ようこそ、稀人様
夏目彦一
第1話:終点は異世界でした。
「すみません、その人、私と約束があるんで…申し訳ないんですが、手を離してあげてもらえませんか?」
「なんだぁ?」なんて、不機嫌な犬のように男は唸る。耳に3つも4つも穴開けて、引っ張って下さいと言わんばかりの派手な装飾つけちゃって。今時絵に描いたようなチンピラだ。
そのチンピラは、目下の女を見てニヤリと笑う。
手に取るようにわかる。『なんだ、女か』と自分より小柄で力も弱いであろう生物を見て余裕が湧いたんだろう。
「お前の仲間か?」
「そうなんです!ごめんね、待たせちゃって!」
「う、ううん!大丈夫!今、来た所!」
そういって、他人の2人は会話を合わせた。
彼女の名前は麻生ハナ。
つい1,2時間前まではしがない予備校講師だった。
猛暑の名残が続く中にも秋の気配を感じる8月の終わり。青い夏に血潮を燃やした部活生たちもついに受験シーズンへ突入し始めた大事な時期に、彼女はなぜか見たこともない世界に居た。
あれ?私なにやってたんだっけ?
確か、ようやく夏期講習の最終授業を終えて、疲れた体で料理をする気も起きなくて、「何でもいいから食べて帰ろう」とか思って、予備校の校舎前にある停留所から路面電車に乗って…
彼女がはっきりと思い出せたのは、そこまでだった。
ハナの住む場所は路面電車の走る城下町。
秋を深めれば黄金色の銀杏が濡羽色の城と絶妙なコントラストを創り出す季節。確かに夏は暑く湿気ばかりで、生まれてからずっと生活しているハナでさえ一番参ってしまう季節ではあるけれど、これからしばらく待てば美しい景観が楽しめる時期なのだ。
ハナは地元を愛している。
予備校を出てすぐの近代的な駅。路面電車はこの駅から若緑色の芝が敷かれた線路に乗って、時代を遡るように走り出す。大正時代から街に腰を落ち着けているレンガ造りの書店、町屋利用したカフェ、どこか懐かしい橙色の街灯…重さを含むようなしっとりとした空気漂う落ち着きのある街を抜ければ、車窓は城を捉え出す。城下には繁華街。人や光が混ざり合う現代の姿。
毎日見る、この地元の景色が大好きだった。
今日も今日とて、いつものように窓の外に流れる変わりのない景色を見ていたわけだが、詰まりに詰まった夏期講習、そして今年の記録的猛暑。体の疲れがピークに達していた事と伴って、無事に夏期講習を終えた安心感もあったかもしれない。ハナは意識を朦朧とさせてしまった。
あつーい、ねむーい、おなかすいたー。
そうしてしばし、人間からただの物体へと変貌していたハナに意識を連れ戻してくれたのは、車掌の「終点ですよ」の言葉だった。
げっ!やってしまった!
手放していた諸々を引き連れて、謝りながらハナは電車を飛び降りた。
終点、というが歩いて帰宅出来ない事もない。仕方ない、蒸し暑い中を帰るとしよう。コンビニに寄って、夕飯を買って、暑さを理由にダイエットも中断してアイスだって買ってやる、なんて事を思って顔を上げて、ハナ再び人間からただの物体に戻った。
何が何かわからないし、最早自分の身に降りかかっている事も理解できなかった。
ハナの目に映った景色は全く知らない、見たこともない世界だったのだ。
先刻書いた通り、ハナは地元で育ち、地元から離れた事はない。
だからといって知らない場所が無いわけではないけれど、路面電車の走る道は大抵わかっているつもりだった。それはハナだけでなく、この街に住む人なら当たり前のことだ。何しろ路面電車はそんなに広い範囲を走るものではない。料金だって一律170円。だからどの停留所で降りても、例えその場所が終点であっても、少なからず見覚えがあって当たり前なのだ。
「…まずは何かしら情報が欲しい…」
ハナは思いがけない事が起こると、より冷静になるタイプだった。そういえば、とハナは思い足す。昔から迷子になる天才だった。家族が隣にいたはず、友達が周りを遊んでいたはず、それなのに気付けば迷子になっていた。その度に焦ることも泣くことも無く、店員やスタッフを捕まえたり、迷子センターの場所を自ら探しに行った。ハナは家族が必ずハナを探していて、迷子は必ず元の場所に戻れることを知っていたのだ。勿論、子どもの頃の、無意識のうちに安全が根底にある話だが。
