第12話

*☆*☆*

<ルーヴィル>

 根雪の残る稜線と雲ひとつない空が、夕日の色に染め上がる。

 うっそうとした森の落ち葉を蹴散らして、ルーヴィルは獲物を追っていた。

 確かに、手応えはあった。

 熱い血の匂いが、その証拠だ。

 かすかに聞こえる唸り声で、弱った獣の気配を感じる。

 林立する大木をまわり込んだ先に、下草を朱に染めて大熊はいた。

 すでに、狩る者と狩られる者の決着はついている。

 すかさずクロスボウを構え、ルーヴィルは 断末魔に狂う大熊の眉間を貫いた。

 ひとつの命がつきるとき、森は厳粛な静けさに閉ざされる。

 風も光も、生命のすべてが鼓動を止め、瞑目する。

 深く息を吐き、自然の摂理に畏敬をこめて、ルーヴィルは頭を垂れた。

 素直な思いが、短くとも真摯な祈りになる。

 身体の弱い妹のために、大熊を狩るルーヴィル。

 互いの命を賭けた、どちらかが生きのびるための戦い。

 等しい重さの命を賭けた戦いは、人と獣の域を越えた神聖なものだ。

 自然のなかで等しく生まれ、等しく育まれた者どうしの、侵しがたい生への戦い。

 ルーヴィルが負ければ、熊はルーヴィルの命で、己が命をつなぐだろう。

 ルーヴィルが勝てば、熊の命で 妹の命をつなぐように。

 滑り落ちる秋の陽を背に受け、ルーヴィルは顔を上げた。

 熊の両足をロープで縛り、携帯用の滑車で大枝にぶらさげる。

 特別に作った砂牛の胃袋製の水袋をいくつか取り出して、ルーヴィルは深いため息を吐いた。

 何度やっても慣れない作業に、気合をいれるためだ。

 吸い口代わりに、細い管を取りつけた水袋。

 熊の動脈に突き刺せば、管を通って袋に血が溜まる仕掛けになっている。

 増血の薬として、獣狩りの一族に伝わっている処方箋の材料は、新鮮な熊の血だ。

 買えば一粒が、銅貨二十枚はする。

 二年前。

 摂政カイドの代理で、アラハートの視察に来たシレーユ侯爵が、虚弱な妹マルカにと 薬に処方箋をつけて持参したのが始まりだった。

 暗殺者の砦アラハート。

 その支配下にある流人村の人々は、ルーヴィルを吸血鬼と呼び恐怖した。

 血を採るために熊を狩るルーヴィルを、死神の息子と蔑んだ。

 魔王と恐れられる暗殺者集団の長老ラドゥラ・アインが、ルーヴィルとマルカの父親だから、物心ついたときには、まわりのすべての人に嫌われてはいたが。

 長老の息子というだけで、ルーヴィルを恐れていた者たち。

 それが、熊を狩るようになってから、まるで獰猛な獣と出会ったように ルーヴィルのまわりから逃げ散って行く。

 マルカの為に薬を買うのは当たり前で、薬を作るのはおぞましいことなのだろうか。

 殺生に携わる者を、多くの人は忌み嫌う。

 だれでも獣の肉を食らい、生きていると言うのに。

 たとえ植物だけを食する者でも、植物の命を糧にしているはずだ。

 何かを食べることは、他の命を食べることだ。

 他の命を奪い、己が命を養うことだ。

 生きる糧を、みずからの手で屠らない者たちと、生きるために、その手を血に染める者たちと、どこがどう違うのか。

 暗殺を任務とするルーヴィルのような者でも、妹を守り生かしてやりたいと思う。

 それがなぜ、責められ嘲けられるのか。

 アルラントのためとはいえ、密かに暗殺する役目にある自分が、忌まれる者だとルーヴィルは思う。

 どんな理由をつけても、おぞましい殺人者なのだと思う。だが、そんな者にも慈しむ想いはあるはずだ。

