第4話 ヒマワリの花弁のような色

 捜査が始まれば一週間以上自宅に戻ることはできない。とはいっても一度家に帰ってのんびりと荷造りをしている時間はなく、出来る限りその準備は手早く済ませる必要がある。

 江と諫早は部屋の端にあるロッカーから何日か分の服を取り出し、スーツケースに詰めていく。緊急事態に備え、荷物はすぐ持ち出せるようにしておくのが警察官の常である。

「下着が足りなくなったら現地で適当に買いましょう。いらなくなったら捨てればいいですし。私は最大で一か月、泊まり込む覚悟がありますよ。」

荷物を詰め終えた諫早が立ち上がりながら言う。

「諫早は仕事熱心だな。私が一か月も泊まり込みなんてしたらストレスで胃に穴が開いてしまう…。」

天井を見上げて江がそうつぶやく。江はしきりに握っている車のキーを撫でさすっている。

「江さんの車に寝泊まりするのなら、私は二カ月いけますよ。江さんの車は可愛らしくて快適ですし。」

「シャワーも浴びずに私の車を根城にするのはやめろ。」

ある捜査で一週間シャワーを浴びることが出来なかった時を思い出したのか、江が顔をしかめた。諫早はその表情を見て、朝からなんだかんだと江に振り回されて感じていた鬱憤を晴らすことが出来た。




 二十三区を抜けると、視界に緑が増えてきた。車の中に入るとあまり感じないが、江の車ははっきりとしたイエローの車体なので、おそらく森に入っても目立つに違いない。こんなに目立つ車で問題ないのかニーベン係長に聞いたことがあったのだが、「潜入捜査をするときは別の車を同僚から借りれば大丈夫ですよ。」と笑顔で言っていた。

 江はカーペンターズの曲を流しながら運転を続けている。一般的には後輩の諫早の方が運転すべきなのだろうが、江は「自分が運転する」と言ってきかなかったので江が運転をするのが二人の間の慣例となっている。

 この車は江が母から譲り受けたものらしく、確かに古い感じはするがよく手入れがされていて、実家の車のような安心感がある。といっても、諫早の両親はすでにこの世にいないのだが。

「今半分くらいか…。東京は広いな。」

高い建物が少なくなり、一軒家が増えてきた。ここに海があれば、諫早の故郷とよく似ている。

「ここに海があれば、私の故郷に少しは近くなるな。」

江がそうつぶやく。諫早は自分の心が読み当てられたように感じて、ぱっと江の方を向いた。

「江さんは神戸の出身でしたっけ。」

「そうだな、山の手の方、異人館の近くだ。」

異人館、とは懐かしい言葉だ。まだ異国の人が珍しかった頃付けられた名前なのだろう。もう今はいわゆる異人が半分を超えているから旧領事館、旧邸宅などと呼ばれている。

 昔のことは、二人には分からない。二人が生まれた時にはもう移民がかなり来ていたし、出自も宗教も文化もバラバラな人が共に暮らす風景が当たり前だった。だから、自分たち固有の文化を守るために人を攻撃したりする行動原理が、公安として業務にあたっている今でも分からなかった。

「どうした、ぼうっとして。お腹がすいたのか。」

江はそう言ってポケットの中からキャンディを取り出すと、諫早の手に握らせてきた。子供でもあるまいし…と思いつつ、少し上等そうなミルク味のキャンディだったので諫早は包み紙を広げた。




「よし、着いた。」

車から降りた江は大きく伸びをして、そう言った。元信者が最初に保護された交番の近くの駐車場に車を止めているのだが、車の色が黄色すぎて明らかに周りから浮いている。本当に大丈夫なのだろうか、これならパトカーの方が逆に目立たないのでは…と諫早は思った。

手荷物をさっとまとめて、二人は白丸の交番へ向かう。到着前に諫早がしっかりと訪問の連絡を入れていたため、応対もスムーズだ。

「遠いところよく来てくださいました。私、アポリナリオ・ガルシアと申します。」

出て来たのは五十代くらいの見るからに温厚そうな人で、人の好さが全身からにじみ出ているといった様子だ。警視庁の本部から来た人間、加えて江と諫早の方が階級が上なので敬語を使っているのだろうが、入庁して五、六年しかたっていない二人がはるかに年上の警察官に敬語を使われることに少し居心地の悪さを感じる。

「丁寧に、ありがとうございます。」

諫早がそう言って軽く頭を下げる。江も少し遅れてそれに倣った。

「早速ですが、保護された方の情報とその時の様子について、詳しくお聞かせ願えますか。」

「はい。その方が交番にいらしたのは八月三日の午前五時ごろ。ひどく弱った様子で、淡い茶色の作務衣に似たものを着ていました。」

ガルシアの話にうなづきながら、諫早はメモを取る。

「作務衣はボロボロで、おそらく山を抜けてきたのでしょう。細かい木の枝や草切れがついていました。そして私にゆっくりと話してきたのです、『助けてほしい』

と。」

「記憶があまりないはずなのに交番に行けば助けてもらえるかも、とか山を下れば交番がある、とかいうのは分かったんですね。」

諫早がふと疑問を投げかける。

「確かにそうだな。もともとこの辺に住んでいた人なら交番の場所を知っていたかもしれないし、幸運にも、偶然交番を見つけたのかもしれない。しかし、正直その人が持っている記憶というのもなんだか不自然だ。自分の本名は分からなくて、大岳会で呼ばれていた名前だけ分かる、とは…。」


「そもそもなぜ心鋼大岳会の信者だと分かったんですか?」

考え込み始めた江をよそに、諫早が尋ねる。

「本人が言っていたんです。自分は大岳会の信者だ、と。」

「そういっている時の本人の様子はどのような感じでしたか?」

「ただ事実を話しているといった感じで、特に変わった様子は…、」

それを聞いた江が勢いよくガルシアを見つめる。

「ちょっと待ってくれ。その人が言っていた情報を全て、この紙に書き出してくれないか。」

そう言って江は登山用リュックの中から上質そうなスケッチブックを取り出し、ガルシアの目の前に突き出した。

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