1 気になる人は 発達障害
街の中心地から離れた閑静な場所に位置する、
そんな学校に通う
優愛に対面して座る
「優愛ちゃん、また何か悩みごと?」
「……どうして分かるの?」
突っ伏したまま、こもった声で答える優愛。
「まあ優愛が突っ伏す時は、そういう時だからね」
クールな口調で話す穂高は、箸で掴んだご飯を口へ運んだ。
1年生の時に同じクラスだった三人。しっかり者で冷静な穂高。陽気でムードメーカーな美緒。いろいろと揺れ動く年頃な優愛。それぞれ異なる性格が上手く噛み合ったのか、三人が仲良くなるには時間がかからなかった。2年に上がり三人は別々のクラスとなったが、仲が良いのは変わらない。昼休みに理科室に集まり、昼食をともにすることが日課になっていた。
優愛はゆっくりと顔を上げる。
「いや……ちょっとね。気になる人がいてね」
「それって、男の子?」
美緒のテンションが少し上がる。
「まあ、そうなんだけど」
「その子のこと、好きなの?」
美緒のテンションがさらに上がる。優愛は首を横に振る。
「いや、好きとかじゃないよ。だって、まだ話したことないし」
「気になるっていうのは、話してみたいってこと?」
穂高が冷静に問いかける。曲げていた背を伸ばし、優愛は首を縦に振る。
「うん。いつも一人だし。なんか……不思議な雰囲気があるんだよね」
「なら話しかければいいじゃん?」
「それができないからこうなってるんでしょ」
美緒からのそりゃそうだの言葉に、優愛は少し唇を尖らす。せっかく伸ばした背が、再び丸まり始める。
「話さないで半年も経ってるのに、今さらどうやって話せばいいか……」
穂高は小さく息を吐く。美緒は優愛の状況を楽しんでいるようで、少しにやついている。
「二人になれる空間をつくればいいんじゃない?」
「二人?」
「そ。二人だけになったら、話さずにはいられなくなるんじゃない?他に相手がいないわけだし」
笑顔の美緒からの提案に、うーんと小さく唸りながら頬杖をついた。
「……でも、二人だけになることってあるかな……」
空になった弁当箱を包んだ小風呂敷を提げた優愛は、どうすれば気になる男子と二人になれるかを考えながら廊下を歩く。分からないとため息を吐いて、焦点を頭の内から外へ向けると、廊下の先に不良とまではいわないが、やんちゃな男子生徒二人組が優愛の教室、二年二組の前のドアから中に入って行くのが見えた。
少し嫌な予感がして、小走りで廊下を行き、教室の後ろのドアから中を盗み見た。予感的中。二人組は、席に着いて本を読んでいる男子生徒のそばへ向かった。その男子生徒こそが、優愛が気になっている張本人であった。
「や~さっかくん!」
「何?」
八坂はめんどくさそうに口を開く。
「お前、追試受けてんだって?しかも毎回」
優愛からは少し離れているのだが、二人組の登場により教室は静かになっているため、優愛の耳にもその声は届いた。追試のことは初耳だったため、小さく声を出して驚いた。
「うん。受けてるけど」
「お前ってバカなのか?」
「そうかもね。それで?」
冷静に答える八坂。挑発したのにのってこなかったことに拍子抜けした二人組。あまりにも平静だったのが気に食わなかったのか、別の話題で挑発しようとした時、このクラスの学級委員長である
「おい、そのくらいにしとけ。最近、生徒指導が目を光らせてんだ。そんなんだと目をつけられるぞ」
陽葉高校の生徒指導の教諭は、ボクシング経験があり、背が高くて筋肉質の体格である。ただすれ違うだけでも威圧感がある。そこをちらつかされると、誰も何も言えなくなる。
舌打ちを残し二人組は教室を出た。緊張が解け、クラスにはまた話し声があふれる。
「大丈夫か?」
「うん。ありがとう」
八坂が館山にお礼を言ったとき、午後の授業の始まりを告げるチャイムが鳴る。優愛は自分の席に着くと、八坂の横顔を見た。さっきのことがなかったかのような、いつもと変わらぬ表情であった。
