第18話
*☆*☆*
「お目覚め下さい、女神殿」
眩いばかりの輝きの中で、レイアは意識を取り戻した。
背中を支える柔らかな感触に、まだ浸っていたい。
すぐそばで、水の流れる音がする。
「目覚めなさい。アクスリーヌ様をお待たせするなど、いかに女神といえども許されません」
急に引き起こされ、レイアは床に崩れ落ちた。
つかまれた腕の痛みに目が醒めて、強い吐き気がこみあげる。
「ご気分が、すぐれませんか。リュキアス、女神殿に薬湯を」
しばらくして、香りの良い器が唇に触れる。
「お飲みなさいませ。吐き気がおさまります」
女の声に、レイアは素直に従った。
暖かな飲み物を含むうちに、あたりの様子が見えてくる。
宝石を敷き詰めた水路。
白大理石の柱が林立する回廊。
極彩色の天井画で彩られた広間に、レイアはいた。
「ここは? 」
目の前で片膝をつく女に、記憶が戻った。
アストライア神殿から、無理やりレイアを拉致した女だ。
「なぜ、わたしをここに?」
女は答えず、数歩下がって低頭した。
「もうよい。リュキアス、さがれ」
「はっ」
無駄のない動きで、リュキアスと呼ばれた女は、扉の横まで退いた。
「さて、女神殿。アクスリーヌ様が、お見えになられます。くれぐれも、失礼のなきようお心得下さい。たとえあなたが女神であろうと、我が主人に対して、いっさい無礼な振る舞いは許しません。おわかりですね」
微笑を浮かべた士官を仰ぎ見て、レイアは途方にくれた。
『わたしが、女神? そう言えば、街で出会った人たちも、言っていたような 気がするけど』
やがて、はかなげな香りとともに、美しい女性が広間へ入ってきた。
髪を高く結い上げて飾りで留め、流れるような銀髪を背中に落している。
身にまとった香り同様に、はかなげな姿態の女性だった。
けれど、レイアは違和感を覚える。
誰かが支えていなければ、壊れてしまいそうな人なのに、その瞳が鋭すぎて、内にある激しさを隠しきれないでいる。
奴隷女たちが整えた寝椅子に腰掛け、アクスリーヌは退屈そうにレイアを見下ろした。
「姫、お申しつけの者にございます」
かしこまるレン・ルシアドに目もくれず、アクスリーヌは繊細な扇子を取り出した。
透かし彫りの象牙に磨き上げた貴石を用い、炎華(ひのはな)を描いた扇子だ。
口元を隠して広げたそれが、小刻みに震えている。
「女神とやら。そなた、なにゆえ降臨などしたのです」
レイアは戸惑った。
伝えるべき言葉は、老師へ宛てたもの。ほかの地上人に、伝えるものはない。まして、自分は女神ではないし、目の前の女性に答える義務もない。
「答えよ、娘っ。無礼であろう!」
そばに立つ老婆が、きつく言い放つ。
「およし、乳母や」
優しさを装った声は、人を嘲り苛立っている。
アクスリーヌの傲慢さに、レイアはぞっとした。
「わたしは、女神などではありません。言った覚えもありません。こんなところで、ひどい仕打ちを受けるような事など、何もしていません。ですから、わたしを帰してください。ここはわたしが望んで来た場所ではありませんから」
アクスリーヌの身体が、微かに引き締まる。
手のひらに音を立てて扇子を閉じ、風が揺らめくようにアクスリーヌは立ち上がった。
その顔は、怒りに上気して妖しいほどに艶やかだ。
「なにゆえ降臨したのか、思い出すがよい。つまらぬいい訳など聞きとうない」
不機嫌なおもちのまま、アクスリーヌはその場を後にした。
見送るレイアの肩が、ため息に揺れる。
「女神殿、ご機嫌を損じましたね。あれほど注意したものを。わたしは許さないと、言ったはずだ」
レン・ルシアドは、荒々しくレイアを引き上げた。
