第22話
*☆*☆*
「お支度が整いました」
アストライア神殿の広大な庭園を見下ろすバルコニーから、アフロは朝日に照らされた豊かな緑を眺めていた。
ゆるやかに蛇行する水路のあちこちで、水をくみ上げる民の姿があった。
空中庭園から流れ下った水は、いったん地下の貯水池に集められ、王城を取り囲むように配置された各神殿の地下浄水池に貯められる。
そこから浄水槽をくぐり、地上の水路へとおくられていた。
「おそれながら、申し上げます」
いささか狼狽した面持ちで、果実水の盆を捧げた女官がささやいた。
「アスタルド様のご様子が。礼拝の間においでです。ボウ様が、控えておられますが 」
どう言葉にすれば良いのかと、女官の表情が語っていた。
「わかりました。わたくしが参りましょう」
礼拝の間は、中庭に開かれた広い回廊のような造りになっている。
正面には、両腕を広げたアストライア神が安置され、庭の泉から反射した光に揺らめいていた。
カリは神像の足元にひざまずき、深く頭を垂れたまま身動きしなかった。
数歩離れて、低頭したボウがいる。
声をかけようとして、アフロは足を止めた。
反射した光とは別に、白光する薄絹のようなものがカリを包み込みゆっくりと立ち昇っていた。それが渦巻き、カリの頭上で朝日と交じり合う。
「もう、出発の時間ですか?」
ほどけて拡散する煌きのなか、肩越しにカリは振りかえった。
「そうです」
穏やかに答えたアフロの胸に、わずかなさざなみが立つ。
(アスタルド )
これは、天の摂理なのだろうか。
それとも、わたくしの 欲か と。
あの日。
広間を破壊した直後に意識を失ったカリは、目覚めてから様子が変わっていた。
まるで、すべてを受け入れ、そして、すべてを諦めたかのように。
「行きましょう、伯母君。 扉を開けに 」
*☆*☆*
式典の朝が明けた。
フィリング家の居間で、ほろ酔い気分のバンテ・ロウがうたた寝から叩き起こされたのは、まだ早朝のことだった。
「この大事な日に、朝から酒におぼれるとは、何事だ!」
身支度をした中年男を見上げ、ろれつの回らぬ舌を動かして挨拶するバンテ・ロウは、酔っ払いの笑みを浮かべた。
「おまえには、フィリング家の者の自覚はないのかっ」
怒りにまかせて胸倉をつかむ兄カーランドの鼻先で、バンテ・ロウ・フィリングは盛大なげっぷを吐き出した。
たまらず手を離した兄の足元に、だらしなく尻餅をつく。
「このっ大馬鹿者っ!式典が終わるまで、ここから出てはならん。よいなっ、ここから一歩も出るでないぞっ!」
叩き壊すような勢いで扉を閉め、兄カーランドは出て行った。
「やれやれ、短気な兄上だ」
助け起こそうと屈み込む執事に、バンテ・ロウは軽く手を振った。
「ぼっちゃま 」
老いた執事の顔。
幼い頃には気づかなかった、気遣わしげな色がある。
肉親より近しく、深い想いをこめて育ててくれた者だ。
「だいじょうぶ。 だいじょうぶ」
しゃんと立ちあがり、バンテ・ロウはその肩を軽く抱きしめる。
「お休みください。酔い覚ましに、果実水などお持ち致します」
出て行こうとするバンテ・ロウを呼び止めかねて、執事は口ごもった。
何を言っても、聞くはずのない若主人だ。
「どうか、お早いお帰りを 」
あきらめた執事の声に、バンテ・ロウは軽く手を振って応えた。
*☆*☆*
正殿のいちばん奥まった広間に、文武百官が整列していた。
広間の奥には幅広の階段があり、最上段の中央から先、なお奥まった正面に、ベルダの塔へと続く扉があった。
この扉から先は、人知を超えた神の領域だ。
アルラントの創世神話に語られる、星姫ベルダの住まう塔。
歴代の聖王を生みつづけた聖母。
ここはベルダ姫の塔へとつづく場所だ。
階段の上まで先導してくれたアフロが、立ち止まる。
真っ黒な一枚岩でできた扉は、遥かな天井付近で弧を描いていた。
大きく息を吐き、カリは再び一歩を踏み出した。
(開くのだろうか )
漠然とした不安にしかめた顔を、漆黒の扉が映し出している。
ノブも装飾もない扉の表面へ、上げた両手を押しつけ、ゆっくりと力をこめる。と、抵抗もなく扉は内側へと開いていった。
一歩踏み出した瞬間、軽いめまいに思わず目を伏せ、ため息がもれる。
違和感に満ちた空気の変化に、カリは弾かれて顔をあげた。
(これは… ここは)
明るく広々としたホールの中央に、螺旋階段があった。
振り返れば内側に開いた扉があり、その向こう側に、驚いた表情のアフロが、薄闇にさえぎられて立っていた。
(これは、扉じゃない。結界だ)
すぐ側にいたアフロにも、整然と居並んだ官僚達の目にも、カリは扉に吸い込まれ、消えたように映っただろう。
(どうして、こんなところに結界がある?)
