6  進み出す 動き出す

 「……参りました」

 力が抜け、優愛は頭を下げた。

 優愛の通う将棋クラブは、保健センター内にある会議室で活動している。クラブといっても会員制などではなく、誰もが気軽に参加することができる、地域の交流の場である。下は小学生、上は定年を過ぎた年配者まで、多くの人が参加している。

 クラブに通う人達の中で、優愛の実力は頭一つ抜けている。今、盤を挟んで座っている久世くぜには、一度も連敗をしたことはなかった。しかし、今回の対局で三連敗。異常事態であることは、久世にも、そばで対局を見守っていた長谷川はせがわも理解していた。

 将棋では、対局が終わった後にその対局を振り返る、感想戦が行われる。これは、敗者から始めることが通例である。しかし、この日の優愛は、盤上を見つめたまま、黙り込んでいた。痺れを切らした久世は、大仰にため息をつくと盤に指を差した。

「ここに金を打った時点で、お前は勝ち筋を殺してたよ」

「……そう、ですよね」

 弱々しく声を発する優愛。久世が続ける。

「今回だけじゃない。最近、打ち方が雑すぎる。今のお前に、負ける気がしない」

 優愛は黙ったまま、小さく頷いた。

「高山さん。なんか悩みごとでもある?」

 長谷川が手に持った扇子を畳みながら質問する。

「あ、その……」

 図星の優愛は、言葉が出てこない。よし、と小さく声を出した長谷川は、微笑で優愛の顔を覗き込む。

「しばらくクラブに参加しなくていいよ」

「は?」

 優愛より大きな反応を示したのは久世だった。

「もうすぐ大会だべ。高山を外すわけにはいかないだろ」

 長谷川は首を横に振る。

「出さないなんて言ってない。まだ時間はあるから、今は悩みごとに向き合うことに集中したほうがいいって思っただけさ」

 顔を上げて二人の話を聞いている優愛。長谷川は優愛に視線を戻すと、微笑んで小さく首を縦に振る。

「だからしばらくは、参加せずに向き合ってきな」

 分かりました、と弱々しく声を出すと頭を下げて、席を立った。


 将棋クラブからの帰り道。優愛は亀の歩みの如く、ゆっくりとした足取りで歩いていた。小さく息を吐くと立ち止まり、電柱に背中を預けた。頭からカチューシャを外し、それを眺める。クリスマスに八坂からプレゼントしてもらったカチューシャだ。

 優愛の気持ちは決まっている。しかし由比に対して申し訳ない思いもある。

「……ちゃんとしなきゃダメだよね」

 自分に言い聞かすように呟き、もう一度手元を見る。まだ傷一つないカチューシャに、太陽の光が反射している。

 短く息を吐くとカチューシャを頭に着け直し、駅に向かって歩き出した。


 八坂は進路指導室の中で、大正寺谷先生と机を挟んで向き合っている。少しの雑談の後、大正寺谷が本題を切り出す。

「お前は福祉の大学を目指してるんだよな?」

「はい」

「これなんだけど……」

 大正寺谷は一冊のパンフレットを八坂へ差し出す。八坂は手元へ引き寄せると、パンフレットの表紙に目を落とす。『清谷大学』と大きく書かれている。

「ここは剣道とか弓道とか、武道が強いってイメージがあるけど、バリアフリーに長けた学校でもあるんだ」

 大正寺谷は手を伸ばすと、パンフレットを開く。

「全ての校舎にエレベーターがついてるし、聴覚障害者向けにノートテイクのボランティアとかも、学校が主体となって積極的に行われている」

 八坂は、大正寺谷とパンフレットを交互に見ながら話を聞く。

「入試も視覚障害者向けに点字の問題用紙があったり、お前みたいに文字が苦手な人向けにマークシートになっていたり。もちろん、不公平にならないようにバランスを考えている」

