Shakin' The Tree
石燈 梓
第1話 南海の女王 (インドネシア・ジャワ島)
1.
『どうして、こんなことに』
少年は、きり立った崖にしがみついて次の手がかりを探しながら、歯をくいしばった。乾いた唇を舐めれば、塩の味がする。同時に、苦い想いが喉元にこみあげた。
わかっている。自分のせいだ。よりによって口入れの日(猟を開始する日)に、言い伝えを守らなかったから、女神さまは父を人質にとったのだ。
カンジェン・ラトゥ・キドゥル、南の海の女王。全ての生き物を支配する、美しき女神――
「あっ!」
指先がすべり、がくんとずり下がった少年は、慌ててもう一方の腕に力をこめた。ふるえだしそうな両足で岩を踏みしめ、体勢をたてなおす。
気をつけろよ、と叫ぶ仲間の声が聞こえる。風が啼き、足下では、岸壁にうちよせる波がひときわ派手に飛沫をちらした。
腰に命綱を巻いているが、この高さから岩場に叩きつけられたら、生命はない。まして自分は、緑の手ぬぐいを懐に入れている。
少年は、崖によりかかって呼吸をととのえ、気持ちを落ち着けると、再び腕を伸ばし、手が掛けられそうな場所を探した。
ひびわれた唇を噛み、口の中で祈りを唱える。
カンジェン・ラトゥ・キドゥル。おゆるし下さい。
僕のお父さんを、返して下さい。
悪いのは、僕です。いいつけを守らなかったのは、僕なんです。
ですから、どうか。お父さんを、返して下さい……。
視界の隅を、小さな黒い影がよぎった。一羽、二羽。この崖の上に巣を作っているアナツバメだ。
少年は、ごくりと唾を飲むと、這うように崖を登って行った。
2.
古代パジャジャラン王国に、ムンディン・ワンギという名の王がいた。王はみめうるわしく賢明であったため、国民から慕われていた。
ムンディン・ワンギ王は、家来をひきつれて森へ狩りに行くのが、たいそう好きだった。
ある日、狩りに出かけた王は、一頭の美しい女鹿をみつけた。四肢はほそくしなやかで、栗色の毛皮はびろうどの如く輝いていた。夢中になって追いかけているうちに、王は、家来たちとはぐれてしまった。女鹿を見失った王は、独りきりになったことに戸惑い、家来たちを探したが、足跡ひとつ見つけ出せなかった。半日以上、森のなかを探し回った王は、すっかり道に迷ってしまった。
日が暮れ、疲れた王は、森の木の根元に腰を下ろすと、つい眠り込んでしまった。
深夜、金色の月の光に照らされて目覚めた王は、傍らに知らない人がいることに気づき、びっくりして跳ね起きた。彼の前には、一人の若いむすめが立っていた。たいそう美しく、こんな森の奥には似つかわしくない気品を備えたむすめだった。
王は、不思議に思って訊ねた。
「おお……。そなたは誰かな?」
むすめは、微笑んで答えた。
「わたくしは、この森の王の孫でございます。貴方さまは、パジャジャランからいらっしゃった、ムンディン・ワンギ王ではありませんか?」
微笑んだむすめの顔は、満月さながら輝いて見え、王はうっとりした。
「いかにも、余はムンディン・ワンギである」
「貴方さまは道に迷い、ご家来の方たちと離れ離れになっておられるのですね。どうぞ、わたくしの祖父の館にお立ち寄り下さい。そこでご休憩なさりながら、ご家来の方たちをお待ちになられてはどうでしょう?」
「おお、それは助かる」
上品に慎みぶかく招待されたムンディン・ワンギ王は、断るなど思いもよらず、喜んでむすめについて行った。月明かりに照らされた小道を、むすめは迷うことなく、森の奥へと王を案内した。
やがて、二人は〈森の王〉の館にたどり着いた。むすめは、すぐに王を館のなかへと案内した。宝石や金で飾ったきらびやかな衣装をまとった〈森の王〉は、一見おそろしげな顔立ちをしていたが、豪快に笑ってこう言った。
「ムンディン・ワンギ王よ。むさくるしい館にもかかわらず、よくおいで下さった。ゆるりと寛がれよ。我が孫が、貴方を歓待するであろう。孫は、以前より貴方の姿を夢でみて、恋いこがれておったのです。貴方がご家来衆とはぐれてしまったのは、問題だが――」
ムンディン・ワンギ王は、この言葉を奇妙に思い、むすめを振り向いた。彼女は、恥じらうように頬を染めてうつむき、何も言わなかった。
ムンディン・ワンギ王と〈森の王〉の孫娘は恋に落ち、夫婦となって館で暮らした。王女は優しく、〈森の王〉は親切で、しばらくの間、ムンディン・ワンギ王は幸福だった。だが、やがて自分の国のことが気になってきた。
「我が妻よ。余がパジャジャランの宮殿を出てから、どのくらい経つ? 一度帰り、家来たちや民がどうしているか、観てきたいのだが」
と、王は言った。
森の王女は、悲しげに応えた。