授業中も二人になる方法を考える優愛。そのため授業は上の空。先生から指名されていることにも気づかず、隣の席の生徒に肩を叩かれ、ようやく心が授業に戻り、勢いよく席を立つ。
「
先生が少し呆れた顔で問いかける。優愛はこめかみ辺りを人差し指で掻く。
「どうせまた将棋のこと考えてたんだべ?」
廊下側の一番前の席から、男子生徒の声がする。優愛は苦笑いでそれにのっかる。
「いやあ、居飛車と振り飛車のメリットとデメリットを検証していて、つい……」
またかよ、なんだよそれ、などと教室が笑い声とともに騒がしくなる。優愛は地域のクラブに通うほどの将棋大好き女子高生である。それはクラス中が知っていることであり、よく将棋をネタにいじられている。残念ながら将棋の話が合う生徒とは出会えていない。
「ちゃんと集中しなさい」
先生はそう言うと、騒がしくなった教室をなだめることに集中した。助かったと言わんばかりに安堵のため息をつくと、席に座り直し、八坂のほうへ顔を向けた。いつも通り、真剣に教科書を読んでいる。ペンは持たずに。
教科書を立て、それを陰にして頭を突っ伏した。全然考えがまとまんない。
しばらく突っ伏したままでいると、教科書で頭を小突かれた。勢いよく顔を上げると、みんな席を立ち、動き回っていた。どうやらそのまま居眠りをしたらしく、すでに授業は終わっていた。
「また居眠りか。夜ちゃんと寝てんのか?」
「……
少し寝ぼけた声で、目の前で教科書を持って立っている由比を見る。彼は優愛と中学から一緒で、端正な顔立ちのイケメンだ。
「次、移動教室だぞ。遅刻すんぞ」
優愛の頭をぽんと軽く叩いて、教室から出ていく。次の授業ってなんだっけ?黒板横の掲示板に貼られた時間割を見て、引き出しを覗きこんだ。
一日の授業がすべて終了した放課後。グラウンドには部活動を行う生徒たちの声が響く。校舎内では人はまばら。文化系の部活動は、各部に適した教室を利用するため、普通教室が集まる校舎には人はほとんどいない。
所用で放課後も学校に残っていた優愛。トイレから戻り、教室の後ろのドアから中に入ろうとしたとき、声は出さなかったものの、心臓が止まってしまうんじゃないかというくらい驚いた。八坂がいた。本を読むという、優愛がよく見る姿がそこにはあった。
優愛は普段、放課後に学校に残ることはほとんどない。部活動はしておらず、学校帰りは将棋クラブに向かうことがほとんどだ。
なぜ今いるのかと思ったが、自分が知らないだけで、普段からよく残っているのかもしれない。二人だけの空間が不意に訪れた。これはチャンスかもしれない。周りには誰もいない。気にすることなく、八坂と話すことだけに集中できる。今まで聞きたかったことを聞けるかもしれない。
優愛は大きく深呼吸をし、教室の中に入り、八坂との距離を縮める。八坂がしおりを挟み本を閉じた。今だ。
「八坂くん」
緊張しているせいか、声が裏返ってしまった。かなり恥ずかしかった。言い直したかったが、それはできない。八坂が優愛の方を向いた。
「あの……私、高山っていいます。同じクラスの」
とりあえず自己紹介をした。声は直っているが、緊張は増していく。
「うん、知ってるよ」
「え、知ってるの?」
八坂の最初の反応がどうなのか怖かったが、柔らかい口調で返事がきた。
「まあ、クラスメイトだから名前くらいは」
「あ、あー、だよねー」
名前だけでも知ってくれていたのは、今の優愛にとってはかなり嬉しいことである。しかし、次の言葉が出てこない。話したいことは多くあるのに、どう口にすればいいかが分からない。少しの沈黙が流れる。
「何か用?」
八坂が聞いてきた。これを合図とし、優愛は頭に浮かんがことを順番に話していくこととした。
「あ、うん。用ってわけではないんだけど。同じクラスになって半年経つけど、一度も話したことなかったなあと思って」
「ああ。まあでも、それは君に限ったことじゃないよ」
「え?」
