千里の道

ぽち

幼少編

カズラフジ

1-1.死の狭間

 さらな段ボールの上に、太く大きく、一線を引く。そのまま引き伸ばし、時には曲がりくねり、止まって、そして次の文字へ。

 放課後、普段なら帰路きろについたり部活に行ったりと散り散りになる生徒達は油性マジックやペンキの匂いが香る教室に残っていた。文化祭の準備のため、段ボールの切れ端を立派な看板に仕上げるべく奮闘しているところだった。

 次の文字へ取りかかろうとした所で、クラスメイトの女子に声をかけられる。


「ねぇ、千晴ちはるちゃんって臨死体験したって本当?」


 振り向くと、彼女は自分の体を抱き締めるようにしてみせた。


「安藤さんがね、千晴ちゃんは臨死体験した事あるって言ってたんだけど、本当?」


 安藤さんというのは、幼稚園から高校まで同じだった千晴の幼馴染だ。千晴はこの気の置けない友人を有難く、かけがえのないものと思っていたが、如何いかんせんその幼馴染には決定的な欠点があった。


『また人の事べらべら喋って……。本当にあいつ、しょうもないな』


 胸中で毒吐き、千晴はへらりと笑ってみせる。


「あー、昔の事だしあんまり覚えてないんだよね」

「ねぇ、どんなだったの?」


 そう問われ、少しばかり眉間みけんに力を込めた。この問いは小学生の頃から何度も繰り返されてきたものなので、正直答えるのが面倒臭かったのだ。

 初めの内は真面目に答えていたが、大体が想像したものと違ったからか、興味を失ったようにテキトーに相槌あいづちを返されるか、珍しいものでも見たような好奇の目を向けられるか、嘘吐き扱いされるかのどれかだった。


「うーん、多分意識が朦朧もうろうとしてて、変な夢見てただけだと思うしなぁ……」

「教えて! 教えて!」


 クラスメイトの女子は目を輝かせて食い下がってきた。


『怖がるふりして本当は興味深々じゃん。これは話すまで開放してくれなさそうだな……』


 彼女にばれないよう、小さく溜息を吐く。


「……何か川があった。向こう岸から誰かが手招きしててさ。後からお母さんに聞いたら、その人死んだばあちゃんの特徴そのまんまでさ……」


 わざと声を低音に落とすと、口からでまかせを吐く。それでも彼女はその作り話をお気に召したようで、きゃあきゃあと声を上げた。

 しかしすぐさま、後ろから別の声が割り込んでくる。


「お前のばあちゃん、まだ生きてるだろ! 去年の文化祭で見たぞ!」

「あ、ばれた?」


 去年も同じクラスだった、男子の佐々木だ。


「テキトーな事言ってんなよ、この罰当たり!」

「うっさい」


 千晴が彼の尻めがけて蹴りを食らわすと、相手は大仰に痛がった振りをして、千晴の事を暴力女とわめき立てた。


「お前、そんなんじゃ嫁に行けねーからな!」

「余計なお世話。あんたも婿むこに行けないから」

「俺は彼女とラブラブだから心配ねーし!」

惚気のろけか。結婚式には絶対呼んでよ!」

「お前、いい奴か!」


 そんな風に佐々木とじゃれ合っていると、クラスカースト上位の女子達からにらみを飛ばされる。どうやら、少しはしゃぎ過ぎたらしい。不穏な空気を感じ取り、作業に戻るべく目の前にいる女子に向き直った。


「悪いけど、本当にあんま覚えてないんだよね。三歳の頃の話だし、もう記憶も曖昧あいまいでさ」

「そっか、残念」


 そう言うと、彼女は千晴の目の前にあった緑色のマジックを持ち、自分の友人グループの方へと戻っていった。


「そっかー、もうあんま覚えてないのかー。小学生の頃は、私はいつ死ぬんだろう? どうやって死ぬんだろう? みたいな事ばっか言ってたのに」


 そんなとぼけた声と一緒に、追加のマジックペンを持った幼馴染が戻ってくる。彼女は足元にある看板に目を向けると、眉をしかめた。


「あんた、そのバランスだと全部文字入りきらないんじゃない?」

「何とか詰め込むから平気、平気! ……ところで、クラスメイトに昔の事言わないでくれないかな、"安藤さん"?」

「え、言ったらまずかった?」

「変人だと思われるでしょ」

「え、変人だと思ってなかったの?」

「……」


 千晴は、自分では学校で上手く人付き合いが出来ているという自信があった。男子女子両方に友人がおり、クラス内でもリーダー的グループとおとなしいグループ、どちらとも上手くやれている。たまに遅刻したりはするが、生徒指導の先生とも仲良くやっていて、ある程度大目に見てもらった事が何度かあった。部活はやっていないが、学校行事にはこうやって積極的に参加し、高校生活を大いに満喫しようともしている。


