あさみどり
卸忍辱
雪解け。
いつものように彼とだらだら過ごす一日。
無言でお互いのやりたいことをして、穏やかな時間と、私のブタの毛の油彩筆と、彼の本のページだけが動いているだけの空間。
切り取ってもなんの面白みもない場面。
私は窓から差し込む暖かな光のベールで頭をぼんやりさせながら、いつものように巨匠の作品をまねていた。
「……相変わらずうまいな」
いつもなら絶対に話しかけないタイミングで彼が話しかけてきた。こういうときは大体、沈黙に耐えかねたときだ。なにを話すつもりだろうと適当に待っていたのだけど、彼の話は私の予想をはるかに超えていって、シャボン玉みたいに思わず知能が口から飛び出す。いわゆる絶句。
……彼の無駄な修飾の多い話をちゃっきりカットしてまとめると、贋作を書いてくれないか、というお願いだった。模倣する、ということに関していろいろあった私にとってその言葉がどれだけとがったナイフみたいに心を突いてくるかは私の彼氏ならわかっていないはずがないのにその話をするということは死ぬ覚悟ができているんだな?
彼もさすがにわかっているのか、「本当にきみのことは好きなんだけど、だからこそ……」などと感情に訴えて絆そうとする動きをしてきたのですぐに止める。黙れ、とりあえずそこに座れ。事情を聞いてから情状酌量の余地があるかは判断してやる。
最初のうちは往生際が悪くうだうだ言っていたのだけれど、ひとつひとつ丁寧に相手の口撃をつぶしていくと、やっと本音のようなものが見える。
曰く「きみの贋作を本物にするんだ」ということらしい。私の彼氏なんかやってるからついに頭が沸騰してしまったのかとおもったのだけれど、そのあとにちゃんと「本当に君のためになると思ってのことなんだ。君はこんなにすごいんだって証明してみせる」といっていたのを見るとっどうやらまだ正気は残っていそうだった。私も私で、まぁなんか褒められて悪い気もしないので完成までだいぶかかったこの模倣品をやろう、くらいの気分にはなってきた。さすがに昔のことをいつまでも引きずれるほど子供ではなくなっていたらしい。
何より私は彼のそういうところが好きだったような気もしてきたので、家の倉庫にしまってあった最近話題の画家の贋作を引っ張り出してきて一枚あげた。
「何に使うの?」
「秘密」
そのあとは贋作を渡したことも忘れてまた一週間くらい絵を描いていた。絵で食べていけるほど世渡りはうまくないので、当然きちんと働きながらだ。同じ大学を出た鳶澤さんは絵を売って生計を立てているらしいけど、残念ながら私にそんな才能はない。私にとって絵を描くというのはもはや日課なので、別に一週間絵を描いていたからといってそれが何か特別なことというわけではないんだけど、それでも結構描いたと思う。ちょっとやる気をだした原因はわからないことにしておいた。そして、今日も筆休めに模倣する。
私が模倣をはじめたのは高校生のころ。伸び悩んだ私は解決策を探るために一流の芸術家たちの絵を真似るつもりで狂ったように書き続けていた。絵描きとして大学に合格できるくらいにはなってもその日課は変わらず、毎日毎日……いやペースでいったら一年に何枚ってレベルだけど、粗悪な模倣品を工場のおばちゃんのごとく量産しまくっているうちに、模倣するのは私の休息になっていた。オリジナルの作品とはまた違う考え方をしているととても落ち着くことに気づいてしまって、私はもう普通の絵は描けないかも、とさえ思う。オリジナルの絵のほうではまったく腕は認められなかったが、模倣の腕はどんどん上達していった……と思う。
私の模倣品と借用してきた絵画がすり替わってしまって大騒ぎになったこともあったっけか。 そして、私の模倣品を見た後に私の絵を見た人はみな失望を瞳に宿すんだ。まるで、自慢の宝石が模倣宝石だと気づいた小金持ちみたいに。あの目は何度向けられても馴れることはない。本当に、心の底から嫌な感じがする。ふざけんな、死ね! って言ってやりたかった。ふざけんな、死ね! この【自主規制】!! おっと。
模倣するのは楽しいけど、でも同時につらい。
あー、だめだめ。せっかく模倣品を描いて楽しんでるのに、そんなこと考えたくはない。もっと楽しいことを考えよう。
模倣品のいいところは、芸術作品を手の届くところにおけることと、自分で描いたからか愛着が湧いてくるところだ。少し失敗して、本物よりも不自然なところでも、だんだんと愛嬌があるように見えてくる。失敗をなくすのも醍醐味だし、最近はよく探さないとそういうところを見つけるのは難しくなってきたけれど、それでも自分で描いた模倣品は魅力的。かわいい。手のかかるインコみたい。
「チーズ買ってきた……ん? 今度は何?」
「レンブラント」
「ふーん」
筆を走らせる。チーズをかじる。物思いにふける。
贅沢な休日。こんな日がずっと続けばいいのに。私は、芸術家のくせにあんまり情熱的じゃない。彼と付き合い始めたのだって、むこうから告白された……って、これ彼氏自慢するクソ女みたいで嫌だな。やめよう。
情熱ときたら短絡的に恋愛と結びつけるのって、芸術家としてどうなんですか?