悲鳴をあげるのもかまわず、平手がしたたかにレイアの頬を打つ。痛みで、気が飛びそうになる。
すかさずもう片方を打たれ、遠のく意識を押しとめた。
「次にお目通りするおりは、心して答えることだ」
アクスリーヌの気に入るように答えよと、レン・ルシアドは仄めかしている。
気に入る答えなど、レイアは持っていない。
「リュキアス、連れてゆけ」
痛む頬を押さえ、レイアはリュキアスのするがまま回廊を歩いた。
なんの飾りもない扉の向こうに、質素な部屋がある。
いたわるように、リュキアスはレイアを寝台に座らせた。
水に浸した布でレイアの腫れた頬を冷やすリュキアスの顔は、いくぶん困惑していた。
「あなたが女神なのかどうか、わたしには預かり知らぬこと。ただ、アクスリーヌ様は、わたしが生涯をかけてお守りしようと神に誓った御方だ。あなたが、アクスリーヌ様の災いとならぬかぎり、わたしにできる精一杯の事はしよう。だから、この地に舞い降りた理由を、正直に言ってくれ。アクスリーヌ様のお心を、煩わせないでくれ。 頼む」
レイアにとって、リュキアスは心を許せる者ではない。
この優しさのどこまでが、真実なのか。
「気に入る答えは何ですか。わたしには、嘘をつく以外にありません。あの方は、わたしに何を望んでいるのですか」
まっすぐにリュキアスの目を見返して、レイアは答えた。
震えるか細い声ではあったが、力に屈しない強い思いがある。
「ならば、次に答える折りは、覚悟するのだな」
声を落とし、扉に退いたリュキアスが、心残りなふうに足を止める。
「時には偽りも、人を救える。地位や権力を望まぬなら。誰とも組せず、誰にも力を与えないなら。そしてあなたが、このまま地上を去ると言うなら、多くの者が救われる。なんとしても、わかってはくれまいか。 女神殿」
*☆*☆*
木洩れ陽が、踊っていた。
気持ちの悪い目覚めだ。
吐き気を押さえ、無理にも目を開ける。
奇妙な綴織の天井を見上げ、ルーヴィルはぼんやりしている頭を振った。
濃い霧でも漂っている感じだ。
『 レイア。 そうだ、レイア』
飛び起きようとする身体を、何かが引きとめた。
「ご気分は、いかがですか。ルーヴィル様」
瞳の奥に、木洩れ陽の揺蕩う男。
「エルバス!?」
いぶかしげに曇るルーヴィルの顔を見つめ、エルバスは不思議な笑みを浮かべた。
困ったような、どこか安堵したとでも言いたげなものだ。
「あなたが、暗殺者のように自殺してしまうのではないかと、心配している者がいます。でも、あなたには目的がおありです。死など、考えられてはいない。そうですね」
エルバスの真意を計りかね、ルーヴィルはうなづいた。
ここで捕らえられては、もともこもない気がした。
「どうして、ここに? おれは、なぜ」
エルバスは、静かに帳を引いた。その後ろから、きまり悪げなヤムが顔を出す。
「早とちりして 悪かった。謝る」
身構えかけたルーヴィルに、ヤムはあわてて弁解した。
エルバスよりも困り果てたヤムに、ふっと笑いがおこる。
「おまえがラドゥラ・アインの息子とは、知らなかったぜ。シークラーの仲間が知ったら、ただではすまなかったな」
ふいに出てきたヤムの言葉が、ルーヴィルの胸に食い込む。
捨ててしまいたい生い立ちに、痛みが走った。
「マルカ様を追って、王都に来られたのですね。そして、新たな出会いを、なさいましたか」
穏やかに問いかけるエルバスが、ほんの少し憎らしい。
この男がマルカの思い人と気づいた時は、胸が焦げるほど憎くかった。しかし今、レイアと出会った事で、マルカの気持ちが理解できる。
「お元気ですよ、マルカ様は」