「一年の時からもそうだし、同じクラスでも話したことのない人のほうが多いし。だいたい一人でいるしね」
「そうなんだ」
八坂が誰かと話している姿はあまり見たことがない。八坂が一人でいることが多いことは、なんとなく分かっているつもりだったが、八坂自身の口から聞くと、少し寂しく感じる。
なぜ誰ともつるまないのかと聞きたいところだが、それはさすがに聞きづらかったので、それは頭の隅に追いやった。
「いつも放課後、残って本読んでるの?」
「いつもじゃないけど、ときどきね。周りを気にせずに集中できるしね」
「あ、じゃあ邪魔しちゃったかな」
優愛はすまなそうに言うが、八坂は首を横に振る。
「ううん、帰るとこだったから大丈夫だよ」
机に置いた文庫本を掴みあげると、鞄の中にしまう。
「あ、そっか」
ブックカバーがかけられているため、はたからは何を読んでいるのか分からない。どんな内容なのか聞こうとしたら、八坂が問いかけた。
「珍しいね。高山さんが残っているのは」
「あ、うん、ちょっとね……」
優愛は、言ったそばから自分に嫌気が差した。せっかく八坂と話せているのに、八坂が問いかけてくれているのに、そんな答え方しかできないなんて。心の中で落胆のため息をついた。
八坂は立ち上がると、鞄を肩にかけながら優愛を見る。
「じゃあ俺、帰るから」
「あ、うん、また明日ね」
「うん、また明日」
八坂の後ろ姿を見送った。緊張の糸が一気に緩み、今度は安堵のため息をついた。煙たがれると思っていたが、意外にも普通に話すことができた。それどころか、初めてなのに柔らかい口調で、目を見てしっかりと話を聞いてくれた。笑顔をみせることはなかったが、八坂はいい人だ。優愛は単純にそう感じた。短い時間だが、優愛にとっては濃密な時間だった。誰もいない教室で一人笑顔を浮かべると、自分の机から鞄を担ぎ上げる。
学校から出た八坂は、その足である施設の敷地に入っていった。
『社会福祉法人 相模福祉会 児童養護施設
正門にはそう書かれている。
建物の玄関から中に入ると、子どもたちの声で一杯になっている談話室に向かう。遊んでいる子どもの一人が、近づいてくる八坂に気づく。
「あ、
その声を合図に、子どもたちが一斉に駆け寄る。子どもたちの頭を撫でる八坂。教室ではみせることのない笑顔がそこにあった。
小さい子どもが大半を占めるなか、制服姿の女の子がいる。彼女は少しばつが悪そうな顔をして、八坂に近づく。
「りゅ、龍くん。…前のこと、わ、忘れてて。ご、ごめん……」
言葉が詰まってたどたどしい話し方。八坂は女の子に視線を移すと、優しい笑顔で小さく首を横に振る。
「いいよ。気にしないで」
昨日、八坂と初めて話せたことに有頂天になっている優愛。今日の授業の内容が頭に入ってこない。
今日はどう話しかけようかと考えていると、女子生徒に名前を呼ばれて顔を向ける。声をかけた女子生徒は、みんなから
「この前、新しいケーキ屋見つけて、今日食べに行くんやけど、優愛も行かへん?由比がおごってくれるんやって」
「おい、俺はそんなこと言ってねえよ」
すかさずツッコむ。わざとらしく口を尖らせる三浦。優愛は断ろうかと考えていたが、この会話に新たに男子生徒が加わる。以前、優愛の将棋好きをいじった生徒だ。
「お、どこ行くの?俺も連れてってよ」
由比の肩を組む。驚いた由比は突き放す。
「馴れ馴れしんだよ!お前は呼んでねえよ」
由比は彼が苦手らしい。それをよそに、三浦が話しかける。
「
「おうよ。おごってやるべ!」
小金井は笑顔で自分の胸を叩いた。三浦も笑顔で返す。
「じゃあ行こう!」
「おい。何だよその判断基準」
この中では由比はツッコミ担当のようだ。
「優愛は?行く?」
ここまで話が進んでしまうと、断りづらくなってしまった。八坂を一瞥すると、無理に笑顔をみせた。
「……うん。行くよ」
