ドット・イズ・デッド

早見一也

第1話:あなたの名前は?

 人生、危機的状況というものはいきなり発生する。

 そういう心づもりもしないまま大ピンチになってしまうと、人は慌ててしまうものだ。




「あなたの名前は?」


 目の前が暗闇に覆われている。

 そして、どこからか聞こえる謎の声。男性なのか女性なのか分からない、不思議な声。


 自分の手足すら分からない程の暗黒の中、周りを見渡そうとしたが、首が動かない。

 そこではじめて気づく。動かすべき身体が無い事に。

 そこでどうしたか?慌てたね。そりゃあもう、慌てた。何が何だか分からないから、人生で初めて狂乱して大騒ぎしようとした。

 が、声も出なければ口も動かない。騒ぐための口も無いという事に気付いた。

 では自分は何なのだろうか?五体も無く顔も無いという事は、脳と眼球だけで暗闇に浮かんでいる存在なのだろうか?

 マッドサイエンティストによってホルマリン漬けにされた標本のような姿を思い浮かべたが、あまりの現実感の無さに笑えてくる。綻ぶ頬も無いのは残念だった。


「あなたの名前は?」


 声がもう一度響いてきた。前方から聞こえるような気がするが、後ろでもあるような、真横からでもあるような気もする。薄気味悪い。そして、あまりにも現実感がない。


 現実感がない?

 ああ、分かった。これは夢だ。夢ならば、このような不可思議なる体験も頷ける。

 そして夢ならば、何もオロオロする事もあるまい。

 『私』は悠然と答えようとした。

 しかし、名前が思い出せない。

 自分の名前はなんだったか…確か、リ…で始まって4文字だったような…。

「リッシュ…?」

 うん…多分、そんな感じの名前だった気がする。

 でも、そうでもないような…どうだったかな…。


「リッシュ。

 ヴィランヒーローズの世界へようこそ!」


 またも声が響く。ほんの少し大きな声だった。

 闇の向こうに、小さな光が見える。その光はどんどん大きくなっていき、やがて自分の周囲さえも照らし出していく。その光は、まるで自分の身体を吸い込んでいくような感覚がして…―――。





「起きな、リッシュ!もう朝だよ!」

 今までとは違う大声量に驚き、眼を見開く。

 眼前に飛び込んできた景色は…暗闇などではなかった。

 まず、天井。普通の、木で作られた天井だ。特別言う事は無い。

 次に日光。自分の右横には大きな明かり窓があり、そこから直射日光が照らされている。カーテンが開いているのは、恐らくたった今開けられたのだろう。暑い。

 窓の横にはぶつくさ言いながら部屋の汚さを罵っている中年女性。中肉中背。やや身長は低い。パーマが掛かっている黒い頭髪。

「出掛ける準備はしたの!?」

 中年女性がこちらへ怒鳴っている。顔は…なんとも言えない。別に美人ではないし、難癖をつける程の不細工でもない。よく言えば、肉付きはいいほうだ。

「まったく、さっさとスーツに着替えな!」

 中年女性は怒鳴りつけるように言ったあと、どかどかと部屋を出て行った。

 わけもわからないまま、嵐のように立ち去った女性の後ろ姿をぼんやり眺める。やがて、大きな音を立ててドアが閉じられ、部屋には俺一人となった。

 スーツ?何の話だ?

 ふと自分の恰好を見ると、ゆったりしたパジャマを着てベッドの中で上半身を起き上がらせていた。

 髪はボサボサで、まつげには目ヤニがついている。


 間違いない、俺はこのベッドで今まで寝てたんだ。

 しかし、そうなると…ここは俺の家なのか?そして、さっきのは俺の母親?

 が、この部屋にもさっきの女性にも見覚えが無い。

 ひとまず、ベッドから抜け出して部屋を歩き回ってみる。何か、自分の物を見つけられれば思い出せるはずだ。

 部屋の真ん中にあるテーブル、その上にある花瓶と青い花…知らない。

 壁際に置かれた大きなタンス、引き戸がそれぞれ色とりどりであり、中々オシャレだが…知らない。

 壁にかかる大きな時計…大きすぎて怖いほどだ。全長1メートルはあるんじゃないだろうか。知らない。

 棚にある青い大きな封筒…知らない。


 …よっぽど俺が物忘れをしていない限り、ここは俺の家じゃない。何一つ分からないぞ。

 ぼんやりしすぎたらしい。封筒を手に取る為に歩を進めた時、足に何かが当たり、ガツンと大きな音を立てて床に転がった。

 それは、大きなスーツケースだった。

 スーツケースって言えば、さっきスーツに着替えろとか言ってたな。

 …なにが入っているんだろう?スーツケースって言えば、旅の一式が入っているのが一般的だが…まさか、どっかに行こうとしてたのだろうか?

「俺の…物なのか?」

 好奇心が2割ぐらい、あとは全て不安が占めている心中で、スーツケースを開けた。幸い鍵は掛かっていないようで、留め具を外すとケースはパックリと開いた。

 中に入っているのは、奇怪なヘルメットらしきものと珍妙なピッチリスーツだった。

 全体的に奇抜な―――金を基調として、緑で縁取りがされている―――色合いと、ヘルメットの凹凸具合といったらもう、その辺のヒーローショーで主役の被るようなものに酷似している。

 まさか…スーツってこれじゃないだろうな?