「元気に? マルカはどこにいる。なぜ、知っている?」
問い返すルーヴィルから目をそらし、エルバスは窓辺へ歩み寄った。
「長老殿は、何を考えていらっしゃるのでしょう。実の娘に、何をさせるおつもりなのか」
疲れたように吐息して、エルバスは目を伏せた。
その横顔が、苦痛に耐えて強張ってくる。
「しばらくマルカ様のことは、そっとして差し上げたいと思います。あなた様を、お連れできる場所ではありませんので」
扉の外から、応えがあった。
エルバスはヤムに視線を送り、うなづいてみせる。
「しばらくは、ここでおとなしく過ごしてください。詳しいことは、ヤムが答えてくれるでしょう。どうか、わたくしが戻るまで、この部屋でお待ち下さい」
エルバスが出てゆくなり、ルーヴィルは床に足をつけた。
まとわりつく目眩いに顔をしかめ、呼吸をととのえる。
「ここは、どこ? おまえとエルバスは、どういう仲なんだ。ヴァンキーは、どこに? エルバスとおまえは、敵同士だろうに」
わからない事だらけで、ルーヴィルは混乱していた。
なぜ、ヴァンキーは自分を殺さなかったのか。
なぜ、ヤムとエルバスが共にいるのか。
なぜ。
なぜ、エルバスはマルカのことを。
「ここは、アルラントの王城の中だ。と言っても、エルバスの屋敷らしいが。城はひとつの街になっていて、ここは貴族たちの家がある区域だそうだ。おまえの妹は、城のどこかで元気にしているようだな。安心したか?」
くつろいで、ヤムはサイドテーブルから果物をちぎった。
「食っておけ。気分が良くなる」
『何も入っていないぞ』と、念をおして、ヤムは同じ実を口にした。
「レイアは? 帰らなきゃ。きっと、心配してる」
合わせていた目を落し、ヤムは微かに舌打ちした。
レイアが東塔殿の警護軍に拉致されたと聞けば、ルーヴィルはじっとしていないだろう。
危険を承知で、忍び込むはずだ。
ルーヴィルを影から守っている暗殺者達も動くだろうが、事を大きくしたくない。
「早まらないと、約束してくれ。おれは、おまえを助けたいんだ。だから、おれを信じてくれ」
*☆*☆*
王宮に向かう馬車に揺られながら、エルバスはじっと目の前を凝視していた。
『皮肉だな、運命(さだめ)というものは』
何もない空間に、エルバスは白昼夢を見ていた。
あの幼い日から、一度として頭を離れない幻影だ。
それはいつも、炎になぶられている。
その炎の中で、幼い子供が泣いていた。
血の海に倒れ伏した母も、炎にまかれていた。
『逃げて、ヴィルヤ。おまえだけでも 逃げて』
立ちすくむ子供に血で汚れた甲冑姿の男が駆けより、有無を言わさず抱き上げる。
「シレーユ様」
いまわの際で、母は笑んだ。
それが、母の最後。
噴きあがる炎の壁が、母の姿をかき消したのだ。
なめるように追いかけてくる炎が、心底恐ろしかった。
無事に外へ飛び出すまで、幼い弟のことを忘れていた。
『馬屋に隠れていろと、わたしは言った。燃えつきて崩れた馬屋を見るまで、忘れていたっ』
どれほど後悔しただろう。
いっそ気が狂えば、どれほどにか楽になれたものを。
隠れていろなどと言ったがために、弟を死なせてしまった。
はてしない 後悔。
いまも忘れることのできぬまま、胸の底を切り刻んでいる。
まだ、歩き始めたばかりだった。
まわらぬ舌で、兄上と呼んでいた。
『リエル。おまえは』
エルバスは、そっと左耳の耳飾(ピアス)をまさぐった。
弟が生まれたとき、母はふたりの耳に同じものをつけた。
『もしも、運命(さだめ)が兄弟を引き裂いても、かならずめぐり会えるように印をつけておきましょうね。わたしは、一族の掟を破った女。遂げてはならない想いを、成就させてしまった者。あなたたち兄弟は、あの方の御子として認められないけれど、幸せになってほしいの。わたしと、あの方が望んだように。ささやかでも、幸せを掴んでほしいの』