カリの耳の奥で、誰かのすすり泣きがした。
耳を澄ませると消えてしまう、微かな嗚咽のような音。
(だれ? 泣いているのは)
*☆*☆*
宮城へと続く馬車道の歩道を、バンテ・ロウは小姓を従えて行く。
のんびり歩くふたりを、次々と貴族の豪華な馬車が追い越して行った。
顔見知りの貴族も護衛の騎士も、誰もバンテ・ロウのいることに頓着しない。むしろ、係わり合いになりたくないようだ。
変わり者の弟伯爵がどこにいようと、人は気にしない。
なぜなら、市井に生きる変わり者の弟伯爵だから。
城門を入ってすぐ右に、練兵場への門があった。
肩幅と同じ大きさの酒樽を背負い、チーズやパン、燻製などの入った大きな籠を抱えた小姓と、あきらかに酔っているバンテ・ロウを、門番は黙って通す。
へたに声をかけようものなら、酒の相手に引きずり込まれて自分の首が危ういからだ。
この道の途中にある小さな庭と泉を、バンテ・ロウはいたく気に入っていた。
こんもりした木立を分け入ると、人の世から隔絶された空間が現れる。
庭の片隅に岩を組んだ小さな滝があり、細い流れを刻んで泉に注ぎ込んでいた。
地味なその場所は練兵場の裏にあり、厩へ続く小道と隣接している。
ふだんは朝夕の飼い葉を運ぶ、雑役夫しか利用しない。
真昼ともなれば、ぱったりと人通りも途絶える。
酷暑のなかで死の労働を強いられるのは、王城の地下貯水池から水を汲み上げる蓄人だけだ。
手早く衣服を脱いで、バンテ・ロウは泉に飛びこんだ。
「おまえも 早く来い! 」
もたついて服を脱いだ小姓が、恐る々る泉に足を入れた。
酔った笑い声を上げ水面を叩く男に、梢から監視していた者が離れて行く。
いくつかの気配も、次々と絶えた。
滝の下へ移動した小姓が、せせらぎにかき消されそうな声を出す。
前髪から滴る水を払い、強かに笑んだ小姓は、ヤム。
「行ったぜ」
水飛沫を跳ね上げ、流れ落ちる滝の裏をバンテ・ロウは探った。
「埋もれし、藍の獅子。 これだ」
手のひらほどのラピス・ラズリのくぼみが横滑りし、金属の輪が見える。
手前に引いた途端、滝の裏で岩が動いた。
そっと覗きこんで、バンテ・ロウはあごをしゃくる。
「迷宮探検だな。 行こう」
*☆*☆*
マルカをともなって、リュキアスは地下庭園にいた。
繊細な透かし彫りに象牙の花をあしらった窓の外を、心地よい水の幕が蓋っている。
陽は高い。けれど、リュキアスの心は重い。
マルカを残して行く理由を探して、ふと苦笑する。
なぜ、この場を離れる理由など考えたのかと。
「ゆっくりなさいませ、マルカ殿。巡回に参りますゆえ」
返事を待たず、目すら合わせず、リュキアスは回廊に踏み出した。
おぞましい罪を犯すのだと、身体が震える。
(あれは、女神などではない。アクスリーヌ様を 苦しめる者)
どれほど言い聞かせても、胸底の闇は晴れない。
(野に放てば、誰かが利用する。もし、聖王陛下に聖妃として薦める者がいれば、アクスリーヌ様が。 でも あの者 )
リュキアスは、必死で女神を守った若者を、思い出していた。
(許せ、アクスリーヌ様の為だ。 だが、わたしにできるのか)
想い惑う苦しみから、歩みが止まった。
このまま真っ直ぐに行けば、女神のいる地下牢に着く。
地下回廊は、幾つかの水路が交わる場所に、大小様々な広場が設けられていた。
ここには地上までの階段があり、ひとつ上の階にある迷路へとつながる通路もある。
西へ向かえば、西塔へ続いているのだろう。
(神よ、許したまえ。これは、わたしの罪 )
レン・ルシアドの命令を、遂行せねば。
決心した顔を上げ、リュキアスは確かな一歩を進めた。
*☆*☆*
微かなすすり泣きに導かれ、カリは螺旋階段を登った。
遥か頂上に見えていた天井が、今はすぐ手の届きそうな高みに近づき、狭いホールに登り切る。
目の前の扉がスライドして、すすり泣きに聞こえていた音が大きくなった。
途端に、カリは何かの意思に支配された。
浅くなった呼吸すら、意のままにならない。
硝子の珠を転がすような、軽やかに打ち合う音色。
不思議な、悲しみを震わせる声だ。
部屋の中央に据えられた円陣の中空に、巨大な水晶が浮いていた。
その中で、祈るように指を組んだ少女が、ひざまづいている。
(! ミルト?)