 自分の生き方を選ぶ権利もなく、成人すれば父の跡を継ぐであろう人生を、ルーヴィルは受け入れた。

 心のどこを探しても、王都に対する愛国心も、聖王への忠誠心もない。

 それでも暗殺者の息子として生まれた自分に、他の生き方など許されるはずはない。

 だれだって、こんな忌まわしい家に生まれたくはないだろう。

 逃げ出せるものなら、とっくに逃げ出している。けれど、どこへ逃げてもルーヴィルはルーヴィルだ。

 自分でなくなることは、できない。

 いま、獣の血で真っ赤に染まっている自分の手が、そう遠くない将来に人の血で染まるとき。せめてマルカだけは、妹だけは、無関係な場所にいてほしい。

 聖王の命ずるまま、なんの尊厳も 畏敬もなく、人の命を絶つだろう自分とは、無縁の世界にいてほしかった。

『おれが、暗殺者になったとき。マルカ、おまえは 』

 ルーヴィルは、確固たる支えがほしかった。

 血に飢えた殺人鬼にならぬよう、清冽なほどの理由がほしかった。

 自分が自分で在るために、マルカの兄でいたいがための理由が。

『マルカ 』


< マルカ >

「なぜ?」

 分厚い石壁にかこまれた質素な部屋で、マルカは長剣を構えた男と向き合っていた。

 細長い窓から射し込む夕日が、二人の間を分かつ炎の線となって、床にのびている。

 マルカの波打つ赤銅色の髪は、こめかみに張りついていた。

「なぜ!」

 駆けつけた乳母が、部屋の入り口で立ち止まる。

「嬢ちゃまっ!」

 一閃する白刃の下で、乳母は張り裂ける悲鳴を上げた。


< アクスリーヌ >

 今日も、王都アルラントに真昼がめぐってきた。

 ほんの数刻で、ミイラができそうなほどの猛暑だ。

 通りから、人が消える。

 都市の機能が、完全に停止する。

 ただ、一ヶ所をのぞいて。

 緑が豊かに繁茂する王城で、畜人(スラッジ)たちの重労働が続いていた。

 空中庭園の小川や滝へ水を供給する貯水池に、汲み上げた地下水を運ぶのだ。

 休む間もなく続く労働のうち、真昼の数刻は拷問に等しい。

 熱気で畜人(スラッジ)が死亡するのも、この時間がピークだ。

 王城の背後には、峻嶺な天峰山脈が連なり、豊かな水源もある。だが、山裾まで流れ出した河は、とつぜん堅い岩盤の下へもぐりこみ、人を拒んだ。

 どんなに打ちつけても、ひっかくほどの傷しかつかない岩盤を、気が遠くなるほど掘り下げないかぎり、水は手に入らない。

 創世王デュマの時代に着手した大掛かりな井戸の工事がようやく完成したのは、デュマの死後、およそ百数十年を経てからだった。

 古い砦の下に、湖ほどもある巨大な竪穴が掘り下げられていた。

 縁から覗いても、はるか下にある水面は、暗黒の底に沈んで見えない。

 竪穴の内側に大通りほどの通路が、らせん状に壁面をめぐり下降していた。

 竪穴の規模からみれば、人などアリのごとく卑小に見える。

 この井戸は政務本殿の広大な内庭の一角にあり、王国軍の管轄内に置かれていた。

 聖王が政を行う政務本殿の奥には、三つの塔で構成された内宮がある。

 政務本殿と直接回廊でつながっている北塔は、聖王の居城だ。

 ここには聖太子ティリアンと侍従たちの部屋があり、北塔のまわりは王国軍の詰所で囲まれていた。

 東塔には、第二妃のアクスリーヌが住まい。

 西塔にはヴァルリオリンのリュイーヌ姫と、ラグーンの幼い巫女姫が居を構えている。表向き、アクスリーヌが聖王の側妃であるのに対し、リュイーヌと巫女姫は人質である。それゆえに、両者は対面していない。