こうなることが、母にはわかっていたのだろうか。
類稀なる霊力を授かった、一族の歌姫ならば、様々な行く末が見えていたのかもしれない。
『二度と失うものかっ。もう、二度と』
堅く両手を握り締め、エルバスは目を閉じた。
まぶたの裏に、たくましく成長したヤムが笑んでいた。
まだ、何も知らないであろう、ヤムが。
手持ち無沙汰(ぶさた)に、ルーヴィルは窓辺のソファーで寝転がっていた。
姿勢を変えるたび、ため息がこぼれてくる。
「落ち着けよ」
言い聞かせるヤムも、同じようなものだが。
レイアが拉致されたと知り、今にも飛び出そうとするルーヴィルを、ヤムはやっとの思いで引き止めた。
エルバスを、信頼したわけではない。だが、少なくとも敵ではないと思えるのだ。
なぜか、心に優しい想いが湧いてくる。
不思議な、暖かい、なにかが。
「おまえが、レイアを助けたい気持ちは、おれにもわかるよ。おれだって、助けたい人がいる。助けたいと思って、もう一年になるけどな」
意外そうな目で、ルーヴィルはヤムを見た。
「一年も? なぜ、早く助けに行かないんだ」
『なぜ?』そう聞かれて、ヤムは苦笑いする。
リュイーヌを助け出して、それですべてが終わるなら、こんなにも苦しまない。
捕らわれた一国の姫君を自由な身の上にしたいなら、戦わねば。
アルラントの国政を覆し、革命をおこさねば。
多くの命を無差別に殺戮してまで、自分はリュイーヌを助けたいのだろうか。
アルラントでシークラーに転がり込んでから、ヤムは、ずっと考えてきた。そして、昨夜エルバスと交わした言葉が、胸に食い込んでいる。
『どうすれば、お嬢を幸せにできる? どうすれば、お嬢に自由を 』
きっと、リュイーヌ自身も、血で血を洗うような手段は、望んでいないだろう。
あの短い旅のあいだ、敵の命すら思いやった姫だ。
穏やかな手段以外、受け入れてはくれまい。
ヤムが革命の担い手としてアルラントを覆したら、リュイーヌは死者を悼み、悲しむにちがいない。まして今は、この大陸のどこにも、リュイーヌの居場所はない。
いたずらにヤムが動けば、かえって苦しめる事になる。
くやしいがエルバスの言うとおり、リュイーヌの事は、まだ時が満ちていないのだろう。
エルバスは、ルーヴィルとレイアに、安住の地を見つけようと約束した。
『なぜだ 』
オ・ロンの地下牢で、豹変したエルバス。
それを、信じてもいいのだろうか。
心のどこかで、ヤムは信じきっている自分を見ていた。
なぜか、理由はわからないが。
どうすれば、ふたりは穏やかに暮せるのだろう。
追っ手に怯える生活に、幸せはない。
「レイアを助け出した後、おまえは、どうする?」
「どうって それは 」
くちごもるルーヴィル。
後先も考えずに走ろうとする一途な想いを、ヤムは叶えてやりたかった。たとえラドゥラ・アインの息子であっても、駆け引きなしにルーヴィルを助けたい。
「生きる事を考えろ。どうすれば、愛する女が幸せになれるのか。レイアが、何を望んでいるのか。おまえの想いなど無視して、考えろ」
*☆*☆*
柔らかな陽射しのテラスで、エルバスはチャイの盤に向かっていた。
ここからは、空中庭園の一部がうかがえた。
東塔殿寄りのこの部屋は、宮殿内の、コンラッド子爵の控え室だ。
バイカウント・マルクル・コンラッド。
温厚ではあるが、いささか偏屈で頑固者。
大のチャイ好きで、だれかれなしに捕まえては延々と盤を戦わせ、子供のように飽きることがない。