ラジェッタの森で、ともに育った少女の名が浮かぶ。
しかし、この少女は赤銅色の髪。
ミルトは、カリと同じ黄金の髪だった。
自分の歩みを感じて、カリは精一杯抗おうともがく。
(あなたは だれ? 僕を どうするつもり )
確かに、この音はカリを呼んでいる。
そう、癒しの力を秘めたミルトの声と、同じ心を感じる。
しかし、怯むほどの絶対的な畏怖。
気を張っていなければ、つぶされてしまう圧倒的な力があった。
(地の者の王を導く者、よくぞ参られた。我はベルダと呼ばれしもの。アルラントの建国以前より、この地に封ぜられ、約束された者をひたすらに待ちつづける存在。ふたつに分かれ、生まれ出でし者よ。天の摂理は、そなたを選んだ。こぼれ落ちたそなたの半身は、わずかの後に闇に呑まれるであろう)
カリの心の深い闇。
ふだんは感じることも、触れることもできない闇の部分が、明滅した。
そこに、ルーヴィルがいる。
(… そ うか )
ルーヴィルが、カリの心の闇に存在していた。
違う、闇そのものとして存在していた。
カリが、ルーヴィルの内に沈む、光そのものとして存在するように。
己の暗い部分を否定できず、逃げ出す術もなく、身を守る事すら知らず。
渦巻き、引き込み、否応ない憎しみに、ルーヴィルは。。
己の醜さに苦悶し、かく在りたいと求める、その想いを嘲り。
その傷み。その、すべてが絶望となって、カリの内に存在していた。
ただひとつの、消え果ててしまいそうな微かな希望を懐に抱いて。。
(そなたは、半身を捨てねばならぬ。なぜなら、その者はそなたの闇。光とならねばならぬそなたとは、あい入れぬ闇。そして、唯一の穢れだ。地の者の王の導き手として、そなたの内に闇は不要の存在)
両手の爪が手のひらに食い込むほど、カリは手を握り締めた。
(このまま放置しても、この闇はあとわずかで滅びるだろう。苦しませず、そなたの力で消滅させよ。さすれば、我がそなたを真の導き手として、祝福しよう)
カリの胸のなか、ルーヴィルが哀しい微笑で見つめてくる。
心から笑んだ事のない目が、レイアに向けられた時にだけ暖かな優しさで満ちていた。
もがくことすら、あきらめた日々を。
その苦しみの、果てしない時間を。
なにひとつ癒されもしないで、傷ついたことすら自覚できずに、ルーヴィルは。
(ルーヴィル。なにも知らなくて、ごめん。でも、死なせはしない。こんなことで、終わらせはしないっ )
怯んで失っていた気力を、身体の底からしぼりだし、カリは吼えた。
レイアを求め輝いたルーヴィルの顔が、カリの熱い想いに変わる。
(あなたの祝福などいらない! おれは導き手などにならないっ。ふたりが同じ魂から生まれたのなら、ふたりがともに選ばれるべきだ。闇の思いや悲しみを知らぬ者に、導き手の資格なんてないっ! おれとルーヴィルは、兄弟だっ! 別の人格を持った人間だ! )
心の叫びが歪みを生じ、空間そのものが螺旋によじれてゆく。
(そなたも、導き手にはなってくれぬのか。幾度となく現れては、我が前から消えていった者達と同じように、自ら破滅を選ぶのか。ならば、我はいつまで。 いつまで待てば良いのだ )
激しさを増す渦に引かれ、ベルダの力が揺らぐ。
(止めよ、自ら滅びを招くのは。やめよ 自らを 滅ぼすのは )
吹き上げる激情の中で、カリは爆発する自我を手放そうとした。
何が起ころうと、かまわない。
ただ、ルーヴィルだけを守ろうと、その想いだけで。
(カリ いけない。 いまは、まだ)
あの時、崩壊するカリを抱きとめた感触が、再び包み込んでくる。
(あなたの力が 必要なの。 お願い )
カリの内で荒れ狂っていた波が、撫でるように凪いだ。
暖かな癒しに、視界が晴れる。
果てない地平まで臨める上空で、カリはテンと向かい合っていた。
身体はいまも、ベルダの塔に横たわったままだ。
ふたりのそばに、きらめく珠が浮かんでいた。
テンは、それに手をかざす。
(悠久に在り続ける乙女ベルダ。もうあなたを、この地に引き止める結界はありません。あなたを縛る誓約は、わたしが引き受けます。安心して、在るべきところへ行きなさい)
喜びを怖れ、裏切りの辛さにふるえて、ベルダは心細い音を紡ぐ。
(我に命ずるか 娘。だが、その言葉は、我に平安をくれる。それでは、ほんとうに我の使命は終わったと、言うのだな )
(呪縛は解かれた。お行きなさい。あなたの望むままに )
中心から細かな光の矢を放ち、珠のかたちが崩れてゆく。
(わたしたちの遠い始祖なる者よ。 やすらかに )
テンの祈りに、最後の輝きが放たれた。
その刹那。カリは聞いた。
呼び出した神の依り代として、選ばれた幼女。
神を繋ぎ止めるために、永遠の生に縛られた幼女の思いを。
理不尽な仕打ちを理解できず、幼かったベルダに芽吹いた感情が、ただ、打ち捨てられた者の計り知れない哀しみだった事を。
テンは、カリを振りかえる。
(行きましょう。あなたの半身を 救いに)
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