「いいですね」

 呟く八坂は、少し口角を上げてページをめくる。

「ただ、二つ考えないといけないことがある」

 大正寺谷の声を聞き、八坂は顔を上げる。

「一つは私立だから学費が高いってこと。もう一つは場所が三重県にあるってこと」

 八坂はしばらく無言のまま、大正寺谷に向き合う。一度目をパンフレットに落とすと、笑顔になって大正寺谷に視線を戻す。

「俺にピッタリの学校だと思います。即決はできないけど、前向きに検討する。


 教室では、授業までの短い休み時間を利用して、生徒たちがワイワイ騒いでいる。

 三浦は上半身を捻り、自分の席から優愛の姿を見据える。優愛は頬杖をついて、一点を見つめながら口を小さく開けたり閉めたりを繰り返す。壊れたカセットテープのように、ずっとパクパクを繰り返す。三浦は目を細め、唾を飲み込んだ。


 授業を終え、三浦は美緒を穂高を呼び止めた。

「この前、優愛から八坂のことが好きだって話を聞いたんやけど、二人はやっぱ知ってはるよね?」

 美緒を穂高は頷く。

 三浦はしゃべり場で優愛と話をしたとき、八坂のことが好きになったことを聞かされた。話に驚いたのはもちろんだが、不安な表情の優愛が心配になった。

 三浦は小さく息を吐いた。

「うちはどうしたらええと思う?今の優愛、事情も知ってるってこともあるけど、見てられへん。……二人はどうしてるん?」

 問われた二人は目を合わせると、小さく笑みを浮かべる。

「特に何もしてないよ」

 美緒の答えに、思わず驚きの声を上げる。

「え?そうなん?」

「うん。助けとか求められてないしね」

美緒の笑顔はいつも通りのものであった。

「やけど……」

 三浦は穂高へ視線を移す。穂高の落ち着いた声が、三浦の耳へ届く。

「あの子、強くなろうとしてるから。優愛から助けを求められるまで、三浦ちゃんも何もせずに見守っててあげて」

 優愛と美緒、穂高の三人が一年生の時からの付き合いであり、二年生になって知り合った三浦よりも、美緒たちのほうが仲がいいことは、三浦は理解している。二人がそういう対応をしているのであれば、それに倣ってもいいのかもしれない。分かった、と小さく頷き、三浦は渋々了承した。


 その日の放課後。優愛は鞄に教科書などを入れ終ると、小さく息を吐いた。鞄のファスナーを締めると、ゆっくり立ち上がり椅子を収める。

 廊下へ向かい足を進めようとしたが、三浦の声が聞こえ足を止める。

「優愛。あのさ……」

 もじもじして言葉が続かない。察した優愛は、ごめん、と謝る。

「私、前に三浦ちゃんのこと困らせるようなこと言っちゃったよね」

 激しく首を左右に振る三浦。

「あのさ、うち……」

 少しの沈黙の後、三浦はトーンが少し上がった声で優愛に言葉をぶつける。

「余計なお世話かもしれへんけど、うちでよかったら、優愛の助けになるから。何ができるか分からんけど、助けが必要な時は、うちもいるってこと、頭に入れていてほしい……」

 ここまで言い終えると、三浦の顔が朱色に染まっていく。かなり恥ずかしいことを言っていたことに、今さらながら気がついた。ぽかんとした表情で、視線を逸らした三浦の顔を見つめる。不意に優愛の口から小さな笑い声が吹き出した。さらに恥ずかしさが増した三浦は、口を尖らせる。

「わ、笑うことないやろ。うちはほんまに心配やから言ったまでで」

 うん、と頷いてみせる優愛。笑いを止めると口を開いた。

「なら、さっそくお願いしてもいい?」

「え?あ、うん」

「私の背中、叩いてくれない?」

「は?」

 お願いの意味が分からず、素っ頓狂な声を出す三浦。優愛は目を細めると、さっきよりも少し弱くなった語気で、再度依頼する。

「激励の意味をこめて、叩いてくれない?」

 優愛が何をしようとしているのかは分からない。しかし穂高に言われたことを思い返し、深く追及することはやめ、優愛に頼まれたことを実行する。

 三浦の手のひらが優愛の背中へ叩きつけられる。思ったよりも衝撃が強かったため、顔を歪めて、反動で一歩身体が前へ進む。優愛は三浦を振り返る。少し戸惑ったような、そんな顔をしている。優愛は相好を崩して口を開く。