「わかりました、陛下。ご心配は、もっともです。でも、すぐにわたくしのところへ、帰って来て下さいませね……」
かくして、ムンディン・ワンギ王はパジャジャランの宮殿を目指したが、今度は森のなかで一切迷うことはなく、すぐに帰りついた。
王が宮殿に到着すると、王妃は喜びのあまり泣きだし、家来たちは大騒ぎをして迎えた。狩りに出掛けた王が数か月経っても見つからないので、彼らは、てっきり王が死んでしまったと思っていたのだ。
数日留守にしていたつもりだったのに、そんなに時間が経っていたと聞かされ、ムンディン・ワンギ王は、かんばせを曇らせた。
「そうか、それは済まなかった……。余は、いっそう政務に励むこととしよう」
こうしてムンディン・ワンギ王は玉座に復帰し、人々は安堵した。
また数か月が過ぎた。ある夜、ムンディン・ワンギ王は、赤ん坊の泣き声で目を覚ました。
王はとび起き、夜の庭へ出て行った。椰子の木の下にゆりかごが置かれ、中で赤ん坊が泣いていた。王がその赤ん坊を抱き上げると、月光の中に、〈森の王女〉の姿が浮かびあがった。
王女は、とても哀しげに告げた。
「陛下。その子は、陛下とわたくしの娘です。人間の世界で育てるため、陛下にお渡しします」
「人間の世界だと? そなたは、いったい何者なのだ?」
ムンディン・ワンギ王は、理解できずに問いかけた。
「わたくしは、精霊の世界にすまう者なのです……」
王女は囁き、ひとすじの煌めく涙とともに消えて行った。王は、赤ん坊を抱いたまま、茫然とその場に佇んでいた。
*
赤ん坊は、ラトゥナ・デウィ・スウィド(美しい女神スウィド)と名付けられ、宮殿で暮らすことになった。しかし、ムンディン・ワンギ王の人間の王妃デウィ・ムティアラは、夫と精霊の王女の間に生まれたこの娘を好まず、厳しく扱っていた。
十八歳になったスウィドは、たいそう美しい王女となり、その美しさは周辺の国々まで知られるようになった。ムティアラ妃は、自分の娘をさしおいて、他国の王子たちから求婚の申し込みがスウィドに来ることを妬み、年老いた邪悪なドゥクン(祈祷師)を呼び寄せた。
ドゥクン(祈祷師)は、にたりと嗤ってこう言った。
「ご心配めされるな、王妃さま。儂が王女をこの宮殿から追い出してみせましょう」
「頼んだよ、お前。あの娘の顔を、ふためと見られないようにしてやっておくれ!」
その夜、ドゥクンは、王妃の命令を実行に移した。夜霧の中に、忌まわしい呪いの悪魔をまき散らしたのだ……。
翌朝、目覚めたスウィドは、からだに異変を感じた。頭が重く、顔が腫れたように感じる。鏡をみた彼女は、己の
「どうして、こんなことに? とても人に会うことは出来ないわ……」
スウィドは嘆き、自分の部屋に引きこもって泣いて過ごすようになった。
王女は、何日も部屋にこもり、人と会おうとはしなかった。けれども、ムティアラ妃が、ついに彼女の病気のことを父王に告げ口してしまった。
愛娘の変わり果てた姿を見たムンディン・ワンギ王は、深い溜息をついて言った。
「我が娘よ。お前は、危険な病気か、悪魔に憑りつかれてしまったのだ。可哀想だが、宮殿に住まわせておくことは出来ない」
父王にこう告げられたスウィドは、心がこなごなに砕ける気持ちがした。
ムンディン・ワンギ王は、数人の兵士たちに、スウィドを森へ連れて行くよう命じた。スウィドは諦め、みにくく崩れた顔を布で覆うと、兵士たちに連れられて宮殿を後にした。父王たちは、見送りさえしなかった。
森の端へたどり着いた兵士たちは、それ以上、スウィドを連れて行くことを嫌がった。それで、スウィドは仕方なく、独りで森のなかへと入っていった。下草を踏み分け、道のない森の奥へと、悲しみを抱いた娘は、とぼとぼ歩いて行った。
やがて、聖なるコンバン山へたどり着いたスウィドは、神々に祈り、もとの姿に戻してもらえるよう苦行を行った。
数年が過ぎたある日、スウィドは、どこからか彼女に呼びかける声を聞いた。
「デウィ・スウィドよ、我が曽孫よ! もし汝が、元の身体に戻りたいと望むなら、森を出て南へ向かえ。南海に入り、一体となるのだ。もはや、人間の世界に戻る必要はない!」
これを聞いたスウィドは、迷わず立ち上がると、南へ向けて出発した。数日間、密林のなかを歩き続け、ジャワ島の南岸に到着した。
海岸は高い絶壁になっていて、スウィドはひるんだ。しかし、神々の啓示のごときあの
海に入ると、デウィ・スウィドの身体に貼りついていた忌まわしき病は、全て綺麗に洗い流された。それどころか、彼女は以前にも増して光かがやく女神となっていた。彼女は、南の海にくらす全ての生き物と怪物たちを支配する、カンジェン・ラトゥ・キドゥル(南海の女王)となったのだ。
3.
