燻り出されしアレ【なずみのホラー便 第1弾】

なずみ智子

燻り出されしアレ

 今夜もいつものおうちデートであるはずであった。


 コウジは、会社の同僚であり恋人でもあるサユミの家のソファで、3本目の缶ビールを開けた。

 キンキンに冷やされている美味しいビールをグイッと喉に流し込んだコウジは、隣に座るサユミの横顔をチラリと見た。

 来月で付き合って3年となる彼女。

 互いに年齢が20代後半であることや、コウジの田舎の両親を安心させるためにも、そろそろ彼女との結婚をも考え始めている。

 ”上から目線で”コウジがサユミを評価すると、隅々まで整理整頓&掃除が行き届いているこの部屋の様子や料理の腕前などからしても、恋愛相手としてだけでなく、結婚相手としてもサユミは充分に及第点をとっていた。

 しかし、たった1点だけサユミには好ましくない点があった。



「ねえ……」

 サユミがコウジに向き直る。

「何?」

 彼は予測できた。彼女が次に続けるであろう言葉を。



「今日さ、会社でミナコと話してたじゃん。何、話してたの?」

「何って……こないだのA社とB社の見積もり比較の件だけど……」

「本当にそれだけ?」

「そうだよ。他に何かあるわけ?」



 コウジは、フーッと溜息を吐いた。

 サユミは異常なまでに嫉妬深い女であった。

 そう、たった1点の好ましくない点である、この嫉妬深ささえなければコウジはいつも思う。


 たとえ単なる会社の同僚であっても、業務上必要な会話をしていただけであっても、後でこうして2人きりになった時に、逐一コウジに問い詰めて回答を求めてきたことは一度や二度じゃない。それどころか、コウジとサユミの両手両脚の指を全部使って数えたとしても足りないぐらいの回数だ。



――……またかよ。何? 俺はお前以外の女と話もしちゃいけないっていうのかよ。同僚と話をするのは当たり前だし、同僚と話さなきゃ仕事にならないだろ。それに世の中の半分は女なんだから、女と一切関わらずに生きていくのは到底無理だっての。



 しかも、サユミは”実際にコウジの周りにいる女たち”だけに、その嫉妬の炎を燃やしているのではない。

 付き合って間もない頃、一緒にTVを見ていたコウジが「〇瀬は〇かって、可愛いうえに巨乳でスタイルもいいよな」なんて、ブラウン管の向こうにいる女優の美貌を世間話程度にサラッと褒めた瞬間、鬼の形相になったのだから。

 「へええ、そうなんだ。好きなんだ。どれくらい好きなの? 私よりも好きなの?」と、その後、コウジは一時間近くにわたって、サユミの尋問を受けることになったのだから。

 ”芸能人相手に何、マジになってんだよ、こいつ”と思ったコウジであったが、久々にできた彼女であったため、その時は平謝りをし、そのまま交際を続けることを選択した。よくよく考えれば、あの時、そのまま別れることだってできたはずであったのに。



「俺にはお前しかいない。だから、他の女になんて興味ねえよ」

 サユミを安心させ、尋問を中断させるための、いつもの言葉。

 けれども、今日のサユミは違っていた。


「……本当にそう? コウジ、ミナコのこと気になってるんじゃないの?」

「なんでそう思うわけ? 俺、あの人とそんなに親しくもないこと、サユミも知ってるだろ」

 喉に詰まるはずのないビールが喉に詰まった気がしたコウジであったが、そのつまりをサユミに悟られないように答える。

 ミナコのことを”あの人”と言い、自分とは実際に距離感があることをアピールしつつ。



「だって、コウジ。時々、ミナコのことチラチラ見てるし」

「いや、見てねえよ」

「ううん、絶対に見てる」

「見てねえって」


 今日のサユミの尋問はかなりしつこそうだ。

 そのうえコウジ自身、否定はしたものの、同僚である時々ミナコを見ていること――いや、ついつい見てしまっていることは自覚はしていた。


 件の同僚・ミナコはそう飛びきりの美人というわけではないし、飛びきりの巨乳というわけでもない。けれども、口数少なく控えめな彼女のその肌はとってもやわらかそうで、仕草やちょっとした表情がコウジを疼かせるのだ。