悪意がないだけに無下に断れず、宮廷の者なら、敬遠する老子爵だ。
運悪く捕まったエルバスに、どこかホッとした会釈をして、皆は帰途につく。
エルバスを眼の敵にするスティア・クロウなど、あからさまな冷笑で会釈をしたものだ。
「囚われの女王は『侍女の駒』を、こよなく愛されていらっしゃる。ともに行くのは困難かと。そうそう、西の巫女が、聖王より地中に賜った楽園には古い道が。地図さえあれば、楽園に続いているとか。地中の女神までの道も、開けている楽園らしく。地図は、お持ちで? 古い古い昔の地図が、必要でございます。王の砦からも、地中の楽園に道がございましてな。大変に、危うい道が。亡きお父上が、お持ちだった地図」
盤を挟んで、得意げに老人は駒を進める。
紫水晶の『王子の駒』と、瑠璃の『侍女の駒』を、エルバスはもてあそんでいた。が、その口元に優しい笑みがのぼった。
「リ・チャイ。わたくしの、勝ちです。女神は、わたくしがいただきましょう。そう、この『王子の駒』とともに、世に放つのも一興かと。西の巫女は、まだ動かせない。『騎馬の駒』には気の毒だが、道案内に使います。門番の西の巫女を、驚かせない為に」
エルバスは、懐から小箱を出してテーブルの端へ置いた。
中には、ルーヴィルが調剤した薬が入っている。
「王子の駒からの、預かり物です。小さな乳母殿に、お渡しください。兄君は元気でいらっしゃると、お伝え頂ければありがたい。お望みなら、ともに羽ばたかれるが良いと。ご伝言を」
それぞれに駒を分けたあと、なにもない盤上の中央に、コンラッドは『王者の駒』を置いた。
「今は、ただおひとりでのぅ。力ある者か、否か」
すかさずエルバスは、『騎士の駒』を盤の隅へ置く。
「もし、力をお持ちでないとしても、騎士は王に仕える者。民を憂う王に、戦いは不要です。醜い争いは、王を守る騎士の役目。志を曲げては、逝った者が悲しむでしょう。三日後に、陛下はアクスリーヌ様と、離宮で過ごされるとか。雛鳥を放つには、最良の日。くれぐれも、誤りのなきよう」
風に耳を澄まし、雨季の訪れを聞いていた老人が、向かってくる馬車へ微笑みかける。
「やはり、いらしたか。あの方の、おっしゃったとおりだ」
北の岩場にあるライドの村は、雨季の間だけ人が住みつく場所だ。
渡りの者と呼ばれる放浪民族が、仮住まいする居住区。
ここは王都アルラントの管轄でありながら、法の及ばない場所だった。
無法地帯の人畜とみなされる地下住居区の人々と違い、王都の支配から外れた人々が、自由きままに住まう空間。だから、村と言っても建物はない。
渡り鳥のように、野生動物同様の扱いだ。
どこで生きようと、どこで死のうと、関わる必要のない獣の集団。
そのかわり、畜人のような枷はない。
砂漠で使われる包床(パオ)がいくつも張られ、真昼の陽光に煌いていた。
痩せてはいても、強靭な馬が放し飼いにされている。
雨季が近づくと、渡りの者は、アルラントが抱える北の岩場へやって来る。
渡り鳥の産卵とひな鳥を狙い、山岳から下りてくる銀狼を捕獲するためだ。
この時期の銀狼は、いちばん肉をつけ、美しい毛並みをしている。
渡りの者にとっては、鳥も動物も、生活の糧だ。
肉や卵は食料となり、保存食となり、羽根や毛皮は大切な交易品となる。
幼いエルバスを連れ、養父のシレーユ候は、たびたびライドの村を訪れた。
身分を越え、親しく交流していた養父を、エルバスは誇りにしている。
獣同様に虐げられる人々の中にも、叡智を備えた者はいると、養父は教えてくれた。
ライドの村の長老は、深い知識と知恵を持ち、一族を率いて大陸を渡っている。