駅から少し離れた場所に新しくできたケーキ屋には、テーブルが数席用意されており、店内で食べることができるようになっている。由比たちに連れられて来たものの、乗り気ではない優愛は浮かない表情である。
隣に座る三浦が、フォークを持つ手を止めて優愛を見る。
「優愛、大丈夫?」
「え?あ、うん」
「なんか予定あったん?それやったら断ってくれればいいのに」
「ううん、そんなことないよ。ちょっと考えごとしてるだけ」
三浦は少し首を傾げる。小金井の抜けた声が入ってくる。
「将棋以外のことも考えれば?」
「一応、将棋以外のことなんだけどね」
苦笑いで答える優愛。由比が心配そうな顔で声をかける。
「あんまり無理するなよ。お前、思いつめるところあるから」
「うん」
「行き詰ったら俺らに相談しろよ。友達なんだし」
その言葉にぽかんとする優愛。由比が小金井の肩を引っ叩く。
「お前いつ友達になったんだよ」
「由比くん。友達ってのはいつのまにかなってるものなんだよ」
由比の肩を抱く小金井。それを引き離そうとするが、力が強くて離せない。その二人を見て思わず吹き出す優愛と三浦。優愛は少しの間でも、気を楽にすることができた。いつか八坂とも、こんな感じで話せるようになるのだろうか。
特に名案が思いつくこともなく、優愛は前と同じシチュエーション、放課後居残りをするという選択をした。これしか二人きりになる状況が想像できなかったのだ。
この前話したときに、残ることはときどきあると言っていた。だから今日も残っているはず。特に用もなく、将棋クラブに顔を出す日でもあったのだが、八坂との会話のチャンスに自分の行動を合わせる。
帰りのホームルームを終えると、優愛は一旦教室を出て時間を潰し、教室に戻る。優愛は心の中でガッツポーズをした。今日も残っていた。よし、声をかけよう。緊張はしているが、一度話したことがあったからか、前ほど心臓は激しく動いていない。教室に入る。
「あれ、高山さん」
「あ、どうも」
「今日も残ってるの?」
「あ、うん。八坂くんに聞いてみたいことがあって」
「うん、何?」
優愛は勢いで言ってはみたものの、少しためらってしまった。ついこの間、初めて話しかけたばかりなのに、質問してもいいのだろうか。しかし、このチャンスは逃せない。聞けるときに聞こう。優愛は意を決した。聞きやすいことから聞こう。
「八坂くんて、本好きなの?休み時間もよく読んでるし」
「ああ、別に好きってわけじゃないんだけどね……」
八坂は読んでる途中のページにしおりを挟み、本を閉じると机に置くと、革のブックカバーを優しく撫でる。
「まあ、勉強のためかな……」
八坂の声のトーンが少し下がった気がした。表情も少し暗くなったような気もした優愛は、話題を変えた。
「あ、えっと、ずっと前から気になってたんだけど、八坂くん、授業中にペン持たないよね?それはなんでかなって思ってて」
八坂は少し驚いた顔をして優愛を見つめた。
「あ、たまたまね。いつも見てるわけじゃなくて、たまたま、たまたま見たときがいつもそうだから……」
焦った優愛は言い訳をするように立て続けに言葉を発した。八坂は先ほどと変わらぬ表情で優愛を見続けている。まずいことを聞いてしまったのか。優愛はばつが悪くなる。しかし、質問を撤回するのも気後れしてしまった。
しばらく沈黙が続き、八坂は小さく息を吐く。目線を優愛から外し、教室の前の黒板を見た。やっぱりまずいことを聞いたんだ。いよいよ優愛が撤回しようと口を開こうとする。だが先に声を発したのは、八坂だった。
「誰にも話してないんだけどさ。……俺さ、発達障害なんだ」
「……え?」
思ってもみない言葉が出てきた。優愛は耳を疑った。障害?障害って、あの障害のことなのか。
「発達障害。その中に含まれる学習障害。学習障害って知ってる?」
優愛が我に返ると、八坂の視線が自分の顔に戻っていることに気がついた。目が泳ぎ、少し言葉に詰まった。
「あ、うん。名前は、聞いたことある……」
