マネキンの人形を抱きしめて

ザイオンキャピタル

マネキンの人形を抱きしめて

 ぼくは毎日電車で通勤している。街のなかに高架の上を走っている、あの古い列車のことだ。いつも帰りしな、電車の窓から街の景色を眺めている。とはいっても、たいていは両側がビルに囲まれているから、ほとんど向かいのオフィスを覗いているようなものだったけれど。

 列車は街をスクエアに回っている。左上のコーナーに差し掛かるとき、いつもぼくは左の窓をずっと見つめている。ちょうど左に曲がっていくなかで、向かいのビルの角部屋が見えるのだった。そこは薄青い部屋で、マネキンが窓に立てかけられていた。金色のブロンドの、ふくよかでいてスリムな体型のマネキンだった。ぼくは仕事終わりにいつも、そのマネキンを、薄青い部屋のなかにいるマネキンを目の端で捉えていた。

 家に帰っても、なにもなかった。高い家賃。寒い部屋。染みだらけの壁紙。ダウンタウン。その部屋でぼくはあの女を思い出す。あのマネキンを。-

 あるとき、ぼくは家に帰る途中の駅で降りた。そこは、あのマネキンがあるビルのすぐ最寄り、ほんとうにすぐそばにあった。たくさんの人々とともに、ぼくは階段を降りていく。駅を降りた先はオープンテラスの店がいくつかあって、みんな楽しげに、暖かに、にぎわっていた。ぼくはそこを抜け大通りへと出た。

 目当てのビルはすぐそこにあった。案の定、二階にはテナントが入っているようだったけれど、こんな穴のあいたシャツを着た男が一人入れそうにはなかった。ビルのふもとに着いて見上げると、あのマネキンがもう真上にいるのがわかった。ぼくはビルの壁にしがみついていた。だめだ、なんとかして、あそこへ行きたい。

 それでもその日、ぼくはしばらくその壁に掴まって突っ立ったあと、くるりと振り返り、もときた道へ戻っていった。駅のふもとは相も変わらず、暖かく、にぎやかで、グラスの触れあう音が聞こえてきた。ぼくは階段を上り、たった一枚の大きなコンクリートでできたホームで電車を待った。

 ぼくが再び行動を開始したのは、その二週間後だった。洋服を梱包する仕事をさせてもらっているが、この季節になるとあまりにも受注が多く、従業時間が長くなってしまうのだ。マネキンの置いてある店はもう閉まっており、その暗いガラスをのぞきこもうとしても、反対にぼくの顔が、髪がぼさぼさで、ぎょろっとした目のぼくの顔が窓に近づいてくるだけだった。

 疲れ切ったものの、しばらく仕事が落ち着きそうだとわかった日に、ぼくは例の駅を降りて、それから例のビルを突っ切って、そのまま大通りの突き当りにある公園へ向かった。記念公園というやつで、立派な、大きな公園だった。その頃、陽は落ちたばかりで、あたりはまだほの青く明るかった。ぼくは公園を歩き回っていると、一人の、ピンクのパーカを来た女が公園の隅っこに座っていた。年は若そうだが、ホームレスなのは明らかだった。いたるところにホームレスはいる。臭いのしない、寒空のしたにいるホームレスたち。

 ぼくはその女のところへ寄っていった。女もぼくと似たように目が大きく、警戒して少しぎょろっとした目でこちらを見た。

「少し付き合ってほしいんだけど」

「かまわないで」

 彼女はたばこを吸っていた。ぼくは全身に疲労が重くのしかかってくるのを感じながら、一度この広い公園を出て、それから2ブロック歩いたところでタバコ屋を見つけ、一箱、いやもう一つ、買い、それからまたあの女のもとへ戻った。あたりはもう真っ暗で、公園内に白い明かりが連なって点灯していた。

 ぼくが近づいてくると、女はまた嫌そうな顔をした。

「なにもしないよ。する気すら起きないよ。仕事が終わったばっかりなんだ。すこし一緒に歩いて欲しいんだ。ただそれだけなんだ」

 ぼくは買ってきたばかりの煙草のケースを目の前で破り、そして手渡した。「ほんとになんにもしないから」

 女は面倒くさそうに立ち上がった。

「触ろうとしたら殺すから」

 ぼくは彼女を連れ、公園を出ようとした。

「どこまで連れていくつもり?」

「いいから来て」

 彼女は興味を持ったのか、ぼくのすぐ後ろをついてきてくれた。

 ぼくたちは目当てのビルにやってきた。

「なんにも手を貸さないわよ」

 ぼくは服を買いたいんだと言って、無理やり階段を上っていった。彼女も場違いなのは気づいていて、後ろでぶつくさ文句を言っていた。

 テナントは狭く、本当に電車から見える小さな角部屋だけを割り当てられたようだった。薄青い部屋がその薄青いフィルムが張られた入り口、窓から中が見える。ブティックのようなところだった。ぼくが躊躇っていると、女が膝でぼくのケツをこずいた。ぼくたちは中へ入っていった。

 店員は一人だけいた。真っ黒な、いままでに見たことのないような漆黒のドレスを着ていた。ぼくたちをちらと見て苛立たしげに舌打ちした。

 彼女は適当に服を物色し始めたが、ぼくはまっすぐにマネキンのもとへ向かった。その背中がすぐぼくの前にあった。ぼくはところかまわず、後ろからそのマネキンを抱きしめた。マネキンはバランスが崩れ前に倒れ、ぼくも脚をひっかけてそのままガラス窓へ倒れ込んだ。割れはしなかったものの、大きな音がした。店員がなにか叫び、ホームレスの女の悪口が聞こえてきた。ぼくはマネキンを離さなかった。ひっくり返して仰向けにしてまた抱きついた。リノリウムの床が冷たくて、マネキンはとても硬質だった。それでもぼくはその硬い

胸にぼくの頬を押し付けた。ぼくはただ寝たかった。眠たかった。大きな大きな眠気がやってきていた。はじめて、ぼくの意識がその大きな眠りにつこうとしたとき、身体に大きな衝撃が走った。

 ぼくはパトカーに放り込まれ、ついでにホームレスの女も一緒に放り込まれた。申し訳ない気持ちで、残しておいた煙草の箱を取り出そうとすると、その女はぼくに唾を吐いた。それでもぼくが煙草を差し出すと、それをひったくって、それきりなにも言わなかった。

 次の朝、ぼくのことは街の新聞の小さな記事になっていた。記事の内容はぼくの行動を推察したものだったが、全部的外れででたらめだった。ぼくは少しながら満足と安堵感を覚え、それから二度寝をしにベッドへもぐりこんだ。


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