風の旋律

上庄主馬

【1】七つの丘の街/偽りの解放(1)

 遠く、風が啼いた。その音だけが鼓膜を揺する。

 闘技場全体を包む歓声も怒号も、いっさい耳に入らない。彼女は、髪を風に嬲らせたまま、呆然とそこに立ちつくしていた。

「シラクサのアンフィッサ」

 勝者の名を告げる声で、ふと我に返る。それが自分の名であることに気づくのに、幾ばくかの時間を要した。彼女は、足元に転がる遺体を見下ろす。浅黒い肌の、異国の男。剣奴試合前の名乗り合いで、ザムの出身だと叫んだ男。アンフィッサよりも二十歳は年長であろうその男は、無惨にも血だまりの中に倒れ伏している。

 彼は、彼女が殺した。剣奴、と呼ばれる闘い続けることを宿命づけられたものたちの、命を賭けた試合の中で。

 殺さなければ殺される。

 男も女も、子供も年寄りも。そんなことは関係ない。国が破れ、故郷を失い、奴隷となった今は、闘って勝ち残ることだけが唯一残された未来みちなのだ。

 そう割り切っているつもりだった。

(今ぶったぎったヤツが、ルオマ人だったら)

 アンフィッサは、剣の血を拭った。鉄の匂いが、体に染みついている。男の返り血で染まった短衣を意味もなく払い、彼女は遺体に背を向けた。




「おみごと」

 控え室に戻った彼女を、大柄な男が迎える。名を、ハミルカルと言った。もとは傭兵を生業としていた、と聞いている。六年前、ルオマとヘラスが衝突した”シティリヤ争乱”の”アクラガスの闘い”で捕らえられ、ルオマの奴隷となったのだ。同じ奴隷主に買われたよしみか、何くれとなく彼女の世話をやいてくれる。彼曰く、「故郷にゃおまえと同じ年頃の息子を残してきているんだよ」とのことだった。彼の故郷は、シティリヤではない。シティリヤから更に南、大海を隔てた向こうに栄える海洋都市だった。

「カルタギア、だっけか」

「あ?」

 彼女に手拭いを投げてよこしながら、ハミルカルは頓狂な声を上げた。アンフィッサは石造りの長椅子に腰を下ろし、受け止めた布で汗を拭う。ひやりとした石の感触が、ほてった身体に心地よい。

「おっさんの故郷。たしか、カルタギアって言ってたろ?」

「ああ。そんなことも言ったっけか」

 彼はうそぶいた。黒い瞳に、影が走る。ここでは故郷の話題は禁物であった。奴隷として捕らえられた以上、二度とそこに戻ることはない。未練は早いうちに捨てた方がいい。みな、それは暗黙のうちに了解している。

 とくに、アンフィッサは。

 彼女の故郷は、もうない。六年前の戦役で地上から消滅した。麗しの都、シティリヤの華、と詠われたアクラガスを守るため出兵したシラクサを、獰猛なルオマは許さなかった。シラクサは徹底的に破壊され、あとには荒野だけが残った。住民は殺されるか、奴隷としてルオマに連れ去られた。事実上シラクサは壊滅したのだ。

 だから。彼女には、帰る場所はない。

「いま、ルオマとやり合えるのって、あそこくらいしかないだろ。他はみんな、潰されちまったし。ここらでどかんとやってほしいよな」

「急に何を言い出すんだか」

 ハミルカルは苦笑した。太い青緑石の腕輪が絡んだ右腕を持ち上げ、ぎこちなく頭を掻いた。

「らしくないぞ。感傷に浸るなんざ」

「ひたってねーよ。別に」

 唇を尖らせるアンフィッサ。ハミルカルは、父親のような笑みを浮かべる。

「それにな。カルタギアは、商業国家だ。自分とこの軍隊も持ってやしない。そんな国がルオマなんぞと闘おうってのが無理なんだよ」

 半ば、自分に言い聞かせるような台詞だった。彼はアンフィッサの目をのぞき込み、短い息をつく。

 彼女の青い瞳に、故郷の海を思い出したのだろう。

 カルタギア。またの名を、カルト・ハダシュト。

 南大陸の華。

 紫の楽土。

 海の女王。

 あらゆる賛辞で称えられる都。その昔、国を追われた王女が僅かばかりの供を引き連れ、その地に渡った。彼女らは血の滲むような思いをして、荒れ地に一つの都市を築いたのだ。それが、カルタギア。チュルスの言葉で、”新しい街”を意味している。

 五百年の長きに渡り、中つ海の制海権を掌握していたが、ここ百年余で台頭してきたルオマに地位を脅かされつつある。詩人の言葉を借りれば、


「ルオマがこれから輝きを増す月であれば、カルタギアは、今まさに沈まんとする雄大な太陽であった」


 カルタギアの斜陽は近い。故に、周辺国家はこぞってルオマに臣従する。

 ヘラスの勇者、と称えられたシラクサが滅亡した今、カルタギアを守る盾はない。

 それはわかっている。わかってはいるが、アンフィッサのようにカルタギアに夢を託している者は多い。いつか、カルタギアがルオマを倒してくれる。儚い願いは、未だ成就の兆しすら見えない。

「ルオマとは、今んとこ一勝一敗だからな。次にやるときゃ、どっちかが消えるまで叩き合うだろうよ」

 そうかもしれない。アンフィッサは、目を伏せる。

「でも」

 ハミルカルは、小声で彼女に囁いた。

「俺達にできることだってあるかもしれないぜ」

「――? おっさん?」

 ハミルカルはそれ以上何も言わなかった。



 アンフィッサが彼の言葉を理解するのは翌日のこととなる。

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