「読む、書く、聞く、話す、計算、推論。学習していくうちに身に付けていく能力に障害が出るんだ。俺の場合は、書くことに障害があって。書字障害って言ったりもするんだけど。ひらがな、カタカナはなんとか書けるんだけど、漢字は全然で。自分の名前と小学校低学年で習う一部しか書けないんだ」
八坂は自分の障害について説明した。優愛は呆気にとられてしまい、その間は何も相づちも入れられず、何も考えられず、ただ八坂の話を聞くことしかできなかった。八坂が話し終わると、優愛はようやく考え始め、気がついたことを尋ねた。
「あ、じゃあノート取らないのは、書くことが難しいからってこと?」
「うん」
「そっか、知らなかった……」
力が抜けてしまった優愛は、八坂の隣の席に座った。八坂の様子を伺いながら、優愛は続ける。
「授業の内容とかは、教科書や板書を読んだり、先生の話を聞いたりするだけで覚えてるってこと?」
「うん。聞いたことは、頭の中で何度も復唱してるよ。でも限界はあるから、後でまとめたりもするんだけど、なかなかね……」
優愛がずっと抱えていた疑問の答えが出た。しかし、その答えは想像もしていない内容であった。でも八坂のことを知ることができた。優愛は、答えを知った衝撃と八坂が誰にも言っていないことを知れたことの、驚きと嬉しさの両方の気持ちになり、複雑な心境だった。
「追試もよく受けてるよ」
「テスト時間では間に合わないんだ。書くのに」
「うん」
優愛は何度が頷く。八坂は優愛の反応を伺うように、少し暗いトーンになって優愛に問いかける。
「俺のこと、かわいそうとか、残念な奴って思ってる?」
「え?」
優愛は驚いて八坂の顔を見た。八坂は真剣な眼差しで優愛の目を見据えていた。優愛は少し眉間にしわを寄せ、口調も少し強くなる。
「思わないよ。そんなこと……」
今度は八坂が少し驚いた顔をする。優愛はしわを解き、微笑を浮かべた。
「かわいそうだとか、そんなこと思わないよ。他人事だとか綺麗事だって言われるかもしれないけど、私、障害ってその人の個性だと思ってるから。人の個性をかわいそうって思わないでしょ?」
優愛は再び微笑んだ。障害を抱えていることに関しては、正直とても驚いた優愛。障害に対する接し方も知らない。だが、かわいそうだとは思わない。個性という表現が正しかったのかは分からないが、悪いことだとは思っていない。
八坂は少し呆気にとられる。優愛を見据えたまま、ゆっくり口を開く。
「……君は変わってるな」
「え?どうして?」
「他人の障害を、どうしてそんなにすんなりと受け止められるんだ?」
「うーん、どうしてかな……」
優愛は腕を組んで考える。優愛の考える姿を見続ける八坂。優愛は目線を上に向けて口を開いた。
「……私、八坂くんの理解者になりたいな」
「え?」
八坂は驚きの声を上げる。優愛は目線を八坂に戻し、笑顔で話し始める。
「確かに、障害って受け止めるのは難しいことだけど、私は八坂くんのこと理解したいって思ってるし。だからなのかな、受け止められるのは。……あ、そうだ!」
優愛は何かを思いつき、目を大きく見開き八坂を見た。その目は輝いていた。
「私のノート、八坂くんに見せてあげる!」
「え?」
「私、ノート取るの得意なんだ。先生の話もしっかり取れるし。あ、寝てなければの話だけど」
優愛の勢いに圧倒された八坂。
「コピー取ってくる。どう?」
八坂は腕を組み椅子の背もたれに身体を預けて考える。横目で優愛を見る。思いついたこの考えが、よっぽど良い考えだったのか、優愛の目の輝きは保たれていた。
「……考えておくよ」
優愛は満面の笑みを浮かべると席を立つ。
「じゃあまた明日ね」
「うん。明日」
優愛は笑顔で八坂に手を振り、自分の席から鞄を持ち上げると、リズミカルに教室を出ていった。
優愛の後ろ姿を見送ると、少し息を吐いた。目線を窓ガラスの外に移すと、額をガラスに当て、呟いた。
「そういうの、あんまりなんだけどな……」