あー、でもだめ。どんどん記憶が蘇ってくる。
まだ大学生だったころ、私は彼といつものように遊んでいて。その帰り道、電車がくるぎりぎりに、彼に告白されて、断る理由も思いつかなかったから付き合い始めただけだった。私も彼のことは嫌いではなかったし。
だから付き合っているカップルがするようなことは全然していない自覚はあるんだけど、彼は特に不満もないようで、こっちが心配になるくらい。
芸術だってそう。というか、私はむしろほかの芸術家さんたちがどうしてあそこまで情熱的なのかがわからないのだけど。
よし、満足。もう彼の話はおしまい。
芸術なんて言われるけど、それは神がかったヒラメキとか、だれにも思いつかないアイデアよりも、日々の研鑽に支えられてるもので。そんな長続きしない情熱なんかで描けるわけがないと思う。
……そういう話をしたら、彼には
「それで食っていけた人たちはその情熱が長続きしたんだと思うよ」
と言われた。なんだそれ、反則か、と思わないこともないけれど、だからといって私にできることが変わるわけでもないので、今日も私は絵を描く。模倣する。まねて、まねて、まねる。漫画とかで、主人公の偽物がだいたい報われないのっておかしいと思う。
……主人公っていうと男っぽいイメージあるよな。なんでさ。ずるい。
話を戻そう。不思議なもので、今日はあんまり調子が良くないかもなぁ~と思っている日でも書き始めてしまえば体はきちんと反応してくれて、それなりのものを出力してくれたりする。そういうのを肌で感じると、おお、意外とやれるのだな私、って思うよね。
戻したけど話、終わりました!
「今日はもう出かけないの?」
「出かけないよ。もう……えーっと、夜の八時だし」
「そう」
私たちの会話は短い。付き合い始めて驚いたことはいくつかあるけれど、いちばん驚いたのはこれ。私に告白した時の挙動不審なお前はどこへいったんだ、ってくらいドライだ。私はやけに距離を詰めてくるより俄然いいのだけど、お前はそれでいいのか。
さすがに告白を受けたんだから彼女としての務めは果たす……とちょっとビビりながら覚悟してはいるんだけど、ねー。
「なに考えてるの?」
「いや……絵のこと」
「そんなことないでしょ、絵のこと考えてるときはそんな悩んだりしないもの」
「え……そう?」
そういうものかな? 考えるより描くことのほうが得意なのは否定しないけど。
「そうだよ。で、何を?」
ち、勘のいい奴……。
「あんまり構えずに聞けよ?」
「うん」
「彼女なんだし彼氏としてやりたいことがあるなら答える覚悟はあるけど、って考えてた」
「…………? …………………ふっ、はは」
「なにわろてんねん」
ぶっとばすぞてめぇ。あ、ぶっとばすぞてめぇの関西弁バージョンがよくわからなかったので関西弁に統一はできませんでした。ごめんなさい。
それはそれとして、彼女のアレというかソレというか、結構大事なことだと思うのだけど。世の男女は愛を主に求めて付き合うのでは?
「それはそっくりそのまま返すよ」
「は?」
「だから、彼氏なんだし彼女としてやりたいことがあるなら答える覚悟はあるけど?」
「あ、そう」
……どういうことだ?