「ありがと」


 中庭に設置されたベンチに腰かけ、由比は空を見上げていた。優愛に呼び出されて待っている場所が、八坂に啖呵を切った場所になるとは。

 苦笑いをして小さく息を吐くと、名前を呼ぶ声が聞こえた。声の主は、もちろん優愛。由比は立ち上がり、優愛を迎え入れる。

「ごめん。待たせたね」

「ううん、全然」

 優愛は肩にかけた鞄の持ち手を両手で握りしめる。目を伏せ少し泳がせると、小さく息を吐いて、由比の顔を見上げる。

「好きだって言ってくれて、驚いたけど、嬉しかった。私も由比くんのこと好きだから。でも私の好きは、友達としての好きだから、その……」

 一度目を逸らし、唾を飲みこんで目線を戻す。

「由比くんの想いには、応えられない」

 ごめんなさい、と頭を下げる。

「うん。分かった」

 由比は優しい声色で答える。優愛は頭を上げると、決まりが悪い顔をしながらもじもじしている。

「あの、凄く自分勝手なお願いなんだけど……」

 目を瞬かせる優愛。

「これからも、由比くんと友達でいたいって思ってる。これで終わりにしたくない……」

 恐る恐る由比の顔を見る。少し面食らった表情をしていた由比は、それを綻ばせた。

「よかった。俺もそう思ってたから」

 優愛が安堵の表情になる。由比は笑顔を浮かべると、優愛との距離を詰める。

「あいつとは、うまくやれよ」

 あいつとは、八坂のことだろう。由比には八坂が好きということは言っていない。しかし、美緒らに知られていたように、由比にもバレていたらしい。優愛は微笑むと、小さく力強く頷いた。


 土曜日の駅前。柿の木学園の子どもたちが少々騒がしい。水族館へ行ける嬉しさで興奮している。こころと森内、もう一人の職員がそれをなだめる。

 少し離れたところから学園の御一行を眺める八坂。近づいてくる人影に気がついた。

「おはよう」

 優愛は手を軽く振って八坂の隣に並ぶ。

「おはよ…」

 挨拶を返そうと口を開くが、いつもと違う優愛に気がつく。

「それって……」

 優愛の頭を指差す。

「ああ……」

 優愛ははにかみながら、自分の頭へ手を伸ばす。その指先は、カチューシャを触れている。少し驚いた八坂は、優愛の顔に視線を向ける。

「どうせだから、着けてきちゃった」

 将棋の時以外、カチューシャを着けることはない。頬を赤らめながら八坂に視線を向ける。その先には、柔らかい表情で笑みを浮かべる顔がある。

「似合ってる」

 この一言で優愛の顔は真っ赤になる。顔を背け、小さな声でお礼を言った。


 休日ということもあり、水族館は家族連れの来場者が多く伺える。人気の魚の水槽前は、子どもたちを中心に人だかりができている。はぐれないように、森内は学園の子どもたちに何度も言いつけている。

 初めのうちは、こころと話をしながら回っていた優愛だが、こころからの促しもあり、八坂と行動するようになっていた。子どもたちへの目配りも行いつつ、八坂との会話に花を咲かせる。

 人の数がまばらになった空間にたどり着く。優愛は深海生物の水槽を眺めている。八坂が彼女の隣に並ぶと、水の中に視線を送る。

「あの子たちは、この辺には興味がないみたい」

 苦笑いして肩をすくめる。

「深海魚って独特だもんね」

「俺はけっこう好きだけどね」

 横目で八坂の顔を見る。水槽の中からの青白い光に照らされた八坂の顔を、目に焼きつける。ぼーっと見続けていたこともあり、八坂と目が合ってもしばらく見据えていた。

「どうかした?」

 八坂の声で我に返った優愛は、慌てて顔を逸らす。

「なんでもない」

「移動しよっか」

 頷いた優愛は、八坂と並んで眺めていた水槽を後にする。

 歩いている間に、優愛は頭の中で以前こころから言われた言葉を反芻する。まだ自分のことを受け入れきれていない。変えることができる。彼女はそう言っていた。私に変えることができるのか。受け入れる力になれるのか。