『こんな模範的な、青春謳歌中の高校生だっていうのに』


 納得いかない、と顔を顰めていると、幼馴染がこちらを覗き込んできた。


「まぁ、確かに最近は大人しいよね。最初に会った時はもっと不思議ちゃんだと思ってたもん」

「聞き捨てならないね」

「何がよ。小学生の時に将来の夢について考えてこいって宿題が出た時、自分が大人になるまで生きてる想像が出来ないから出来ないって、先生困らせてた奴が」

「……忘れなさい、そんな昔の事」


 途端、旗色が悪くなり、彼女から目をらす。


「千晴のおばさん、相当心配してたんだからね? "あの事故"があってから、千晴は"あちら側"の話ばかりするんだって。たまにふっといなくなっちゃうんじゃないかって不安だって」

「……もうそんな事話してないよ」

「まともな人間に育ってくれてなによりだよ」


 そう言うと幼馴染は目頭を押さえ、感極まった風を装った。千晴の眉間に、またしわが寄る。お前に育てられた覚えはない。


 本当を言うと、千晴は今でもその時の事を覚えていた。ふとした時に、死について考えてしまう。

 人は死んだらどこに行くのか。あの時見た"あれ"が何だったのか。

 口には出さないが、ずっと頭の中にあった。ただそれを口に出すと、親や友人達には悲しんだり、哀れんだりされた。千晴は恐ろしい目にあったから、心に傷を負ってしまったのだと言われてしまう。

 でも、千晴はただそれに興味があったのだ。死のふちのぞいたあの世界が、本当に死後の世界だったのか。あそこであった事は本当にただの夢だったのか。ずっとそれを考えてしまう。

 忘れてしまわないように、何度も思い返してしまうのだ。





 ◇◆◇◆◇◆◇◆





 千晴ちはるは三歳の時、一度死にかけた事がある。

 その日は家族で川にキャンプに来ていた。当時の千晴は何に対しても好奇心旺盛で、目についた物すべてが新鮮で、手に取って、近くでながめて、匂いを嗅いで、時には口に含んで物事を判断したがった。

 そして危機感は、まだ十分に備わっていなかったのだ。


「ほら、千晴。お魚さんだよ」


 母の指差す方を見ると、澄んだ川の中にゆがんだ魚影が見えた。川の急な流れを受け流すように、ゆらゆらと尾を揺らしている。魚の色は澄んだ川底に沈む石のように黒く、千晴はすぐにそれから興味をがれてしまった。そんな事よりも、足元に転がる丸っこくてすべすべした、色とりどりの石の方がずっとすばらしい宝物に見えたのだ。足元に転がる石達からお気に入りの物を持ち帰ろうと、千晴は宝探しを始めてしまう。


「もう、石ならお家の近くにもあるでしょうに……」


 あきれた母の声を無視して一心不乱に宝探しをしていると、父がテントから母を呼ぶ声が聞こえた。どうやら何か探し物をしているらしい。母はあれこれと父の探し物がありそうな場所を指示するが、父は一向に見つけられないようだった。そうして、しきりに母を呼ぶ。


「もぉ~、どこやったのよ……。千晴、ちょっとここで待っててね」


 母の言葉に頷くと、今度は五百円玉程の大きさの石ころを鑑定し始めた。母は数十メートル先に置かれたテントに向かって歩いていき、父と一緒になってあれやこれやと言い合っている。

 その時、川からぽちゃんっと水がねる音が聞こえた。何事かと音のした方へ顔を向けるが、先程と何ら変わった所は見つからない。ただゆらゆらと、川面が揺れているだけだった。

 千晴は先程の音の正体を掴もうと、眉間に皺を寄せ、目を細める。すると、川底にきらりと薄紫色に光る物が見えた。立ち上がり、身を乗り出してさらにそれを凝視ぎょうしする。


『なんだろう……』


 足がむずむずした。あの正体が一体何なのか、確かめたくて仕方がない。

 もっと近くで見てみたい。触ってみたい。

 まるで母が大切に宝石箱にしまっている宝石のようだった。母は千晴が雑に扱うのを嫌って、あまりじっくりとそれらを見せてくれた事はなかったが。今、川底に沈んでいるのは、それよりもずっと大きい物のように見える。

