑問を呈する。大きく息を吐いた由比は、顔を上げると優愛の目を真っ直ぐ見据えた。
「お前のことが好きだから……」
「え?……今、なんて?」
聞き間違いだろうか。優愛は思わず聞き返す。由比の目には、少し涙が溜まっている。優愛を見据えたまま、言葉を繰り返す。
「お前のことが好きだから。中学の時から、初めて会った時から、ずっと……」
聞き間違いではなかった。優愛は初めて男の子から告白された。それが由比だとは、思ってもみなかった。友達として一緒にいる時間は長いが、そんな素振りは一切なかった。少なくとも、優愛は気づかなかった。由比の真剣な眼差しに、優愛は顔が赤く染まる。
「……けど、ずっと言えなかった。一緒にいられる今が楽しくて、告白して、気まずくなるくらいなら、今のままでいい。一緒にいられるなら、言う必要はないって思ってた。だからほんとは、言うつもりはなかったんだ……」
由比は一度唇を噛みしめる。
「でもダメだ。お前と一緒にいると、どんどんどんどん、好きになってく。そのままにしておくのが、苦しくなってきて……」
由比はそこで、優愛から視線を逸らす。優愛は何も言えず、目をキョロキョロとしきりに泳がす。短い笑い声をあげると、由比は再び話し始める。
「分かってる。お前が俺のこと、好きじゃないってことは……」
優愛は泳ぐ瞳を固定すると、再び自分を見据えている由比の目を捉える。由比は口元を綻ばすと、ゆっくり立ち上がる。優愛の頭をポンポンと軽く叩くと、廊下を歩いていく。しばらく呆けていた優愛は、由比が去っていった方向へと顔を向ける。彼の背中が見えたと思ったが、角を曲がったため、すぐに姿は見えなくなった。
――人を好きになることは、素晴らしいことであるとともに、残酷なことでもあるのかもしれない。誰かを好きになった人の心だけでなく、誰かに好かれた人の心も苦しめる。この苦しみに、俺はどう向き合うのか……。
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