 小さく息を吐くと、八坂の顔を見る。不意に目が合った。二人は同時に顔を背ける。今のって、八坂くんが私を見てたってこと?胸の鼓動が速くなる。

 ふーっと大きく息を吐くと、もう一度八坂の顔を見る。薄暗くてはっきりとは分からないが、彼の顔はうっすらと朱色を帯びているように見える。ドンっと胸を強く突き上げられる感覚がした優愛は、無意識に八坂の名前を呼ぶ。こちらを見た彼の表情を目に入れると、優愛は自身最大の決断を下す。

「私、この前、由比くんに告白された」

「え!」

 思わず大きな声を出す八坂。

「でも、断った。」

 そっか、と八坂は呟く。

「他に好きな人がいるから」

 隣から吐息が聞こえる。優愛は真剣な眼差しで、八坂を見据える。

「八坂くんは、好きな人いるの?」

 八坂は目を見開く。

「好きな人、いる?」

 優愛はなんとなく思っていた。八坂が自分のことを好きなのではないかと。別に自分に自信があるというわけではない。穂高に言われ、優愛自身が八坂を好きであることを自覚してから、これまでの八坂とのことを思い返した。そして、それからはいつも意識して八坂と接するようになった。

 八坂の言動を一つひとつ考えていくうちに、もしかしたら八坂は、自分を好きになってくれたのではないか。そう思うようになった。

 もちろん確信があるわけではない。八坂が自分のことを好きではなかったら、別に好きな人がいたのなら、優愛はとても恥ずかしい思いをするだろう。しかし、それでもよかった。結果はどうであれ、優愛は自分の想いを伝えるつもりだった。

 優愛は少し顔を赤らめ、唾を飲みこんで八坂の顔を見つめる。八坂の顔は面食らったような、そんな顔をしている。

しばらく見つめ合う二人。八坂がゆっくり口を開く。

「俺は……俺はきみ……」

 そこまで言うと言葉を発さなくなる。今、きみって言った?きみって、『君』ってこと?じゃあ……私のこと?ドキッとして胸が少し高鳴る。しかしそれは、すぐに治まることになる。優愛から目を逸らした八坂は、儚げの目でトーンの低い口調で言う。

「前にも言ったかもだけど、俺に好きな人を選ぶ権利はないから……」

 立ち止まった優愛は、視線を床へと変えた。初詣の際、同じことを言われた。その時は何も言えずにただただ悲しい思いをしただけだった。だが今回は違う。

 なんで……なんでそんなこと言うの……。両手を拳にして強く握りしめ、目を強く瞑り、歯を食いしばる。悲しい思い。寂しい思い。何よりも優愛の中に生まれた思いは、怒りだった。

 立ち止まっている優愛に気づき、八坂は身体の向きを変えた。優愛は目を開くと八坂を見た。八坂の姿が少し歪んで見えた。その時、自分が泣いているのだと気づいた。八坂は驚いた顔で優愛を見る。涙を溜めた優愛の目は、自分のことを睨んでいる。泣いた顔は見たことあったが、睨んでいる顔は初めてだった。目を離せず、彼女を見続ける。

 優愛は距離が開いていた八坂との間合いを詰める。

「なんでそんなこと言うの?障害があるから自分で好きな人を選べないなんて……そんなこと……あるわけないじゃん!」

 優愛の目から滴が落ちる。高ぶる感情を抑えるように、小さく息を吐く。

「障害があろうがなかろうが、自分の好きな人は自分で決めるんだよ」

 鼻をすする。

「君は、自分の障害とまだ真正面から向き合えていない。……自分の障害を言い訳にして、君は……自分自身から逃げてるんだよ!」

 八坂は目を見開いた。心に大きな衝撃が走る。

「私は、逃げないから。どんなことがあっても、君から逃げたりしない。……だから君も、自分自身から逃げないで。正直に、自分と向き合ってほしい……」

 自分が涙を流していることに気づいた八坂は、今までと気分が違っていると感じた。今までちゃんと見ようとはしてこなかった、心の奥にいた重みが少し、いやだいぶ軽くなっている。誰にも言われてこなかったこと。でも心の奥底では指摘してほしかったこと。自分では踏み出せずにいた八坂の足に力を入れてくれたのは、目の前で涙を流して向き合ってくれている優愛だった。