厳しくとも慈悲に満ちた自然の摂理に従い、天地の狭間で生を紡いでいる。
獲物を追い、大地をねぐらにすべてを受け入れ、すべてに受け入れられて生きる人々を、エルバスは尊敬し、うらやましいとさえ思う。
自分には得られない、生き方が愛しい。
いまさら渡りの者になりたいと、望んでいるのではない。
すでに、賽(さい)は投げられた。
ならば、自分も父のように、己の意志と願いとを分け、成就しよう。
引き継いだ父の意志は、意志として。
父が願ったと同じ想いは、想いとして。
大事な者の幸せは、かならずや勝ち取ってみせる。
父のように、まぼろしとして終わらせるものか。
ふたりを助けたいと望むヤムの願いを、エルバスは引き受けた。
ヤムが望むなら、どんなに些細な願いでも、叶えてやりたい。それは、後悔で心を砕き、狂おしいほどに胸を噛み続けた者の、たったひとつのつぐないだった。
己のすべてを、投じずにはいられない。できるなら、なにを犠牲にしても、守りたい。
許されるなら、国が消滅しようと、かまわない。
それほどまでに、貫き通したい想い。
ふたたびヤムを失うくらいなら、今度こそ、己が死を選ぼう。
震えの止まらない両手で胸元を握り締め、引きつるように息をつく。
扉が開くのももどかしく、穏やかに待つ長老の手を、エルバスは握り締めた。
「お願いがあって、参りました。ご助力下さいますか?」
形通りの挨拶をはぶき、どこか切羽詰った様子に、老人は小首をかしげて見せる。
「お入りください、エルバス様。この爺でお役に立つなら、なんなりと」
包床(パオ)の扉布を上げる老人に、エルバスは深く頭を下げた。
「取り乱しました。申し訳ございません」
通された包床の内は、ひんやりと心地よい。
砂漠の巨大獣サンド・セムの皮は、強い光を反射し、同時に内部の熱を放出する。
焼けた釜戸同然の、王都の石造りの家屋に比べれば、天国だった。
室内へ踏み込んだエルバスは、勧められるまま円座に腰をおろす。
長老の包床(パオ)は、仕切りの奥に寝室を配した大きなものだ。
「なんなりと、お申しつけください、エルバス様。この爺に、遠慮などなさいますな。あなた様は、ただこうせよと、おっしゃるだけでよろしいのです」
いつも変わらぬ長老の態度に、エルバスも平静を取り戻した。
「ならば、遠慮なくお願いいたします。ふたりの者を、渡りの一族に加えていただきたいのです。もう噂はご存知でしょうが、ひとりは女神と言われている者。もうひとりは、暗殺者の長老ラドゥラ・アインの息子です。ことによれば、もうひとり。ラドゥラ・アインの娘も、助けていただきたい。ふたりを城から脱出させるのに、もしも、わたくしがしくじった場合は、渡りのあなた方にも、大変な災いを招くのですが。どうか、受け入れていただきたいのです」
すがるようなエルバスに、長老は笑みかえす。
「承諾いたします前に、ひとつお尋ねしたい。エルバス様は、亡きお父上の御意志より、そのお二人をぜひとも守りたいと願われるのですか? あなた様が成そうと決意された事よりも、大切だと」
「ご老人… 叶いませぬか?」
父が息子に願ったのは、市井にうずもれた小さな幸せだった。そして、父自身の意志は、アルラントの民主政治だ。
血を流さず、穏やかな方法で、政権を民衆に移すこと。
愛する妻と息子たちを権力闘争から遠ざけ、さらに己の意志を貫こうとした父。
シレーユ候の領地で養育されたエルバスには、ふたつの選択肢があった。
亡き父の意志を継いで、穏やかな政権交代を目指すのか。
それとも、誰の目にも止まらない場所で、ひとりの男として生きるのか。
養父のシレーユ候は、成人したエルバスに強要などしなかった。