 もっとも気位の高いアクスリーヌが、人質である二人の姫に面会を求めるなど、考えられないが。

「カイド殿は、なにを見つけられて?」

 街を見渡す内宮の東塔から、第二妃のアクスリーヌは空中庭園へつづく回廊に足を踏み入れた。

 厚い石壁を焼き、真昼の熱気がたぎってくる。

 極上の麻と、絹をふんだんに使った衣装は、心地よさと鮮やかな光沢で、妃の細い身体を包んでいた。

 その肌はどこまでも白く透き通り、なおやかとしか言いようのない美姫だ。

 豊かな銀髪はまっすぐで、白金の針を思わせる。

 硬質な輝きを放ってはいるが、全体から受ける印象は、そよ風にすら傷ついてしまう程、はかない。

「星が落ちて、もう三日あまり。カイド殿が、神殿でなにをしているのか、知らされていないのは、きっと わたくしだけ」

 振り向きもせず、アクスリーヌは従う士官に言葉をかけた。

 濃紺に銀を落としたような美姫の瞳に、かすかな苛立ちが浮かぶ。

「恐れ入ります」

 内宮の東塔警護軍の軍服を身にまとったレン・ルシアドは、微笑を含んで顔を上げた。アクスリーヌの声の調子で、すべての感情を読みとれるだけに、苛立ちの深さが察せられる。

「なにぶんエルエア神殿は、王国軍の兵舎で守られておりますゆえ他の軍の者は色々と詮索され、立ち入るのが難しいのです。しかし、手の者の知らせでは、落ちた星は古文書に記されていた物だったとか」