 君はほんとに、俺の心を強く動かしてくれる……。自然と流れ出る涙を止めることを諦め、優愛の目をしっかり見据え、口を開いた。

「俺は……俺は高山さんのことが好きです。こんな俺だけど、一緒にいてくれませんか?」

 優愛は安堵のため息をつく。八坂の想いを聞けたことと、少しでも変化させられたことに、喜びを感じた。優愛は左手で八坂の右手を、右手で彼の左手を、手の甲から包みこむように握る。

「私も、八坂くんが好きです。君の全てを受け止めます」

 二人は涙で崩れた顔で笑い合った。

 少し離れた場所から、優愛と八坂を眺めるこころ。声は聞こえないが、見た雰囲気で状況は察することができた。満足そうに笑みを浮かべる。あーあ、とわざとらしいため息をついた森内が、腕を組みながらこころの隣に立つ。

「ったく、何やってんだよあいつら。今ボランティア中だろ」

「で、で、でも学さん…こういうの、好きでしょ?」

 長い付き合いになるこころには見破られていた。図星の森内は笑みを浮かべる。

「俺も戻れんなら、あんな青春してみたいもんだね」

 こころはくしゃっと相好を崩し、優愛たちを見つめ続けた。


――きつい言い方だったかもしれない。でも、私も彼も、強くならないといけない。彼となら、強くなれるかもしれない。彼のことを、強くさせられるようになりたい……。


 全校集会が体育館で行われている。校長先生の話は相変わらず長く、生徒たちは飽き飽きしている。いつもと違っていたことといえば、国語を担当している先生が病気により休職となったため、臨時の先生が就くことになったことだ。

 臨時の先生の名前はたしか、北澤先生だっけ?優愛は先日のことで有頂天であり、周りの話がしっかり入ってこない。

 集会が終わると、体育館の隅に美緒と穂高を呼んだ。

「え!ほんと!」

 美緒の声が響く。穂高は目を丸くしている。

「うん!」

 力強く頷く優愛の隣で、八坂がはにかんでいる。

「おめでと~!」

 美緒は勢いよく優愛に抱きつく。衝撃に一歩後退するも、満面の笑みで抱きしめ返す。

「ありがと」

 美緒が離れると、穂高が少し不安そうな顔で八坂に尋ねる。

「八坂くん。ほんとに優愛でいいの?」

 八坂は首を傾げる。

「この子不器用だから、世話焼くことになるだろうし、いろいろ大変だよ」

 たしかに、と隣で美緒が何度も頷く。八坂は優愛に目を向けた。優愛は自分の不器用さは理解している。穂高の言葉を否定できないため、苦笑いするしかない。八坂は笑みを浮かべると、穂高に目を戻す。

「そういうところも好きなんだよ」

 一気に真っ赤になった優愛は、顔を伏せる。

「あら」

 穂高がわざとらしく手のひらを口に当て驚く。

「さっそくのろけですか~」

 美緒はにやにやしながら肘で八坂を軽くつついた。八坂は頭を掻くと、思い出したように口を開く。

「目白さんに話しておきたいことがあるんだ」

「え、私?」

 八坂は頷いた。


「よかったの?穂高に話しちゃって」

「うん。二人にはちゃんと知っててもらいたいから」

「でも美緒にはすでに話してたのは知らなかったな」

「うん。成り行きだったけどね」

「でもなんか、まだちょっと不思議な感じ」

「そうだね。俺もなんか、実感が湧かない」

「ふふっ」

「何かおかしかった?」

「ううん。私たちって、やっぱり似た者同士なのかもって思って」

「そうかもね」


 国語の授業では、新任の北澤先生が教鞭を執った。おぼつかないところもあり、生徒たちにつっこまれながらも、授業は問題なく進んでいた。しかし、中盤に差しかかった時、教室の様態が一変する。

