千里の道
ぽち
幼少編
カズラフジ
1-1.死の狭間
放課後、普段なら
次の文字へ取りかかろうとした所で、クラスメイトの女子に声をかけられる。
「ねぇ、
振り向くと、彼女は自分の体を抱き締めるようにしてみせた。
「安藤さんがね、千晴ちゃんは臨死体験した事あるって言ってたんだけど、本当?」
安藤さんというのは、幼稚園から高校まで同じだった千晴の幼馴染だ。千晴はこの気の置けない友人を有難く、かけがえのないものと思っていたが、
『また人の事べらべら喋って……。本当にあいつ、しょうもないな』
胸中で毒吐き、千晴はへらりと笑ってみせる。
「あー、昔の事だしあんまり覚えてないんだよね」
「ねぇ、どんなだったの?」
そう問われ、少しばかり
初めの内は真面目に答えていたが、大体が想像したものと違ったからか、興味を失ったようにテキトーに
「うーん、多分意識が
「教えて! 教えて!」
クラスメイトの女子は目を輝かせて食い下がってきた。
『怖がるふりして本当は興味深々じゃん。これは話すまで開放してくれなさそうだな……』
彼女にばれないよう、小さく溜息を吐く。
「……何か川があった。向こう岸から誰かが手招きしててさ。後からお母さんに聞いたら、その人死んだばあちゃんの特徴そのまんまでさ……」
わざと声を低音に落とすと、口からでまかせを吐く。それでも彼女はその作り話をお気に召したようで、きゃあきゃあと声を上げた。
しかしすぐさま、後ろから別の声が割り込んでくる。
「お前のばあちゃん、まだ生きてるだろ! 去年の文化祭で見たぞ!」
「あ、ばれた?」
去年も同じクラスだった、男子の佐々木だ。
「テキトーな事言ってんなよ、この罰当たり!」
「うっさい」
千晴が彼の尻めがけて蹴りを食らわすと、相手は大仰に痛がった振りをして、千晴の事を暴力女と
「お前、そんなんじゃ嫁に行けねーからな!」
「余計なお世話。あんたも
「俺は彼女とラブラブだから心配ねーし!」
「
「お前、いい奴か!」
そんな風に佐々木とじゃれ合っていると、クラスカースト上位の女子達から
「悪いけど、本当にあんま覚えてないんだよね。三歳の頃の話だし、もう記憶も
「そっか、残念」
そう言うと、彼女は千晴の目の前にあった緑色のマジックを持ち、自分の友人グループの方へと戻っていった。
「そっかー、もうあんま覚えてないのかー。小学生の頃は、私はいつ死ぬんだろう? どうやって死ぬんだろう? みたいな事ばっか言ってたのに」
そんな
「あんた、そのバランスだと全部文字入りきらないんじゃない?」
「何とか詰め込むから平気、平気! ……ところで、クラスメイトに昔の事言わないでくれないかな、"安藤さん"?」
「え、言ったらまずかった?」
「変人だと思われるでしょ」
「え、変人だと思ってなかったの?」
「……」
千晴は、自分では学校で上手く人付き合いが出来ているという自信があった。男子女子両方に友人がおり、クラス内でもリーダー的グループとおとなしいグループ、どちらとも上手くやれている。たまに遅刻したりはするが、生徒指導の先生とも仲良くやっていて、ある程度大目に見てもらった事が何度かあった。部活はやっていないが、学校行事にはこうやって積極的に参加し、高校生活を大いに満喫しようともしている。
『こんな模範的な、青春謳歌中の高校生だっていうのに』
納得いかない、と顔を顰めていると、幼馴染がこちらを覗き込んできた。
「まぁ、確かに最近は大人しいよね。最初に会った時はもっと不思議ちゃんだと思ってたもん」
「聞き捨てならないね」
「何がよ。小学生の時に将来の夢について考えてこいって宿題が出た時、自分が大人になるまで生きてる想像が出来ないから出来ないって、先生困らせてた奴が」
「……忘れなさい、そんな昔の事」
途端、旗色が悪くなり、彼女から目を
「千晴のおばさん、相当心配してたんだからね? "あの事故"があってから、千晴は"あちら側"の話ばかりするんだって。たまにふっといなくなっちゃうんじゃないかって不安だって」
「……もうそんな事話してないよ」
「まともな人間に育ってくれてなによりだよ」
そう言うと幼馴染は目頭を押さえ、感極まった風を装った。千晴の眉間に、また
本当を言うと、千晴は今でもその時の事を覚えていた。ふとした時に、死について考えてしまう。
人は死んだらどこに行くのか。あの時見た"あれ"が何だったのか。
口には出さないが、ずっと頭の中にあった。ただそれを口に出すと、親や友人達には悲しんだり、哀れんだりされた。千晴は恐ろしい目にあったから、心に傷を負ってしまったのだと言われてしまう。
でも、千晴はただそれに興味があったのだ。死の
忘れてしまわないように、何度も思い返してしまうのだ。
◇◆◇◆◇◆◇◆