 三日前の、星祭の深夜。

 無数の星が流れ、神の星がアルラントの北の岩場に天降った。

 その近辺で女神を見たと言う者が多数出たため、摂政カイドの命令で、王国軍をはじめ、ラドゥラ・アイン率いる暗殺者部隊も慌ただしい動きを見せている。

「女神が、降臨したと言うのですか? ヒリングハムの扉を越えて」

 繊細な彫刻をほどこした香木の扉が、アクスリーヌの歩調に合わせ左右へ開いた。

 スッと、心地よい涼風が二人を迎える。

 空中庭園の下まで通じる、地下回廊へ入ったのだ。

 極彩色の貴石を敷き詰めた水路が、白大理石の回廊に沿って流れていた。

 鏡を使った明り取りから柔らかく陽が射し込んで、そこかしこに反射する。まるで、まばゆい光が乱舞しているようだった。

「なんのために? この末世に女神の降臨は、時の織姫ですら綴ってはいないはず。エルエア神殿の古文書には、この度のことが、なにか記されていたのですか?」

 おかしくてたまらぬ様子で、アクスリーヌは声をたてて笑った。

「本当に女神が降臨したのなら、わたくしも見てみたい」

 ふと眉をひそめ、レン・ルシアドは アクスリーヌの後姿に目を向けた。

 主人に仕える士官というより、気がかりな身内に向ける、いたわりの視線で。

『妃が、怯えている?  だが、なぜ』

 女神の降臨がアクスリーヌの心をわずらわせるなら、取り除かねばならない。たとえ、どんなに些細な事でもと、レン・ルシアドは表情を引きしめた。

 十五年前。

 アルラントからの一方的な戦争で、島国シムは大敗した。

 そのため、まだ四歳だったアクスリーヌは、人質同然にアルラントへ輿入れした。

 現在、シム帝国は、アルラントの統治下にある。

 占領された国の例に漏れず、搾取されるシムの国民は、奴隷以下の扱いにあまんじていた。

 そっと、レン・ルシアドはため息する。

 輿入れの日。

 まだ幼かったアクスリーヌに追従を許されたのは、年端もゆかぬ子供たちと、老いた乳母だけだった。

 島国シムの、ただ一人の王位継承権者であるアクスリーヌ。

 国から届く書簡の端々に、シムの民の苦難を読みとって、なんの救いもできないと、身をふるわせるアクスリーヌ。

 そば近くに仕えるシムからの従者たちは、そんなアクスリーヌに己のすべてをかけて忠誠を誓っていた。

「マルカが、王宮の噂を聞いたそうな」

 マルカは、一才になるレイシアン王子の乳母のひとりだ。

 アルラントの創世記に名を連ねるコンラッド子爵の一族から、乳母の小間使いとして伺候したが、レイシアン王子が気にいって離れないため、アクスリーヌは慣例を無視して、マルカを乳母のひとりに指名した。

 おとなしく目立たないマルカを、アクスリーヌは好もしく思い、信頼していた。

「誰から聞いたとは、言わぬが。女神を陛下の聖妃にと、画策している者たちがいるそうな。ティリアン聖太子の他に御子を望むなど、何を考えているのか。まして、星姫ベルダの御子でもないものを」

 属国シムの女。

 アクスリーヌから生まれたレイシアンに、アルラントの王位継承権はない。

 アルラントの聖王アルフィルドは、三日前の星祭に布令をだした。

『星姫ベルダ』が、聖太子を降臨させたと。

 アルフィルド亡きあと、次の聖王となる神の御子だ。

 代々の聖王に降される後継ぎの御子は、創生王デュマの聖妃。星姫ベルダの子供だという。宇宙神エルエアの力が凝って誕生したベルダ姫は、人であり、神である神聖な存在だ。

 壮大な王宮の中心に位置する、エルエア神殿。

 その最上階の星の塔に、ベルダ姫は永遠の若さと命を得て住んでいると言う。

 星の塔に住まう星姫ベルダと、アルフィルドの子。

 ティリアン聖太子。

 摂政カイドの手で厚く保護されているティリアン聖太子を、アクスリーヌは呪った。

 我が子レイシアンの誕生を祝う式典に、聖王アルフィルドは現れず、代理の使者すら来なかった。

 世継ぎの御子でない王子だから、属国の姫の御子だから、祝いは不要なのか。

 星祭で正統な王位継承権者の誕生を布令した聖王アルフィルドを、アクスリーヌは憎いと思った。

 そのうえ女神と聖王アルフィルドのあいだに御子が誕生したら、我が子レイシアンが あまりにも哀れすぎる。

「聖太子ティリアンも、女神も。健やかであればよいが」

 パチリと閉じた象牙細工の扇子を、アクスリーヌは流れに放った。

 そのまま足も止めず、早い速度で歩をすすめる。

 従うレン・ルシアドの顔に、鋭い殺意がのぼっていた。


*☆*☆* 

 山腹にある空中庭園は、歴代の聖王が手を加え今にいたっている。

 贅を凝らした内宮の周辺を、階段状に設えた小庭園の群れ。

 それぞれの小庭園を結ぶ小川と、一年中みごとな花々を咲かせる遊歩道。

 落差を利用した噴水や、華麗な形に整えた人口の滝の数々。

 渇ききった街から見上げれば、まさしく空中に浮かぶ別世界だ。

 それぞれの滝の裏に造られた部屋は、色とりどりの輝石を組み合わせ、万華鏡のような装飾がほどこされていた。

 焦げつく真昼の暑さに耐え、アルラントの民が暗い地下で息をひそめるこの時間。

 アクスリーヌは、気まぐれに選んだ一室で仮眠を取る。

 水の幕を通し、ひんやりと射しこむ光を浴びて、第二妃アクスリーヌは、退屈なため息を吐いた。

 砂漠の王国にとって他国者であるアクスリーヌが、命の源である水を大量に消費している。

 王都の民が激しい憤りをこめてアクスリーヌを憎んでいると、報告する忠臣はいなかった。

「レン。その女神とやらを、見てみたい」

「かしこまりました」

 侍女の捧げる果実水を取り、アクスリーヌはゆったりと寝椅子に身体をあずけた。

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