「じゃあこの問題を、八坂くん」

「え?」

 思わず小声で驚きを表す優愛。視線はすぐに八坂へ向かう。彼は無言で顔を上げた。

「あれ?八坂くんは欠席だったっけ?」

 北澤は出席簿を見る。

「あ、いや、います」

 八坂は手を挙げた。

「じゃあここの答え、板書してくれる?」

「あ、はい……」

 八坂は立ち上がると、教室前方の黒板へと向かう。なんで……。心の中で疑問を呈する優愛。八坂は指名されないはずなのに……。

 白いチョークを取り、持ち上げる。チョークの先端が黒板につきそうになった時、八坂の手が止まった。微動だにしない彼の様子を眺めていた生徒たちは、次第にザワザワし始める。

「八坂くん?」

 北澤の呼びかけに八坂が振り向く。

「分からないのなら、それでもいいんだよ」

「あ、いえ……」

 八坂は小さく首を横に振ると、黒板に向き直る。どうして下がらないの?優愛の心臓が早く脈打つ。

「八坂、大丈夫か?」

 固まったままの八坂を見かね、小金井が声をかける。

「うん……」

 そう答えるも、八坂の手は動かない。ザワザワのボリュームが上がっていく。

 一度目を瞑ると、優愛は勢いよく立ち上がり、黒板に向かって早足で歩く。上げられたままの右腕に手を置いた。

「もういいよ」

 優愛は目を細めて八坂に言うと、今度は先生の腕を掴んだ。

「先生。一緒に来てください」

 北澤に有無を言わさず、腕を引っ張りそのまま廊下へと出ていった。


「ちょっとちょっと、どうしたの?何?なんですか?君は、えっと……」

 強い力で引っ張りながら廊下を歩いていた優愛が立ち止まると、北澤の腕を離し身体を向ける。

「高山です!」

「高山さん。どうしたの?ちゃんと説明して」

「どうしたのって、こっちが聞きたいですよ!」

 少し声のトーンが上がる。優愛は自身の中に沸き上がる怒りを、必死に抑えている。北澤は合点がいかないようで、怪訝な表情のままだ。落ち着かせるようにふーっと長く息を吐き、平静を装った声色で尋ねる優愛。

「八坂くんのこと、他の先生方から何も聞いていないんですか?」

「聞く?」

 優愛は頷く。初めは彼女の言っている意味が分からず、眉をひそめていた北澤。しかし思い出したのか、あっ、と声を上げてポケットからメモを取り出す。それを少しの間見つめ、頭を押さえた。

「彼だったのか」

「だったのかって……」

 優愛はため息をついて、大声を出した。

「しっかりしてくださいよ!」

 その声は辺りに響いた。幸い近くは空き教室であったため、授業の邪魔にはなっていない。

「高山さん!」

 今度は八坂の声が響く。優愛と北澤が教室を出ていった後、しばらく立ち尽くしており、やっと二人に追いついた。優愛の表情が見えた時、八坂は目を見開いた。彼女のその顔を見たのは二回目だ。一回目はついこの間、水族館での時だ。


 二組の教室内は、授業時間だというのにザワついていた。それもそのはず。急に生徒が先生を連れて出ていったのだから。学級委員長の館山が教卓の前に立つと、パンパンと二回手を叩いた。