亡き父の願いを、大切にしてくれた。
父の意志を、我がものと決めたのは、自分だ。
そう、賽(さい)を投げたのは、エルバス。
唇を噛み、うつむいた姿を、長老は愛しそうに眺めていた。
およそ十数年前、同じようにうなだれた青年を、愛しく見つめていたように。
『血は争えぬもの』
ふっと、そんな言葉が浮かぶ。
「ご心配無用です、エルバス様。あなた様が、動く必要はございません。あなた様は、お父上のご意志を成就なさいませ。そのおふたりは、他の者がお助けいたします」
呆気にとられるエルバスに、長老は奥を指し示した。
「チャイのお好きなご老人が、前もって使者を下さいました。きっと、あなた様は、ご自分で動こうとなさる。言い出したら聞かぬゆえ、その者に全てを命じておいたと」
仕切り布を押し上げ、よく見知った男が現れる。
「あなたは! なぜ ?」
エルバスにとって、あまり近づきになりたくない男が微笑んでいる。
宿敵、フィリング伯爵の弟。バンテ・ロウだ。
市井の弟伯爵(ロード)と呼ばれ、宮廷にはほとんど顔を見せない変わり者だ。
「お待ちしておりました、エルバス様」
ゆったりと円座に座り、バンテ・ロウ・フィリングは頭を下げた。
いつになく断固とした声に、エルバスは目をみはる。
宮廷で見かけるバンテ・ロウは、なげやりで眠たげな、風に舞う羽のような男だったからだ。
だが、今の声は。
「コンラッド様から、手はずは伺っております。それとは別に、今回役に立ちそうな男からも、伝言がございます。シレーユ家の真の嫡男から、摂政の真の嫡男へ宛てた伝言です。どうか、受け取っていただきたい」
意味深長に言葉を止め、市井のロードは身を乗り出した。
「わたしは、あなたのお父上に剣を捧げた身。あなたが、お父上の意志を継がれるのならば、わたしの剣はあなたのものだ。どうか、ご自分を大切にしていただきたい」
エルバスの頬に、朱がのぼる。
「これは、父の意志ではない。わたしの 」
自分の一方的な想いで、だれかが危険に踏み込むなんて。
志しとは違うことで、もし、命を落したら。
バンテ・ロウが剣を捧げたのは、高い理想だ。
エルバスの想いに、捧げたのではないはず。
「お心を煩わせずとも、よろしいのです。エルバス様。あなた様が助けようとされているふたりは、我らにとっても、大切な方々だ。敵の手の内に置いては、かならず障害となり得ます。未来(さき)で斬り捨てるぐらいなら 助けたい」
包床(パオ)の入り口に退いていた老人へ、バンテ・ロウは頷いてみせる。
「わたしは、亡きあなたの養父、シレーユ侯から命ぜられていたのです。万が一、シレーユ侯の身に異変が起こったならば、己の一命にかえて、あなたをお守りせよと。今は亡き摂政ヒリア殿に捧げたわたしの忠誠を、ヒリア殿の御子であるあなたに捧げよと、仰せつかっていたのです。そして、失踪したシレーユ候の嫡男からも、先ほど同じ事を頼まれた」
顔を上げ、息を飲むエルバス。
「生きて ? ヴァンキー は」
養父が息をひきとる寸前に、かすかに呼んだ名前は、失踪した実の息子のもの。
「健在です。ずっと、エルバス様を見守ってきた。すべてを影から見守ってきたのです。エルバス様、これは始まりです」
今一度、時が大きくうねろうとしている。
軽いめまいの中で、エルバスは、流れに飲み込まれたような息苦しさを覚えていた。
大切な者ほど、激しい流れにさらわれてしまいそうな、漠然とした不安が広がる。
白昼夢の中で、エルバスは、微笑むヤムを見ていた。
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