海外ドラマで「情報を得るならまずは飲み屋だ」と言うセリフを思い出したのは、そのセリフを放った俳優がハナ好みのイケメンだったからかもしれない。
ハナはとりあえず知らない道を、明るい方へ、騒がしい方へ、と歩いた。
有難いことにこの街は繁華街か何かなのだろう。行き交う人も、開いている店のようなものも多い。
歩いてみれば、よりこの街が見知らぬ街だと感じられた。路面電車に乗ってこの街に辿り着いた事からわかるように、見知らぬ街にも路面電車が走って入る。けれど線路に見慣れた芝生の若緑色は無い。石畳の上を走る知らない路面電車だった。濡羽色の城もなければ、広がる繁華街の様子も違う。同じものを探す方が困難だった。
「こんな都市伝説があった気がする…」
ハナは都市伝説を好む人間だった。
記憶にある都市伝説は、確か電車に乗っていたら知らない駅名のアナウンスが流れて、気付けば乗客もいなくて…という不気味なものだ。
「あれって、駅から降りたら帰れなくなるから降りちゃいけなかったような…」
まぁ、降りてしまっては仕方ない。確かに帰れなくなったら困るけれど、都市伝説のミステリアスには程遠いと言わざるを得ないほどに、この街は活気にあふれている。ハナにはどうにも不安や恐怖を感じるような要素はなかった。
「とりあえず、飲み屋を探して入ってみよう」
考えたらハナの知りたい情報を得るためにわざわざ飲み屋を探す必要はなかった。けれどそこに気付かなかった。ハナは蔦の走る建物の一階の窓に、文字を装った電飾が『BAR RESTAURANT」と光っているのを見つけて、迷わず入口の扉を開けたのだ。
「仲間なら話は早い!お前もこっちに来いよ!」
そうして、冒頭のこれである。
路面電車を飛び降りてから今この瞬間までを想起してみると、夢の可能性もある。もしかすると路面電車が事故に遭って、気付かないまま意識不明という可能性だって無きにしも非ず。ハナはテンション高く吠える男のそばでやはり冷静だった。
「いや…私は彼女と約束があるので…死んだお婆ちゃんの見舞いに行かないと危篤なんです」
「はぁ?」と男は不可解な顔をした。
それはあまりにもデタラメな言い訳だ。
ハナは冷静であることは得意だったけれど、嘘をつく事が極めて不得意だった。❰嘘をつく❱ということは世間一般にはいけないことかもしれないが、❱嘘がつけない・嘘をつく事が苦手❱というのは弱点に他ならない。自分の吐き出したデタラメな言い訳に思わず冷や汗をかいてしまった。
ふと、ハナは男の手を見る。
男は見知らぬ女性の華奢で白い腕を握ってた。逃げるにしてもハナの力では到底この男には敵わないし、まずは女性の腕を離すように仕向ける事が先だ。
「じゃあゲームしましょう」
スッと彼に差し出されたものは空のビール瓶。
ラベルを見る限り、ハナの知っているビール瓶でないようだ。飲み屋を見回せば同じ瓶が並んでたり、転がっていたりするあたり、こちらではよくある酒なのだろう。
「これ、あなたの飲んだお酒ですよね?」
「あぁ、そうだ」
「瓶の蓋、これを半分に折ってくれませんか?」
ハナは周りが波打った、それこそビール瓶の蓋にそっくりな金属を差し出す。男は言われたままに、瓶の蓋を半分に折り曲げてハナに返した。
ハナは殻の瓶を倒しその口に折り曲げた蓋の半身が瓶の中、もう半身が瓶の外側に出た状態で置いた。
「この瓶の口に置いた蓋を、息を吹いて瓶の中に入れる事が出来たら、お兄さんの勝ち。私も彼女もあなたに付き合います」
「はぁ?そんなことをしろっていうのか?」
「だからゲームです。ただでお兄さんについてはいけっていうんですか?何の得もないのにそれはちょっと。そうだなぁ…3回チャンスをあげます。」
そう言われると、男は一呼吸置いて笑い出した。「こんな簡単な事に!チャンスをくれるってか!」とケラケラ笑う。
「入れたらついてくるんだな?」
「勿論です」
男はハッ、と吐き捨てると、バカにするような顔で息を蓋に向かって吹きかけた。
ーカン!