「はいはい、みんな!一応授業中だから静かにしようぜ!」

 でもよー。だってー。教室中で声が上がり、ザワつきは治まる気配はない。

 隣り合って座っている由比、小金井、三浦は椅子を引いて互いの距離を縮める。

「なあ、なんか知ってるか?」

「うちはなにも」

 三浦は首を横に振ると、左の由比に視線を移す。

「俺も知らない」

「どうしたんやろ。二人とも」

 三浦は腕を組んで、背もたれに身体を預けた。

「あ、俺さ、今思ったんだけど、八坂が黒板に書いてるとこって見たことない気がする」

 男子生徒の声に、クラス中の生徒は反応する。

「あ、言われてみれば私も」

 女子生徒の発言により、ザワつきは一層増していく。

「たしかに、俺も見たことない」

 小金井が呟くと、三浦の声を上げた。

「うち、八坂と一年の時も同じクラスやったけど、思い返してみれば、その時からなんか書いてる印象ないかも……」


「しょうがないよ。北澤先生は今日赴任したばかりなんだし」

 八坂は優愛をなだめるようとするも、彼女の興奮はいまだ治まらない。

「しょうがなくないよ!これはちゃんとしないといけないことだよ。その重要性をしっかり伝えなかった他の先生の責任もある」

「そんな大げさな」

 八坂は苦笑いをみせるも、優愛は強く首を横に振る。

「そんなことない。これは八坂くんの尊厳に関わる重要なことだよ。八坂くんが配慮してほしいところなのに。学校側だって今までちゃんと配慮してきてるはずなのに……」

 まくしたてた優愛は、ここで声をつまらせた。俯いて、小さく鼻をすする。

「……私、悔しいよ……」

 優愛の声は震えていた。八坂は息を呑んだ。顔を上げた優愛の目には、涙が溜まっている。

「職員室行って、ちゃんと話してこよう」

 また鼻をすする。優愛に気圧され、口を開けても声にならなかった八坂は、一度口を強く結ぶと小さく息を吐く。

「どうして君が、そんなに熱くなるの?」

 まるで自分のことのように突き進もうとする優愛に、疑問をぶつける。優愛は真っ直ぐな眼差しで八坂を見つめた。

「私は、八坂くんの理解者だから。私ができる範囲で、君のことを守りたいから」

 ドクンと八坂の心臓が跳ねた。自分のために、彼女はこんなに一心不乱に、周りの目も気にせず動いてくれる。いつだってそうだった。障害を受け止めくれた。友達という人間関係を構築してくれた。自然な笑顔を出させてくれた。背中を押してくれた。八坂は優愛から、かけがえのないものをたくさんもらった。彼女はいつも、自分のために何かをしてくれていたのだ。

「高山、八坂」

 館山が駆け寄ってくる。

「どうしたんだよ。みんなが気にしてるぞ」

 八坂は館山に向き直る。

「今から職員室に行ってくる」

「職員室?」

「後でちゃんと説明するから、それまでみんなを教室で待たせといてくれないかな?」

 今はまだ理由は話せない。お願い、と八坂は頭を下げた。館山が八坂の肩に手を置く。

「分かった。待ってるぞ」

 八坂は微笑を浮かべて頷いた。


 職員室の扉が開くと、授業を中断した大正寺谷が勢いよく中に入ってきた。

「高山、八坂、どうした?」

「北澤先生が、みんなの前で八坂くんに板書をさせたんです」

 すみません、と大きく頭を下げるのは北澤。

「高山さん、もういいから」

 優愛を優しい声でなだめると、部屋の中にいる複数人の教職員に向きを整える。

「みなさん。今まで俺のためにいろいろと配慮していただき、ありがとうございました」

 深々と一礼する。

「決心しました」

 決心?優愛は小さく首を傾げる。

「障害のこと、みんなに話します」

「え?」

 驚きの声を優愛を上げる。驚いているのは彼女だけではない。この場にいる全員が驚きを隠せないでいる。

「八坂、いいのか?」

 大正寺谷の問いかけに、八坂は笑顔で頷いた。

「怖かったんです。周りの目が。ただ一人でいるだけならまだしも、自分から障害の話をして、周りが冷たくなるような状況を、わざわざ作りたくなかったんです。だから何も話さず、初めから一人でいればいいって思ってました。でも……」

 小さく息を吐くと、微笑を浮かべる。

「大切な人ができました」

 その言葉に反応する優愛。大切な人って……。

「その人は、俺の全てを受け止めると言ってくれました」

「え?」

 思わず声が漏れる優愛。自分が水族館で八坂に伝えた言葉であったからだ。つまり、大切な人って、私のこと?優愛は顔が赤くならないよう、必死で照れを隠した。

「俺のことを守るために身体を張ってくれる、俺の良き理解者なんです。その人がそばにいてくれるので、もう怖くないんです。だから、みんなに話します。……俺もそろそろ、進み出さないといけないんで……」