翌朝の職員室。優愛は挨拶をし頭を下げながら中に入り、クラスの担任である
「先生。話したいことがあるんですけど、いいですか?」
「おう。なんだい?」
優愛は顔を先生の耳元に近づける。
「できれば、二人きりで」
「えっ?」
先生は面食らい、しばらく何も言えなくなってしまったが、職員室に隣接する応接室に優愛を連れていく。ドアを閉めると、先生は咳払いをした。
「なあ高山、ちょっと考えてみてもいいんじゃないか?」
「はい?」
「いやまあ、自分で言うのはなんだけど、俺はけっこういい顔していると思うし、結婚してないからそこらへんでは問題はない。けどなあ、俺とお前は教師と生徒なわけだし、お前はまだ二年生だろ。まだ一年以上あるわけだし。せめて、卒業してからでもいいと思うな、俺は」
「……先生。なに勘違いしてるんですか」
優愛は目を細めて先生を睨んだ。先生は不思議そうに首を傾げる。優愛はわざとらしく大きくため息をついた。
「話したいことは、八坂くんのことです」
「あ、そうなの。なんだなんだ」
先生は高笑いしながらソファに座った。飄々としているところがあるこの先生は、掴みどころがなく、少し絡みづらいと思う生徒も多くいる。優愛もその一人で、少し苦手意識がある。小さくため息をつくと、先生に対面するように座る。
「八坂くんて、発達障害なんですって」
「ああ、うん。知ってたよ」
「え、知ってたんですか?」
「当たり前だろ。そんな生徒の重要なこと、知らないわけないだろ。教職員全員周知の事実だよ」
「そっか、そうですよね」
自分だけが知っているような気分で話してしまった優愛は、少し恥ずかしくなり、前屈みになっていた姿勢を正した。
「じゃあ、先生方が八坂くんを板書で指名しないのって、知ってたからなんですか?」
「そうだよ。一応配慮かな。ときどき放課後に補習したりもしてるよ」
「え、先生がですか?そういうの、めんどくさがってやりたがらなさそうなのに」
思わず本音が出る優愛。先生はまた高笑いをする。
「俺はな、けっこう生徒のことをちゃんと見てるし、生徒のために動ける先生なんだぞ!」
先生はドヤ顔を決める。それを見て苦笑いを浮かべた優愛は、軽く息を吐いた。学校側がちゃんと八坂の障害を理解しており、配慮もされていることを知り、少し安心した。思わず微笑む。
優愛の様子を見た先生は、真剣な表情になり、前屈みになって優愛に問いかける。
「障害のこと、八坂本人から聞いたのか?」
「え、あ、はい」
「そうか……」
先生は腕と足を組みながら、背もたれに身体を預けた。優愛は不思議がる。
「あいつ、他の人に知られたくないみたいでさ。先生方以外には言わないでほしいって言われてたんだよ」
「え、どうしてですか?」
「変に気を遣われるのが嫌みたいで。昔いろいろあったってことも理由かもしれないけど。だから先生以外で知ってるのは、高山だけかも知れないな」
「そうなんですか……」
優愛はハッとした。昨日八坂と話をしたときのことだ。文字が書けない八坂に対して、ノートを見せてあげると言ったとき、少し間を置いて考えておくと言われたことを思い出した。その答えの意味が先生の話を聞いて理解できた。そのとたん、寒気が走った。吐き気のような気持ち悪さが襲い、手で口を押さえた。優愛は、自分が大変なことをしてしまったと感じた。八坂の意見を聞かず、一方的に押しつけてしまった。冷や汗もかきはじめた。
「大丈夫か?」
顔色の悪さに気がついた先生は、優愛の顔を覗きこんだ。優愛は作り笑いで返事をした。
「あいつと、仲良くしてやってくれよ」
「え?」
「八坂が自分から話したんだ。八坂の障害を知ってるのはお前だけ。あいつのこと、理解してやってくれよ」
教室の自分の席に座る優愛は、人生で初めての貧乏ゆすりをしながら考えていた。先生に言われるまでもなく、八坂と仲良くなりたいと思っているし、理解したいとも思っている。しかし、八坂のことを傷つけてしまった。まずはそれを謝らなければならない。