彼氏のことがますますわからなくなったけど、でもちょっとだけ安心した。
自分でもよくわからないけど、まぁ今からキスされることはなさそうで。だって私はもうちょっと絵を描いていたかったから。
誕生日が来た。
今は彼を待ちながら公園のベンチに座ってぼけーっとしながらセブンのカフェオレを飲んでいるけど、さすがに私も誕生日っていうのはカップル的には一大イベントなのだということくらいはわかっている。
「待った?」
「待った……あ、嘘。待ってない」
「いや、取り繕わなくていいから……」
「そう」
「そう。今日はちょっとついてきてほしいところがあるんだけど、いいかな?」
そういって連れていかれたのは、病院だった。
さすがに私も、え、デートでそのチョイスってなにかおかしくない?って思った。
病院といっても、あの田舎の土地を贅沢に使ってででーんと突っ立っているタイプの総合病院ではなくて、独立した開業医が開いている個人経営のクリニックだ。
小さいころ私もよくお世話になっていた覚えがある。
受付の女の人は見覚えがなかったけれど、その奥にちらちらと見え隠れするお医者さんは私が何度もお世話になった人。名前は確か……おにかたさん。名前に反して優しい女医さん。
彼は受付に話に行ってしまったので、待合室でぼけーっとしていると、大きな額縁に飾られた絵が目に入る。
小さい頃はぜんぜん気にしなかったから気づかなかったけど、こんなのあったんだ。
今を時めく画家の絵だ。私も練習でおなじもの書いたことがあったな。さすがに本物ではないだろうけど、すごく本物に似ている。
一緒に共同の待合室にいる男の子はそんなものに目をくれず、紙パックの自販機を物珍しそうに眺めている。
彼は受付がすむと、その子にジュースを買ってあげてから私のところに戻ってきた。
「風邪……なわけないよね?」
「もちろん」
彼の手にはいちごオレが握られていた。子供か。
「あの子コーヒーミルクだったよ。大人だなぁ。僕いちごミルクなのに」
「そうね、こうやってもったいぶるのも十分に子供っぽいと思うけど」
「あはは、ごめんごめん、でも、ほら、気づかない?」
「?」
彼がにこりと笑って私に耳打ちをする。
「あれ、きみの絵だよ」
「は?」
「ほら、きみからもらったでしょ、一枚だけ」
そういえばあげた気がする。なんかもう覚えてないけど。そういえばあの絵だったっけ……?
もう一度待合室に飾られた絵を見上げる。
新進気鋭の画家、天神九郎(注 ペンネーム。ずいぶん時代錯誤な名前だ……え、そんなことない?)による花の絵のひとつ、『夜露の櫻』
植物や自然を好んで描く彼の手による絵の中でも、櫻を扱っているということで一般的にも知名度の高い作品だ。
あー、そういえば描いた……ような……。
「……いやぁ、油絵ってひとつ完成させるのにかなり時間を使うのによく忘れられるなぁ、感心するよ」
………。
何も言い返せなかった。というか、忘れてたなんて言ってないんだけど、私が忘れたと思ってるなお前。
あと、時間は意外と人それぞれだぞ。
それはともかく。
そんなに表情に出てたの……うそ……。
「練習のときのことなんていちいち覚えてない」
「あはは、そっか……で、どう? ここに自分が書いた絵が飾られてるのを見て」
少し及び腰になりながら彼はそう聞いてきた。
あのね……ビビるんだったら最初からやらなければいいのに。
こういうときは、私より背が高いのに、自分より強い生き物とばったり出会ってしまった小動物みたいだ。
「どうもこうもない。私があなたに自由に使っていいって言ったんだから、別に」
「---ほんと?」
「ほんと。気にしすぎ」
「やったっ! ーーーおっと、静かにしなきゃ」
「はしゃぎすぎ」
「ごめんごめん。でもさ、やっぱいい腕してるよ」
「--っ」
絵の才能。小さいころから私について回った言葉。
まだ小学生だったころの私が卒業文集に書いた言葉は、今になってもはっきりと思い出せる。
『世界を、私の絵でいっぱいにしたいです』
残念でもないけど、私にあったのは人の絵をまねる才能だけ。
皆から貼られた才能という名のメッキが剥がれ落ちるのに、それからそう時間はかからなかった。
私はもう諦めたのに、そんなこと言われても、困るの。
せっかく掘って埋めて隠したのに、また掘り起こすの?
掘り起こしたところで、すぐに飽きていなくなってしまうのに。
「はいこれ」
彼が何かを私に渡す。封筒に入ったそれはあまりにも軽いけれど、私にはすごく重く思えて。
もうまともに彼の顔も見れない。
「なに、これ……」
「お金。この絵のやり取りで動いたね」
「………」
「……ちょっと場所変えようか」
いつもの屈託のない笑みを浮かべて、彼はそう言った。
そして、私は彼の家へ連れていかれた。
「そういえば、こっちに招待するのははじめてだっけ」
「そうね、はじめて来る……かな」
こっち……って、家二つあるの? え、嘘、何してるか聞いたことなかったけど、もしかしてこいつ結構すげー奴なのでは? いや、やべー奴?