 かといって、コウジはミナコに”実際に”モーションをかけてなどはいない。それだは天に誓える。しかし、男の心と体は別物であるということだけは(特にサユミには絶対に口には出せないが)大目に見て欲しいのだが……



「本当? 本当にそう? コウジはミナコのこと、好きじゃないのね。ミナコのことは気になってもいないのね?」

「当たり前だろ。ただの同僚でしかねえよ。それに……俺にはお前しかいないって何度も言ってるだろ」

 サユミを安心させるための鉄板ワード”俺にはお前しかいない”を、コウジは再び繰り返した。




「そう……それなら……」

 ソファからすっくと立ちあがったサユミは、寝室の方へと向かったかと思うと、すぐに戻ってきた。

「…………”これ”を試しても平気よね?」

 サユミの両手にあるのは、白い箱であった。


「……何だよ? それ?」

「お香よ」

「俺、あんま、お香とかそういうの得意じゃないんだけど……」


 しかし、今いるここはサユミの家だ。

 自分の家でお香を焚かれるのならともかく、ここの家主であるサユミの行動をコウジは必要以上に制限はできない。



「それ、どんな香りすんの? いい匂い?」

「さあ……私も今日、初めて使うから……でも、私にこれを譲ってくれた年配の女性は、すっごく特別なお香だって言ってたわ」

「特別って?」


 コウジの問いには答えず、サユミはその箱を、テーブルの上にコトンと置いた。

 箱を開けるサユミの手がわずかに震えていることに、コウジは気づく。

 

 その簡素な白い箱の中にあったのは、白濁を固めたかのような色の円錐型のお香であった。

 天井へと向かって直立している、お香の直径は約5㎝といったところか。

 そのお香の説明書と思しき4つに折りたたまれた白い紙も、箱の隅にあった。


 お香に詳しくはないコウジは、このお香がどう特別であるのかは、見た目からは分からない。

 いや、それだけではない。

 そもそも先ほどの”ミナコうんぬんの話”と、この白いお香を焚くことがどう繋がっていくというのかが、皆目見当がつかないのだ。




「コウジ……本当にコウジには私しかいないのね? それは本当ね?」

 コウジに向き直った、サユミの目はなぜか潤んでいた。


「…………本当だよ。俺を信じろって」

「そう……なら今からこのお香を焚くわ」

 単にお香を焚こうとしているだけなのに、なぜサユミは涙目になっているのであおろうか?

 だが、コウジはこういった場合、サユミの好きにさせてやることが一番であると経験上分かっていた。





 円錐型の白いお香は、小さな丸皿に乗せられた。

 サユミが先端にライターで火をつける。

 その先端より、一筋の白い煙が、高きを目指すがごとく揺らめき……


「?」

 コウジは思う。

 なんてことない、ただのお香のように見える。

 しかし、白い煙が揺らめいているというのに、お香の匂いはまだ自分の鼻腔に届いてこない。



 けれども――

「!!!」

 ただのお香に見えていたのは、最初の数秒だけであった。

 そして、匂いが届いてこないと感じていたのも、最初の数秒だけであった。



 この部屋の中には風など吹いてはいなかった。

 しかし、先端より流れる一筋の白い煙が突如、ブワッと強風にあおられたような動きを見せたうえに巨大化し、まるで白い大蛇がその口がコウジを飲み込むがごとく、グワッと襲い掛かってきたのだから。


「わ……っ!!!」

 明らかに自分を狙い撃ちした、その襲い掛かりを全身にもろに受けてしまったコウジの鼻腔は、幾度も覚えのある”あの匂い”によって一瞬で蹂躙された。

 

「ちょ……っ! 何なんだよ?!」

 コウジが声を荒げた時に、すでにお香の煙は数秒前までの元の一筋の煙へと戻っていた。

 先ほどのことは、自分が見た幻だったというのか?