今までも誰かに謝らなければならない状況は何度もあったが、今回は今までとは優愛の気の持ちようは違っていた。相手が気になる男の子であることと障害に関わることであり、話しかける勇気がいつも以上に必要であった。
八坂の席に目をやる。いつも通り本を読んでいる。教室の中では謝れない。他の人がいるからだ。どうにか二人になれないかと考えていると、八坂は本を閉じ、席を離れた。この機会を逃せないと感じ、教室から出た八坂の後を追った。
廊下には誰もいない。好都合だ。八坂との距離を縮めて呼び止めた。
「八坂くん」
「ん?」
八坂は足を止め、振り返る。手を組み、ばつが悪そうな表情で優愛が立っている。目が泳いでいて、落ち着かない様子が見てとれる。
「あの、少し話したいことがあるんだけど」
「ああ……」
八坂は視線を優愛から外した。もう自分とは話したくもないかもしれない。優愛はそう考えていたが、謝らないわけにもいかない。ここで話をすることを断られたとしても、とにかく謝りたかった。少し考えていた八坂は、親指で自分の進行方向を指しながら、優愛に視線を戻した。
「トイレ、終わってからでもいいかな?」
「え?」
八坂の親指の先を見た。優愛たちの教室から一番近くにあるトイレを差している。
「あ、うん」
優愛はトイレから少し離れたところで、壁にもたれて待っていた。トイレから八坂が出てくる。
「ごめん、お待たせ」
「あ、うん……」
「話って?」
「あ、うん……」
優愛は俯き、目を閉じた。嫌われてもいい。話を聞いてくれるだけでもありがたいことだ。ちゃんと謝ろう。小さく息を吐くと、大きく頭を下げた。
「ごめんなさい!」
「え?」
「さっき、大正寺谷先生から聞いたの。障害のこと、誰にも言ってないのは、変に気を遣われたくないからだって」
「あー、うん……」
優愛は頭を下げながら話を続ける。
「私、八坂くんのこと何も知らないのに、ノート見せてあげるって、勝手なこと言っちゃった……」
優愛の目に涙が溜まる。
「私、自分がいいことだって思ったら、一人で盛り上がって、周りが見えなくなることがあって。そのせいで相手を傷つけることもあって。それ、直さないとっていつも思ってるのに、またやっちゃった。八坂くんのこと、傷つけた。本当にごめんなさい……」
優愛の目から涙がこぼれた。なぜ自分が泣いているのか、優愛は自分に対して怒りを覚えた。私が傷つけた。私が加害者であって、被害者じゃない。なのになぜ、自分が泣いているのか。そう思うとさらに涙が流れる。しばらく沈黙が続くと、八坂が口を開いた。
「泣かないで。顔上げて」
優愛は手で涙をぬぐうと、ゆっくりと身体を起こす。少しためらうが、顔を上げて八坂の顔を見た。怒っていると思っていたが、八坂は優しい表情で優愛を見ていた。
「しょうがないよ。君は知らなかったんだから」
優愛は首を横に振る。八坂は微笑んだ。
「そういう真っ直ぐなところは、君のいいところだと思うよ」
優愛は驚いた。責められても仕方がないはずなのに、自分のことを褒めてくれた。優しい表情で、柔らかい口調で。優愛は一瞬頭にあることが浮かんだ。そしてそれを何も考えずに、無意識に言葉にした。
「私と、友達になってくれませんか?」
唐突すぎる。謝るために呼び止めたのに、優愛は場違いな発言をしてしまった。自分でもなんで言ってしまったのか分からない。でも、八坂のことをもっと知りたいと思った。もっと親しくなって、八坂を理解できるようになりたい。涙目で少し紅潮した顔で、八坂を見つめる。
面食らってしまった八坂は、少し呆然としながら優愛と見つめ合う形となった。
――この子は不思議だ。こんな短い間に、俺の心を掻き乱す。いろいろな意味で。こんな人は、今までに出会ったことがない。君は、どういう人間なんだ……
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