すると、蓋は瓶から飛び出してテーブルの下に落下する。予想外の展開に、男はわけがわからない、という顔を浮かべた。
「チャンスはあと2回ありますよ」
そう言って折り曲げた蓋を拾い、促すように同じ配置へ。男は意を決したように大きく息を吸い込んで、唾を飛ばしながら息を吹きかけた…が、やはり蓋は瓶から外に飛んだ。嘲笑うかのように、踊るように。
「ラストです。」
男は意地だった。
恥か怒りか、顔を赤らめてもう一度…けれどやっぱり、蓋は瓶の中に入る事を拒否するように飛んで行った。
「なんだ、なんだ!」
「下手くそ!」
周りの酔っ払いが「そんな簡単なこともままならねぇのか」と騒ぎ立てる。最早男にとって、今この場所は羞恥の舞台。そう気付いたのか、男は力任せに瓶を掴んで床に叩きつけた。
空瓶はけたたましい音で割れた。
店内は沈黙どころか多少の盛り上がりを見せる。面白いのか知らないけれど、店の中にいる人達の誰も、か弱い女性2人の味方に付く気はないらしい。
「何を仕掛けやがった!クソアマ!」
むせ返るような酒の匂いは吐き出した息に乗ってやってくる。と、いうより息が臭いのかもしれない。
男は、先刻まで掴んでいた華奢な腕をほどき、ゲームを仕掛けたハナの胸ぐらを掴むために両手を前に差し出した、ところで、彼はピタッと動きを止める。
そして恐る恐る振り返り始めた。
「何を騒いでいる。」
酒屋の中は一斉に静まり返った。
男の後ろに立っていたのは、金髪の青い眼をした美丈夫。どうやら男はこの美丈夫に肩を叩かれたようである。ヤバイ、という空気は男からだけでなく、この店の中にも漂い始めた。ハナにとっては敵か、味方かもわからない。自然と身を半歩引き、自分の隣にいる女性の腕をそっと掴む。何かあったら走り去る、その隙はもしかしたらもうすぐかもしれない。
「いや、別に…」
「こっちで俺が話を聞いてやろう」
「いやいや!軍人様の出る幕じゃねえよ!」
「俺が出る幕がどうかは、話を聞いて俺が決めるさ。さぁ、来い」
そういうと、男は酒屋の外に引っ張られて行った。
「あ、びっくりした…」
そう呟いたのは、ハナが腕を握っていた女性、ハナが来る前まで男に絡まれていた綺麗な人だった。
「大丈夫ですか?私たちもここから出ましょう。」
そう言うと、酒屋の店主らしき人が「今頃ヤツが表で絞られてるから、裏口から逃げな」と入口とは別の出口に案内してくれた。薄ら笑いだ。どうやらこの店主もこの見世物に楽しんだらしい。悪趣味極まりない。
けれどようやく解放された。2人は裏口から出て顔を見合わせた。
「ありがとう…」
「大丈夫ですか?」
「平気です。ちょっとびっくりしたけど…」
「そりゃそうですよね。」
「あなたは大丈夫?」
「大丈夫です」とハナは答える。
あのタイミングで誰かが止めに入ってくれて助かった。最早あの後にハナが考えていたことは真正面に立つ男の股ぐらを思い切り蹴りあげ、その隙に逃げることだったので男も助かったに違いないだろう。
「あの、さっきの酒瓶」
「酒瓶?」
「なんで飛び出しちゃったの?」
「あぁ、蓋?吹き込んだ息は、瓶の中を回って外に出てくるんです。だから何も仕掛けなくても勝手に蓋は外に出て行くんですよ」
「そうだったの…入っちゃうんじゃないかってドキドキしちゃった」
「えっと、じゃあ私も1つ、聞いてもいいですか?」
「はい?」
「ここ、どこですか?」
そう、私は人を助けている場合ではないのだ。
ここがどこなのか、どこの終点なのか。ハナには知らなければならないことがある。
「あら、もしかして、あなた”稀人”?」
そう言うと女性は「私、お礼がしたいの。着いてきてもらえる?」と柔らかく笑った。絹糸のような光沢のある亜麻色の髪が夜の風に揺れる。ハナは彼女の陽だまりのようなオーラに警戒心も全て飲み込まれていく感覚を覚え、「じゃあ、お言葉に甘えて…」と彼女に従った。
騒がしい街を抜けるように歩く。
彼女を見かけた人が「今日は休みか?」と声をかけると、彼女は「そうよ。でも何かあったらいつでもいらして下さい」と笑顔で返す。
「入って」
案内された場所は、卵色の外壁の建物。深緑の入口扉を開くとドアベルが鳴る。飲食店かとハナは思ったけれど、中に入った時の匂いで違うとわかった。