 体のどこも怪我などしていないし、痛みなどもない。

 だが、コウジの全身の毛穴は開き切り、肌は粟立ち、鼻腔には”あの匂い”がまだねっとりと生々しく残っている――



「……今からが本番なのよ」

 当のサユミは立ち昇る白い煙をジッと見つめていた。見つめ続けていた。

 瞬きもせずに、食い入るように。

 どんな小さな変化すら、絶対に見逃さないというように。



「本番? 何が本番なんだよ?」

「しっ! 黙ってて!」


 不気味であり、”生々しく”怪しいお香に対しての恐怖。

 そのうえ、自分の心配をするどころか、そのお香に取りつかれたがごとき不可解な言動をサユミは見せている。


 何だ? いったい、”こいつら”何なんだ?

 一刻も早くここから逃げ出さんと、コウジが自分の鞄へと手を伸ばした時であった。



「あっ!」

 サユミの声にコウジは振り返る。


「?!」

 白濁の香より立ち昇っている煙が、より濃く強く、まるで蝋燭の炎のごとく天井に届かんばかりの高さとなり、そこにあった。

 まるで揺らめく白い炎だ。

 それに加え、コウジが先ほど嗅いだ”あの匂い”が、より強く、白い炎よりツーンと漂ってくる。

 コウジが性に目覚めた思春期の時分より嗅いでいる匂いであり、完全に身も心も成人男性となった今も日々、嗅いでいる”あの匂い”が……



 さらに、それだけではない。

 白い炎の中には、誰かがいるのだ。

 次第に輪郭がはっきり見えてくる。

 女だ。

 そして、その女の顔もはっきりと見えてきた。


「え……?」

 白い炎の中にいたのは、同僚・ミナコであった。

 会社の制服姿のミナコ。

 いつもと変わらぬ、はにかむような微笑みを見せていた。



――なんで、煙の中にミナコが……?

 これは現実のミナコではあるはずがない。

 おそらく、この不気味なお香が見せている幻のミナコであるだろう。

 だが、幻のミナコとはいえ、手を伸ばせば、そのまま触れて体温を感じることができそうなほど、”リアルなミナコ”として、彼女はそこに存在していた。



――どういうことだ?

 コウジはサユミを見る。

 サユミもまた、お香によって燻り出されたミナコを見ていた。見つめ続けていた。

 そのサユミの瞳からは、完全に光が失われていた。

 そのサユミの表情からは、普段の喜怒哀楽の欠片すら失われていた。



 そして、サユミは、幻ではあるも”あまりにもリアルなミナコ”を見つめたまま、箱の中にお香とともに入っていた白い紙に、のそのそと手を伸ばした。

 4つに折りたたまれていたその紙をサユミが広げるカサカサという音が――普段ならなんでもないようなその音が、コウジの鼓膜だけでなく、心臓と下腹部をもドクンと震わせる。


 サユミは紙に書かれていることを読み上げ始めた。

 能面のような表情で。全く抑揚のない声で……


「このお香を焚きますと、立ち昇る煙がまず近くにいる男性の肉体を包み込みます。そして、十数秒のちに煙は巨大化し、その煙の中において男性の”直近の自慰行為の対象”を燻り出します。男性の自慰行為が肉体的ならび精神的にも激しく、熱く、濃厚であればあるほど、煙の中にて現れる”直近の自慰行為の対象”の姿はより現実的に、まるで本物と見まごう程の精巧さを持って現れ……」




―――fin―――

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燻り出されしアレ【なずみのホラー便 第1弾】 なずみ智子 @nazumi_tomoko

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