その日は家族で川にキャンプに来ていた。当時の千晴は何に対しても好奇心旺盛で、目についた物すべてが新鮮で、手に取って、近くで
そして危機感は、まだ十分に備わっていなかったのだ。
「ほら、千晴。お魚さんだよ」
母の指差す方を見ると、澄んだ川の中に
「もう、石ならお家の近くにもあるでしょうに……」
「もぉ~、どこやったのよ……。千晴、ちょっとここで待っててね」
母の言葉に頷くと、今度は五百円玉程の大きさの石ころを鑑定し始めた。母は数十メートル先に置かれたテントに向かって歩いていき、父と一緒になってあれやこれやと言い合っている。
その時、川からぽちゃんっと水が
千晴は先程の音の正体を掴もうと、眉間に皺を寄せ、目を細める。すると、川底にきらりと薄紫色に光る物が見えた。立ち上がり、身を乗り出してさらにそれを
『なんだろう……』
足がむずむずした。あの正体が一体何なのか、確かめたくて仕方がない。
もっと近くで見てみたい。触ってみたい。
まるで母が大切に宝石箱にしまっている宝石のようだった。母は千晴が雑に扱うのを嫌って、あまりじっくりとそれらを見せてくれた事はなかったが。今、川底に沈んでいるのは、それよりもずっと大きい物のように見える。
試しに、その光に向かって右手を伸ばしてみた。光にはまだまだ遠い。
さらに手を伸ばしてみる。届かない。
さらに手を伸ばしてみる。
すると、左手に握り込んでいたお宝が、手の間からぽろぽろと
その瞬間、視界が反転した。
冷たい水が一気に全身を濡らし、息が詰まる。千晴の耳に、気付いた母が絶叫する声が聞こえたが、川に流されてあっという間に遠ざかっていった。
川底が見える位なのだから深さはそれ程でもないと思われたが、いくら立ち上がろうとしても流れに足を取られ、体を起こす事が出来なかった。小さな体が、ぐるんぐるんと回転させられる。顔を上げて息を吸おうとしたが、どちらが上なのかも分からず、誤って水を何度も飲んだ。冷たい水が、胸を内側から圧迫する。
「苦しい! 助けてお母さん!!」
叫んでもその声は泡になり、さらに苦しくなるだけだった。あんなに川は澄んでいたのに、目の前がどんどん暗くなっていく。
『苦しい! 苦しい!! 苦しい!!!』
視界が黒に染まり、意識が遠のくまで、本当にあっという間だった。
********
真っ暗な場所だった。
指一本動かせない。
いや、指がそこに存在するのかが分からなかった。腕も、足も、頭も、そこにあるのかが分からない。
ただ、ぼんやりとした意識だけがある。
周りの景色も、まるで薄目を開けているようにぼんやりだった。見回すと、暗闇の中に色とりどりの光が散っている。
緑、黄色、赤、オレンジ。
様々な色の蛍が、暗闇の中でゆらゆらと揺れている。その光は左右に揺れながら、上へ上へと登っていった。
行き先を見やると、遥か彼方に無数の光が集まって
千晴はその光の行き先を目で追おうとしたが、どうしてかそれは叶わなかった。意識を集中してみるが、どうしてもその先に何があるのか、どこに繋がっているのかが分からない。
地面の感覚がない。
右も左も上下さえも
ゆっくりとその誰かは、こちらに近付いて来る。すぐ傍で、こちらを見下ろしている。
彼はしばらくこちらを見つめていたかと思うと、ふいに口を開いてこう言った。
「死ぬのは怖いかい?」
すぐに返事をしたかったが、声が出なかった。まるで声の出し方を忘れてしまったようだ。
『怖い。
ここは暗くて怖い。
明るい場所に行きたい。
お母さんの所に戻りたい』
頭の中でそう言った。彼はこちらの言いたい事が分かったようだった。にんまり笑うと、彼は千晴を抱きかかえた。
彼の掌の中で、ただゆらゆらと揺れていた。まるで水の中に浮かんでいるような感覚で、その動きが、先程の蛍の光に似ているな、と頭の
しばらく歩くと、彼はゆっくりとその場に千晴を下ろした。
「もう少しだけ、そこで待っておいで」
彼の気配が、ゆっくりと離れていく。
『行かないで。
一人にしないで』
叫ぼうとしても、やはり声は出なかった。
すると、上から真っ直ぐに大きな腕が下りてきた。真っ暗なはずなのに、
大きな腕は千晴をすっぽりと掌で
眼下の光の川を見下ろし、あっちには行かなくていいんだろうか、と心配になったが、巨大な腕は真っ直ぐに千晴を持ち上げ続ける。
頭上に意識をやると、明るい光が見えた。その光に向かって、ぐんぐんと進んでいく。
光はあまりに
次の瞬間、胸に強い衝撃を受けた。
「千晴……!!」
母のぐしゃぐしゃな泣き顔が、目に飛び込んできた。
水を全て吐き出すと、苦しくて恐ろしくて、千晴はひたすら泣き叫んだ。母と、
そうして三人は同じように、いつまでも、いつまでも泣いていた。
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