 大切な人が誰なのか明示しなかったが、優愛は自分のことであると確信する。嬉しさと照れで抑えきれずに顔が赤くなり、呆けてしまった。

「高山さん」

「は、はい!」

 名前を呼ばれて我に返った優愛は、ピシッと背筋を伸ばして返事をした。

「君にも協力してほしいんだ」

「……うん。なんでも」

 優愛は真剣な表情で頷いた。


 教室内では、大正寺谷と北澤がこれからのことについて説明している。閉められたドアの前に立つ優愛と八坂。優愛は八坂の顔を覗きこんだ。ひどく緊張しているように見える。

「大丈夫?」

「さっき怖くないって言ったけど……やっぱ少し怖いな」

 苦笑いをみせる八坂。幾分声も震えているように感じられる。八坂の緊張を少しでもほぐそうと、優愛は八坂の手を握った。

「大丈夫」

 優愛の励ましを聞き、八坂はゆっくり頷く。ふーっと長く息を吐くと、ドアを開け中に入る。

 教卓の前につくと、教室中を見渡した。クラスのみんなが自分に注目している。

「みんな、俺もために時間をつくってくれて、ありがとうございます」

 深く一礼。

「みんなに伝えたいことがあります」

 八坂は右を向き、優愛を目に捉える。彼女は頷き、チョークを持つ。コツコツと黒板から音が出る。生徒たちはしばらく黒板を凝視していると、嘘?マジ?などと声が上がるようになる。優愛は書き終わるとチョークを置き、黒板の端まで移動。みんな文字が見えるようにした。

 黒板には『発達障害』、その下に『学習障害』とある。

「俺は、発達障害者なんです」

 教室中がザワつき始める。三浦は手を口で押さえ、小金井は口を真一文字に結び、由比は黒板と八坂の顔を交互に見ている。

「発達障害の一つである、学習障害を抱えています。その中でも俺は、文字を書くことができない症状があります」

 ザワつきが徐々に静まり、八坂の話に耳を傾けていく。

「ひらがな、カタカナはなんとか書けますが、漢字はとても苦手で、自分の名前と小学校低学年で習う漢字の一部しか書くことができません。なので、さっきも黒板に答えを書くことができませんでした」

「あ、だから今まで板書の機会がなかったのか」

 合点がいった小金井は、机に腕を置いて前傾姿勢をとる。八坂は頷いた。

「ほんとは誰にも言うつもりはありませんでした。みんなの反応が怖かったから」

 目を一度伏せると、小さく息を吐く。

「障害を受け止めるということは、とても難しいことです。だから無理に、俺の障害を受け止めてくれとは言いません。ただ、障害者はみんなが思っているよりも身近にいるってことを、知っててもらいたいです。……今まで隠してて、すみませんでした」

 深々と頭を下げる。教室は静まり返っている。みんな、どう反応すればいいのか分からず、明らかに戸惑っている。優愛は心配そうに八坂に視線を送る。

 ガタンと音が響くと、全員が音の出所に目を向ける。三浦が勢いよく立ち上がったため、椅子が大きな音を出したのだ。三浦は席を離れると、八坂の前まで歩み寄る。

「ごめんなさい!」

 顔を見合わせた後、勢いよく頭を下げた。

「うち、八坂と一年の時も同じクラスやったのに、全然気づかへんかった。……ううん、違う。知ろうとしてへんかった。ごめんなさい」

 三浦の声は上ずっていた。他の生徒は静かなまま、八坂と三浦に視線を向けている。

「顔上げて」

 八坂に促され、ゆっくり顔を上げる。

「気づきにくいものだから仕方ないよ」

 八坂は笑みを浮かべる。

「ありがとう。そう言ってもらえるだけで、気が楽になるよ」

 八坂の言葉を聞き、三浦は鼻をすすり笑顔をみせた。

「なんだよ。言ってくれりゃいいのに。水くせえな!」

 スキップしながら近づいてきた小金井は、八坂の肩に手を回した。小さく笑い声を上げる八坂に、由比も歩み寄り頷いてみせた。八坂も頷き返す。

 三人の対応を目にし、優愛は安堵のため息をついた。よかった。拒絶されなかった。自分の目に涙が溜まっていることに気づいた優愛は、後ろを振り向き、誰にも見られないように目を拭った。


――障害を告白することは、当事者の人生の中でもとても重要な場面であり、とても不安な瞬間だ。障害者であることが分かったとたん、今までと対応が180度変わることだってある。これから先、クラスや学校中の目が気になることになる。けど俺は、後悔はしていない。告白しても、今まで通り笑ってくれたり、俺のために泣いてくれる友達がいる。俺の決断は、間違っていない……。

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