ジャワ島に住む者なら、誰でも知っている物語だ。海で猟をする者や、アナツバメの巣を採る一族は、デウィ・スウィドは今でも生きていると信じている。
口入れの日には、一族の者みんなで、カンジェン・ラトゥ・キドゥルに祈りを捧げる。彼女の先に食事を摂ってはならず、お告げを受けてから猟を開始するならわしだ。
それなのに――
少年は、禁を犯してしまった。空腹に耐えかねて、女神への祈祷の前に、こっそり食べてしまったのだ。
最初の猟の日に、少年の父は海に呑まれ、帰ってこなかった。
われた爪を岩にひっかけ、少しずつ、少年は崖を登った。強い風が、また波の飛沫をたたきつけてくる。潮水に濡れた身体は、急速に体温をうばわれ、奥歯が鳴りはじめた。
少年は、歯をくいしばった。
まだ幼いかれの力では、父ほど沢山のツバメの巣を採ることは難しい。だが、母と幼い弟妹たちを養うため、働かなくてはならない。
一族の大人たちは、少年を憐み、よい場所を与えてくれた。父に代わり、崖の登り方も教えてくれた。それでも、祈らずにはいられない。
カンジェン・ラトゥ・キドゥル。お願いです。
僕のお父さんを、返して下さい――
ごうっと海が鳴り、男たちは警戒して叫んた。飛沫が眼に入り、少年はかたく瞼を閉じた。指先に力をこめる。風にあおられて腰布がめくれ、命綱がぐんと引っ張られるのを感じた。
サイクロンに飛ばされる木の葉のごとく、岩壁から剥がされた少年の身体は、一瞬、宙に浮いた。
口々に叫ぶ仲間の顔、嘲るように飛び去るツバメの影、空の蒼と海の藍……が、視界いっぱいにひろがり、少年は、意識をうしなった。
4.
次にかれが目覚めたのは、海底の宮殿だった。真珠やサンゴで飾られた部屋のなかには、黄金の肌をもつ女神が座していた。
少年は驚き、いそいで跪いた。
ウミガメや色鮮やかな小魚の群れをはべらせたカンジェン・ラトゥ・キドゥルは、満足げに微笑んで言った。
「お前が生命を賭けてわたしを呼ぶので、迎えに来てやったぞ」
「女神さま」
少年は、胸の前で両手を組み、顔をあげた。一匹のサメが、ゆうらり頭上を泳ぎ去っていく。
「南海の女王さま。父の行方をご存知でしょう。僕のお父さんを、地上へかえして欲しいのです」
女神は、優美な眉をひそめて言った。
「お前の父は、既に死んでしまっている。地上へ還ることは出来ない」
「僕が、身代わりになります」
少年は、懐から緑色の手ぬぐいを出した。
「掟をやぶったのは僕です。だから、僕は貴女のしもべになります。どうか、父をかえして下さい。母と弟たちには、父が必要なんです」
「…………」
女神は、懸命にうったえる少年を、難しい顔でじっと見つめた。痩せた身体に、みずぼらしい衣。擦り傷だらけの手足と、黒くかがやく瞳をながめ、やがて、ゆっくり微笑んだ。
「お前の魂はうつくしいね。正直で、優しい少年よ。自分より、父の命を優先させるとは……。よろしい、こちらへおいで。願いを聞き入れよう」
女神は立ち上がり、かれに片手をさしのべた。少年は、もう一度ふかく頭を下げると、彼女について行った。
**
カンジェン・ラトゥ・キドゥルは、少年の生命をとって父親に与え、父の方を地上へ戻した。事情の分からない家族と仲間たちは、父親の生還をよろこんだが、少年が戻ってこないことを嘆き悲しんだという。
今も、少年は南海の女王とともに暮らしながら、海の人々の身の安全を守っているという。
~『Shakin' The Tree』第一話・了~
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『Shakin' The Tree』第一話、解説
《インドネシア共和国、ジャワ島》
首都はジャカルタ(ジャワ島)。熱帯地方に位置し、東西5000km以上の範囲に存在する大小13,000以上の島々からなる共和制国家。ASEANの盟主です。人口は2億5546万人(2015年統計)。