独特の消毒臭ーこれは、病院の匂いだ。
入ってすぐの階段を上り、ハナが通された部屋はダイニングと思われた。
「ソファーに座って」
木製の円卓、それを囲む臙脂色のソファー。部屋には同じ色の暖炉。壁に掛けられた時計は22時を回っていた。
「あの、稀人って折口信夫の話ですか?」
「おりくち?それはわからないけれど…」
「ルビーティーで良かったかしら」と、ハナは真っ赤な液体の入ったグラスを差し出された。よくわからないけれど香りはりんごに似てる。口に含むと味云々より思いの外喉が渇いていたことに気付いた。
「この国には昔からちょくちょく旅人が来るの。なぜここに来たのか、どうやってここに来たのかわからない…”稀にどこかからやってくる旅人”、で”稀人”。」
「じゃあ、私の他にも誰かがここに?」
「ええ。あなたのような稀人が住む街もあるわ。私の名前はアジュガ。医者をやっているの。そしてこの街はケーティ。」
アジュガのウェーブの長い髪が揺れる。きれいな人だ。薄いピンク色の瞳が彼女の柔和な雰囲気をより一層深めているように思えた。
「私は麻生ハナと言います。日本から来ました。」
「ニッポン…聞かない名前ね…でも、王宮には稀人の記録があるから、もしかしたら名前が載ってるかも。」
「王宮?」
「えぇ。街の中心にあるの。」
「その王宮に記録があるんですか?」
「もちろん。稀人が来たら、まずは王宮で手続きを取るのよ。いつ、どうやって元の国に帰れるかわからないでしょう?手続きをして、稀人として認定されたら在籍証明が降りるの。そうすればたどり着いた街で生活出来るように王宮が環境を整えてくれるわ。」
「仕組みがしっかりしてますね…」
思いの外、役所感がある。
けれど仕組みがしっかりしていることが、ハナには少しの安心感をくれた。
「あなた、泊まる場所も無いんでしょ?」
「あ、そうだ…」
「ここに泊まるといいわ。うちは広いから大歓迎。一人ぼっちで寂しかったし、助けてもらったお礼もしたいの。」
「いや。こんな見ず知らずのわけわかんない人間を」
「泊めたらダメですよ」と言いかけたあたりだった。けたたましいうなり声と、地鳴り、そして足元の揺れ。そんなに大きくはないけれど、地震だと思った。
「あら、今日はこの区間のお掃除なのね」
けれど、それは地震ではなかった。
リビングの盾に長い窓から見えたものは、5mくらいあるに違いない、巨大なワニのような生き物。
その生き物が窓から部屋を覗くと、スッポンみたいな鼻から出て来る息で、窓が白く染まる。口をモシャモシャと動かしながら、しばらくすると部屋から視線を外してノソノソと移動する。
「ふふ、デスマトスクスよ。」
「デスマスク?ってこれ…」
「デスマトスクス。雑草が生えたりしないように、街にはデスマトスクスがいるのよ。ニホンにもいる?」
こんなワニか恐竜かわかんないものがいてたまるか!とか、出会ったばかりの人に突っ込むことは出来ない。
デスマスクみたいな名前のワニのような生物は、街の除草作業をしているらしい。足元の揺れを感じながら、ハナは「いや、いないですね」とだけ答えた。
「今日はうちで休んで、明日王宮に手続きに行きましょうね。お夕飯は食べた?私はまだなんだけど…」
「いいえ、食べてないです」
「じゃあ、一緒に食べましょ!すぐ準備するから、テレビでも見て待ってて」
アジュガはそういってテレビのスイッチをいれた。テレビがあるのか、とぼんやりハナは思う。
【王宮は、砂漠地帯に出没するモンゴリアンデスワームに警戒する事とともに、キュグニーへの出入りは徒歩では無く、サンドドラゴンで砂漠地帯を渡るか、もしくはプテラノドンの利用するようにと注意しています。】
「プテラノドン?」
「まぁ…モンゴリアンデスワームにも困ったものね。うちもそろそろ、プテラノドン飼おうかしら」
「あの、プテラノドン?プテラノドンっていいました?」
「ふふ、冗談よ。飼うには少し、高級過ぎるものね」
「ところでニッポンにもプテラノドンはいるの?」と乙女のように微笑むアジュガを見て、ハナは自分がやってきた場所は都市伝説のような範囲に収まるものではないのかもしれない、と思った。
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