少女の空
安崎旅人
第1話 また明日
白い波が岸辺に打ち付けている。日はすでに傾き、水平線の向こうから夕闇が忍び寄って来るのが、ひしひしと感じられた。君は裸足のまま砂浜を歩き、小さな足跡を砂に残している。打ち寄せる波はその足跡をかすめるが、力尽きて海へと戻っていく。風が、少し吹いて君の長いスカートを揺らした。空が刻一刻と闇に呑まれていく中で、午後になって現れた雲は沈みゆく日の名残を受けて群青色に染まっていた。その雲の下では、鳥たちがねぐらへと帰っていく。ぼくはそれを見て、君に声をかけた。ぼくの声に振り向いたその顔は、まだ幼くていつになく頼りなげに見えた。
村へと続く細い道で、ぼくたちはほとんど言葉を交わさなかった。なだらかに続く丘は半ば夕闇に沈み、垣根越しに羊や牛が鳴き交わす姿が見えた。牧童が、家畜を小屋に追い立てている。どこかから、夕飯の匂いが漂ってきた。君は後ろに手を組んで思案顔のままぼくの横を歩いている。ふと、雲の切れ間から大きな影が姿を現した。彼方の山々が、夕闇より暗い影に覆われる。時々ぼくたちの上空を通過するその影は、巨大な《空に浮かぶ島》だと言われていた。聞くところによると、何千年も前に疫病の蔓延で地表が汚染された時、人々は天空にこの島を作り、移住したのだとか。今でもあそこには人が住んでいるのだろうか。
気がつくと、君も同じ方向を見つめていた。その優しげな横顔は、夕闇の中でひどく儚く見えた。きっと、ぼくたちもいつか死んで忘れられるのだろう。今や名前も忘れられた《空に浮かぶ島》のように。そう思うと胸が苦しくなって、ぼくはなんの脈絡もなく君の手首をそっとつかんだ。君はゆっくりとぼくの方を向いて、視線を空から下ろした。その吸い込まれそうな大きな目に、群青色の空が映った。
村はずれの三叉路で、ぼくは君にまた明日、と言って、手を振った。君は小さく手を振り返すと、おやすみと言って立ち去った。その後ろ姿を見つめながら、ぼくは悲しい気持ちに浸った。君は、この世界で一番儚い存在に見える。でも、うまく言えないけれど、君がいればこの世界のどんな不条理も、悲しみも痛みも、いずれ訪れる死さえも、どうでもいいものに思えた。その溢れるほどの感情を自分の心に留めておくのが辛くて切なくて、何度眠れぬ夜に星を見上げて涙したことだろう。それなのに、ぼくときたらまだ君に何も言えないでいる。いや、言ったところでなんになるだろう。君はぼくを振り向かないで行ってしまう。このまま、ぼくは君と切り離されて他人のままで終わるのだ。そう思うと、胸が軋んだ。
少し前に、池の表面に自分の顔を写して見つめたことがある。どう見ても風采の上がらない、18歳の頼りない青年がぼくを見つめ返していた。ぼくがもっと美しく、強かったなら、君はぼくを振り向いてくれたのだろうか。学校で『スキュリオーティエ叙事詩』を読んでいた頃から、君はぼくの最も近くにいて最も遠い存在だった。君の気を引こうと、叙事詩の文句を暗唱したあの日々。でも、君はきっと、そんなものを望んではいなかった。
気がつくと、視界の先で君がこっちを見ていた。君はにっこり微笑んで、また少し手を振って見せた。心臓が、飛び跳ねるように動いた。ぼくはぎこちなく微笑んで、君の笑顔を心に刻みつけると、また明日、と今日二度目の言葉を紡いだ。
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