約300の多民族から構成されており、紀元前1500年頃渡来した原マレー人の子孫であるダヤク人、トラジャ人、バタック人。紀元前500年頃に渡来した新マレー人であるマレー人、ブギス人、ミナンカバウ人。他にジャワ人、スンダ人、マドゥラ人、中国系、日本系の住人などがいます。公用語はインドネシア語。ジャワ語、バリ語(オーストロネシア語族)、パプア諸語も使われています。
紀元前1世紀頃からインド文化の影響を受けてヒンドゥー教が栄えました。5世紀頃からシュリーヴィジャヤ王国、クディリ王国などの王国が興亡しました。12世紀以降、ムスリム商人がイスラム教を伝え、文化のイスラム化が進みました。現在は、世界最大のイスラム国家(人口の88%)ですが、プロテスタント(6%)、カトリック(3%)、ヒンドゥー(1.8%)、仏教徒(0.8%)も居住しています。
16世紀にポルトガル、イギリス、オランダの商船が相次いで来航し、18世紀からオランダ人による植民地支配が始まりました。1800年に東ティモールを除くすべての東インド諸島がオランダ領となり、現在のインドネシアは、ほぼ全ての領域がオランダ領となってしまいました。
オランダによる過酷な植民地支配を受け、1910年頃から民族主義運動が盛んになりました。
1941年12月、日本軍がマレー島に上陸し、太平洋戦争が始まりました。翌1942年1月から、日本軍はタカラン島、スマトラ島、ジャワ島に相次いで上陸し、オランダ植民地政府を制圧、軍政を敷きました。
1945年8月15日、日本が連合軍に敗北し、インドネシアは独立を宣言しました。しかし、それを認めないオランダとの間で、独立戦争が始まりました。武力闘争と外交交渉の結果、1949年12月「オランダ―インドネシア円卓会議(ハーグ会議)」が行われ、国際法的に独立が認められました。
《カンジェン・ラトゥ・キドゥルの神話》
別名ニャイ・ロロ・キドゥル、ラトゥ・ロロ・キドゥル、ラトゥ・ラウット・スラタン、などと呼ばれます。
ジャワ島全域に分布している神話、民話の女神です。14~17世紀に西ジャワに存在したパジャジャラン王国と、それを滅ぼした中央ジャワのマタラム王国の建国神話に関係している場合があり、「羽衣伝説」などとも混同されて語られています。
カンジェン・ラトゥ・キドゥル(kanjeng Ratu Kidul)は、kanjeng=偉人の尊称、Ratu=女王、kidul=南(ジャワ語)という尊称。ラトゥ・ラウット・スルタン(RatuLaut Seletan)は、Laut=海、Seletan=南であり、いずれもジャワ南の海の女王、という意味です。ニャイ・ロロ・キドゥルは、女神自身ともその家来ともいわれています。
女神は緑色がお好きで、「緑色のものを身に着けていると(特に水着)、召使と間違われて女神にさらわれる」、また男性に裏切られたために男性全般を憎んでいる、などと言われます。ジャワ島南部の海と水妖、生物すべてを支配しています。
本作品は、女神の登場する別の民話(アナツバメの巣を採る少年の話)を、題材にしています。
《オオアナツバメ Aerodramus maximus、ジャワアナツバメ Aerodramus fuciphagus》
アマツバメ科、体長10~15cmの小鳥です。南・東南アジア・オーストラリア北部の海岸や洞窟に集団で営巣します。食虫性で、日中に飛びながら羽虫などを捕らえて食べますが、真っ暗な洞窟内でエコーロケーションをすることも出来ます。オオアナツバメとジャワアナツバメの二種は、海藻と分泌液によって巣をつくり、この巣は中華料理の高級食材として珍重されます。かつては、人が危険をおかして断崖絶壁を登り、巣を採取していましたが、現在では専用の養殖施設があり、建物の中で営巣させています。
日本に渡来するツバメはスズメ科であり、同じ「ツバメ」という呼称であっても種が違いますので、ご注意下さい。
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