「いやいや、まさか。というより、これは俺の物じゃないしな」

 そう、全く見覚えが無いのだ。俺の物であるはずがない。

 なんだかこのスーツを直視する事が辛くなってきた。理由は分からないが、ひとまず棚に歩いていき、当初の目的である青い封筒を手に取る。

 封筒に書いてある文言は…『Villain Hero's』。サイズも大きいが、厚みも中々ある。週刊誌ほどだろうか。

 中には一冊の冊子と、紙っぺらが数枚。

 冊子の表紙には、『Villain Hero's 会社規定』と書いてある。ぱらぱらめくると、そこには『ヴィランとの戦闘規定』だの、『ヒーローランク認定規定』だの、全く理解できない事が羅列してある。

 紙っぺらには…『辞令』と題されている堅苦しい書類と、『就業条件明示書』と題されている細かい字が並ぶ書類などなど…。

 なるほど、この部屋の持ち主はどうやら何がしかの会社勤めであるのだろう。恐らくはVillain Hero'sという恥ずかしい名前の、親に言い辛い類の会社に。

 ヒーローランクって…そういう風に役職を表しているのだろうか?粋だとも言えるが、冷静に考えると恥ずかしいような気がする。

 話を戻すが、あのスーツケースは…まあ、恐らくは仕事に使うのだろう。やはりヒーローショーにでも行くのだろうか?

 とはいっても…まあ俺には関係ないはずだし…とりあえず普通の服を探し、失敬するか。さすがにパジャマでは出歩けないし、服代くらいなら後で何とか弁償もきく。

 あの色とりどりオシャレタンスには、さぞオシャレな普段着があるに違いない。そう思ってタンスを開けたのだが、なんと中には何も入っていない。全て、空っぽだった。


 なんだ、このふざけた部屋は?

 花が飾ってあると思えば、テーブルの周囲には座椅子もクッションも何も無いくつろげないスペース。

 タンスがあるかと思えば、中には何も入ってない。

 生活感があるのは表面上だけだ。ここには誰かが住んでいたような形跡が見当たらない。

 まるで、今さっき準備したような…。

 だんだん腹が立ってきた。訳の分からん状況に放り出されて、一方的に怒鳴られたせいだろう。

 こうなれば、この家にある服を借りよう。この際、スカートでないのなら体形の違うオバサンの服でも構わん。


 しかし、扉が…開かない。

 鍵が掛かっているとかではない。ドアノブが凍り付いたかのように全く動かない。

 目眩がしてきた。一体、どうすればいいんだ…。


『スーツを着なければ…』


 その時、どこからか謎の声が響いた。男性なのか女性なのか分からない、不思議な声。

「誰だ!」

 先程の暗闇でも聞こえた声だったが、ようやく聞き返す事が出来た。

 周囲を見渡すが、部屋には誰も居ない。窓から外を見てみるが、やはり誰も居ない。




 これはどういう事だ?まだ夢なのか?

 体感で一時間ほどドアを開けようとしてはさっきの声を聴き、部屋のあちこちを探し回っては目新しい物は何もなく、全ては徒労に終わる。

『スーツを着なければ…』

 うんざりするほど聞いた声に、口をへの字に曲げてしまう。目は床を見つめている。肩も落ちているが、上げる気力も湧かない。

 これはあれか。

 着ろというのか、アレを。

 視線の先には、スーツケースに入っていた奇抜なるヒーロースーツがあった。

 絶対に嫌だ、が…まあ、家から出ない限り、人には見られないか…。


 で、どうやって着るんだろう。ファスナーも見当たらない。

 金ぴかのヒーロースーツを手に、茫然としていた。

 全く、本当に全く訳が分からん。何なんだ、この状況は?

 部屋に閉じ込められて、謎の声に従って、珍妙なピッチリスーツを着ようという状況になるものか、人生?

「くそ、どうしろってんだよ」

 あまりの怒りに声が出てしまい、もうヤケクソとばかりにスーツをわしづかみにした時。


 手からはスーツが消えていた。


「…え?」

 代わりに、肌に感じる感触が違う。今までのふわっとしたパジャマの感覚が無い。その代わり、全身に感じる繊維感。

 俺は、そのヒーロースーツを着ていた。

「な、なんで?え、おい」

 首回りにも違和感を感じる。触ってみると、硬い。その硬い感覚は首から頭にまで続いている。いや、正確に言えば頭の『周辺』だろう。手で顔を触れない。壁か何かが遮っているように。

「まさか!」

 駆けるように部屋に置いてある鏡台に向かい、自分の姿を確認した。

 鏡に映った自分は、全身を金ぴかヒーロースーツで、頭はゴツゴツヒーローヘルメットに包んでいた。


 パニックのさなか、どこかで冷静に考える。

 頭のどこかで着れないならいいや…と、逃げ道を探していた。

 それが、半ばとは言えヤケクソになって着ようとした瞬間にこれだった。

 着ようと思えば、ノータイムで着れるのか?そんなバカな。

「まるで、ゲームだぜ…」


 まるで、ゲーム…。

 そう言えば、様々な事が変だ。

 このまるっきり生活感の無い部屋といい、さっき散々に怒鳴りつけてきた女性もそうだ。俺が一時間部屋にこもっているというのに何も言ってこない。

 それこそまるでゲームだ。不要なものは省かれている、時間ではなくフラグ立てによって進んでいく。

 とどめに、謎の声。『スーツを着なければ…』というのは、システムメッセージのように思う。


『リッシュ。

 ヴィランヒーローズの世界へようこそ!』


 まざまざと暗闇の中で聞いた声を思い出す。あれは夢だったはずだ。そう記憶している。

 しかし、夢の事をこれほど実感をもって覚えているものだろうか…?

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