キャスターつきの椅子の背もたれに反対向きに寄りかかって彼はしゃべる。
「僕の仕事、聞かないでいてくれたこと、実は結構感謝してるんだ」
なんだそのはじまりは。不穏すぎるぞ。
「僕がやってるのは、ありていに言えば泥棒」
「……犯罪者?」
「うん、犯罪者」
「帰る」
「いや、ちょっと待って待って……」
「むぅ、わかった」
あまりにも毒気なく答えるのな、お前……。
つられてこちらまで毒気を抜かれてしまった。私の恋人が泥棒だった件、とかで本出して大儲けできないかな。
「といっても、美術品専門の、ね」
芸術家志望の彼女に実はぼく美術品専門の泥棒なんです、ってカミングアウトする人間はたぶん世界中を探してもめったにいないと思う。そんなんで大丈夫か? いつか捕まらない? と思ってたら、
大丈夫? 話ついてこれてる? って視線で聞かれたので、まぁついていけてる、と返す。
理解はできているけど感情が追い付いていないだけ。
「このうちは保存室として使ってるんだ」
美術品はけっこう繊細だ。少し湿度が変わるだけで、以外な影響が出たりする。特に、日本は他国と比べて気候の違いも多いから、保存には気を使わなければならない。
ぱぱっと見える範囲では、そういう場所と言われても無理はなさそうだ。
「へぇ……それで、わざわざ連れてきて何の用?」
「わかる?」
「いや、わかるわけないでしょ……」
そんな少年みたいな目できくな。
「僕はきみに惚れちゃったんだ」
え、なにいきなり。きみそういうとこあるよね。
「知ってる」
「そうだね。僕はきみのことが好きだから、きみの才能も好きなんだ」
才能。嫌いな言葉。よくない思い出を刺激される。
人のまねばかり上手くなって、人のまねばかり楽しくて。
でもその才能は、みんなの言う才能じゃない。
「きみが嫌いなきみの才能も、好き」
なんのことを言っているのか、一瞬で理解した。模倣が得意な、才能。模倣を好む、私の資質。偽物。
「………」
「本物に限りなく似た絵を描けるっていうのはすごいことだ。なぜか、君の周りではそれは悪いことだと思われていたみたいだけど」
「贋作なんか書けてもしょうがないの」
贋作。いつもは模倣だと言っているけれど。結局は、それなのだ。
人のまねをすることに、価値がある? あるわけがない。芸術作品ならなおさら。
「そんなことない。もしきみが……いや、きみにそう教えたやつがそういうなら、僕がそんなことないっていうのを証明してみせる」
彼は椅子に座ったまま、柔和な笑顔をつくる。
「僕には夢ができちゃったんだ。今までは、死蔵されていたり、富豪の所有だったり、そんな絵をなるべくたくさんの人の目に触れるように泥棒してきた」
「もちろん、そんな義賊みたいな真似をしたかったしいくつかしたってだけで、もっといろいろやったけどね」
「僕は、きみの絵で世界を満たしたい」
記憶と重なる言葉。
………………なに、それ………あんたも私と同じことを言うの?
意味合いは違う。考えていることも違う。
でもそれは、同じ言葉だった。
才能、資質。ずっと、私の中で渦巻いていた言葉がぐるぐるする。
さっきまでミキサーにかけられたみたいにぐちゃぐちゃだった私の中は、その一言できれいにまとまってしまって。
こいつは泥棒で、私がうなずいてしまったら共犯者で、きっとまともな生活はできなくて、でもそんな言い訳たちがいかに無力かは自分自身がいちばんよくわかっていた。
贋作、人のまねなんて、ダメだと思っていたのに。
そんなふうに許されたら、私はーー。
すっと、雪が解けるように。悔しい。
「僕は泥棒で、君は最高に才能のある贋作者だ。できないことなんてない」
「今回のは、きみの才能が価値あるって証明の第一歩。 どうかな? 一緒に、やってくれない……かな?」
「……あのころの私と、おなじこと言うのね」
せめてもの反抗。ちょっと待って。
「犯罪に引き込もうとしてるっていうの、わかってる? 普通の人間ならまずやらない」
「……でも、私は芸術家だから、そういう押しには、弱いのよねー」
自分の顔がくちゃくちゃに笑っているのがわかる。
私、こんな顔もできたんだっけ? 覚えてないけどーー。
「連れてってくれる? 私の才能を、発揮できる場所まで。私が、まっすぐ立てる場所まで」
「もちろん」
私が伸ばした手。彼が伸ばした手を取って。
すっかり、私の心の中に入られてしまった。
今までは、だれにもそんなことさせなかったのに。
きっと裏切られたら私は死んでしまう。裏切っても、同じく。
上手くいかなくても、同上。
リスクばかりのひどい人生になるのが見え見えで。
それでも。
私は。
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