 試しに、その光に向かって右手を伸ばしてみた。光にはまだまだ遠い。

 さらに手を伸ばしてみる。届かない。

 さらに手を伸ばしてみる。

 すると、左手に握り込んでいたお宝が、手の間からぽろぽろとこぼれ落ちて川面に吸い込まれていった。慌ててお宝を追って左手を伸ばす。


 その瞬間、視界が反転した。


 冷たい水が一気に全身を濡らし、息が詰まる。千晴の耳に、気付いた母が絶叫する声が聞こえたが、川に流されてあっという間に遠ざかっていった。

 川底が見える位なのだから深さはそれ程でもないと思われたが、いくら立ち上がろうとしても流れに足を取られ、体を起こす事が出来なかった。小さな体が、ぐるんぐるんと回転させられる。顔を上げて息を吸おうとしたが、どちらが上なのかも分からず、誤って水を何度も飲んだ。冷たい水が、胸を内側から圧迫する。


「苦しい! 助けてお母さん!!」


 叫んでもその声は泡になり、さらに苦しくなるだけだった。あんなに川は澄んでいたのに、目の前がどんどん暗くなっていく。


『苦しい! 苦しい!! 苦しい!!!』


 視界が黒に染まり、意識が遠のくまで、本当にあっという間だった。





 ********





 真っ暗な場所だった。

 指一本動かせない。

 いや、指がそこに存在するのかが分からなかった。腕も、足も、頭も、そこにあるのかが分からない。

 ただ、ぼんやりとした意識だけがある。

 周りの景色も、まるで薄目を開けているようにぼんやりだった。見回すと、暗闇の中に色とりどりの光が散っている。

 緑、黄色、赤、オレンジ。

 様々な色の蛍が、暗闇の中でゆらゆらと揺れている。その光は左右に揺れながら、上へ上へと登っていった。

 行き先を見やると、遥か彼方に無数の光が集まってまたたいていた。まるで夜空を渡る天の川のように、その光の群れはどれも同じ方角に向かって流れている。

 千晴はその光の行き先を目で追おうとしたが、どうしてかそれは叶わなかった。意識を集中してみるが、どうしてもその先に何があるのか、どこに繋がっているのかが分からない。


 地面の感覚がない。

 右も左も上下さえもさだかでない世界で、ふいに誰かの気配がした。

 ゆっくりとその誰かは、こちらに近付いて来る。すぐ傍で、こちらを見下ろしている。

 彼はしばらくこちらを見つめていたかと思うと、ふいに口を開いてこう言った。


「死ぬのは怖いかい?」


 すぐに返事をしたかったが、声が出なかった。まるで声の出し方を忘れてしまったようだ。


『怖い。

 ここは暗くて怖い。

 明るい場所に行きたい。

 お母さんの所に戻りたい』


 頭の中でそう言った。彼はこちらの言いたい事が分かったようだった。にんまり笑うと、彼は千晴を抱きかかえた。

 彼の掌の中で、ただゆらゆらと揺れていた。まるで水の中に浮かんでいるような感覚で、その動きが、先程の蛍の光に似ているな、と頭のすみで思う。


 しばらく歩くと、彼はゆっくりとその場に千晴を下ろした。


「もう少しだけ、そこで待っておいで」


 彼の気配が、ゆっくりと離れていく。


『行かないで。

 一人にしないで』


 叫ぼうとしても、やはり声は出なかった。

 すると、上から真っ直ぐに大きな腕が下りてきた。真っ暗なはずなのに、輪郭りんかくなど見えやしないのに、千晴はそれを腕だと思った。

 大きな腕は千晴をすっぽりと掌でおおってしまうと、上へと持ち上げていく。先程の光の川さえも通り過ぎ、さらに上へとのぼっていった。

 眼下の光の川を見下ろし、あっちには行かなくていいんだろうか、と心配になったが、巨大な腕は真っ直ぐに千晴を持ち上げ続ける。

 頭上に意識をやると、明るい光が見えた。その光に向かって、ぐんぐんと進んでいく。

 光はあまりにまぶしくて目がくらんだが、まぶたを閉じる事は出来なかった。目の前に、弾けるような白い光が広がっていく。


 次の瞬間、胸に強い衝撃を受けた。






「千晴……!!」


 母のぐしゃぐしゃな泣き顔が、目に飛び込んできた。のどり上がってくる何かを感じて体をよじると、肺に溜まった水を吐き出した。母はひたすら、千晴の小さな背中を叩き続けた。胸と背中が痛かった。

 水を全て吐き出すと、苦しくて恐ろしくて、千晴はひたすら泣き叫んだ。母と、かたわらにいた父が、千晴を強く抱きしめる。

 そうして三人は同じように、いつまでも、いつまでも泣いていた。

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