願い
狐塚あやめ
願いが叶うならば
気が付くと
眼前にあるのは見慣れた街並み。苑の住む街だった。
整然と並ぶ街路樹は青々と輝き、まだ新しい一戸建てが軒を連ねている。
慣れ親しんだ光景。ただいつもと違うのは、周りを見渡しても人の姿はない。昔に見せてもらったジオラマの中へとひとり迷い込んでしまったのかと錯覚する。
がらんとした箱庭に苑はたったひとり、ぽつねんと佇む。でもこんな感覚は最近めずらしくない。むしろ最近では望んでここに来てしまっているのかとも思える。足元に広がる空を見下ろしながら、苑はふとそんなことを考えた。
地面は見当たらず、くすぐったい浮遊感に不安を覚える。サーカスでよく見る綱渡りもこんな気持ちなのだろうか。はっきりと違うのはここは現実ではないということ。
強く吹き付ける風に茶髪がかった長い髪が揺れる。ここはどことなく居心地がわるい。逃れるように苑は歩を進める。しかしその一歩目は立っていたはずの空間を踏み抜いた。
がくんと落ちる膝に身体がよろめき、そのまま空へと落ちていく――――
***
「ひゃうっ」
苑は椅子をガタガタと鳴らし机から飛び起きた。ぼんやりする意識。いつの間にか眠ってしまっていたようだ。落ち着かせるように深く息を吐く。
あぁ、またダメだった。あの夢を見るときはいつもこうなる。なぜだか先に進むことはできずに、ただ落ちていく。
ここしばらく同じ夢を見続けては同じことの繰り返し。逃げることすら叶わず、空へと投げ出される。
汗ばんだ身体の熱を逃がしながら、身嗜み整えて椅子へと座りなおす。
ひと息ついたところで、遠慮がちな若い女性の声が聞こえた。
「あのぅ、厳島さん。いちおう授業中なんだけど」
教壇に立つ担任の女性教員が困り顔で苑を見ていた。ついでに周りのクラスメイトの視線も痛いほど浴びている。
「お、お騒がせしました……」
苑は顔が熱くなるのを感じながらぺこりと頭を下げる。
「いいのよ。先生の授業は退屈だもんね。で、でも次からは気を付けてほしいかなって」
「はい。すみません……」
決して先生の授業が退屈というわけではないのだけど、この春の陽気は心地よすぎるのです。
午後になり昼休みの時間。背伸びをする苑のもとへ女子生徒がやってきた。女子にしては背が高く、やや長めの髪をサイドに纏めている。
「もしかしてまた同じ夢を見てたの?」近くの机を寄せて、その上に弁当箱を広げながら
「ええ、そうなんです」
「授業中の居眠りでも見るなんてよっぽどの理由があるんじゃないの」
苑はしばし思案顔をするも、首を横に振った。
「心当たりはないのですけど、どうなんでしょう」
「なんの話?」
頭を悩ましている苑へ近寄ってくる声があった。ショートヘアが似合う快活そうな女子生徒が苑の元へと歩み寄る。
「阿佐美さん。こちらにどうぞ」
「ありがと」にこやかに礼を言い、
結奈はペットボトルの蓋を開けながら言った。
「苑が見る夢の話だよ」
「なになに、どんな夢?」
興味津々といった様子の真尋に、苑は結奈にも話した夢の内容を説明した。
「空に落ちるのかー。不思議な話だね」
真尋はサンドイッチをつまみながら言った。
「そりゃ夢だから」
「そうじゃなくて、空を飛ぶとかなら誰でもする想像だけどさ、落ちるって」
真尋の言葉を受けて苑は頷いた。
「私もどうしてあのような夢を続けて見るのか不思議で。空を飛ぶことは、あの、考えたことはあるのですけど」
同意を示すものの、いささかの羞恥心によってか苑の言葉にちからはなかった。
そんな様子を見て真尋は極めて平坦な口調で言葉を添える。
「べつに恥ずかしがることないって。子供のころに誰もが通る道だよ」
「私はそんなことなかったよ」結奈は真顔で言った。
苑と真尋は視線を交わすも言葉はない。やがて真尋が呆れた口調で言う。
「結奈って昔から可愛げがなかったんだね」
「なによ、自分には可愛げがあるとでも?」
「おや、その発言は苑も含んでない?」
「阿佐美にだけ言った。苑は誰が見てもかわいいでしょ」
「それは間違いないけどさ」
「あの、おふたりとも、それぐらいで……」
苑は頬を染めながらうつむき加減になる。
ふたりは恥ずかしがる苑を満足げにしばし眺め、結奈が話を戻した。
「一般的には空を飛ぶ夢っていうのは、自由に動けることから日常生活が順調で良い状態ってことらしいけど」
「じゃあ落ちちゃうってことは良くない状態ってことなのかな」
「どうなの、苑?」
苑は首を横に振る。考えてみても思い当たる出来事はとくになかった。
「どちらかといえば……」言いかけて口を閉ざす。
おふたりと友達になれてから楽しいことばかりです。なんて恥ずかしいセリフはとても口には出せなかった。
苑は口ごもるが、そわそわしているのが伝わったのか真尋は気にせずに話を進める。
「その様子じゃ問題はなさそうだね。だったら何が原因なんだろうね」
「そもそも落ちるのが悪いこととは限らないんじゃない? 何度も見るぐらいなんだから潜在的に望んでいることなんだとおもうけど」
「うーん。でも落ちるって言葉はあんまり良いイメージないよね。とくに
「その点に関しては苑は問題ないでしょう。少なくともこの中で一番勉強できるんだし」
「いやいや、だからって落ちる夢を見てもオッケーとはならないでしょ」
結奈と真尋は当人を置いてきぼりして議論を白熱させる。
苑はすっかり蚊帳の外のようになっているが、そんな光景を眺めて自然と笑みがこぼれる。
ふたりとは知り合って間も無い間柄だが、この他愛のないやり取りには心地よさを覚えていた。
それから数日が経ったある日。苑は担任の女性教員からとある生徒を紹介された。
担任にも同じ夢を見ていることを話していたことから、その生徒が助けになるかもと気を回してくれたのだった。
放課後、苑は昇降口前の広場にいた。待ち合わせには早いが、性分からか待つことは苦じゃない。
部活動に励む声。通り過ぎる自転車の音。帰路につくクラスメイトとの会話。時折聞こえる上空を飛ぶ飛行機の音。
暖かい日差しは傾き始め、肌に当たる冷たい空気に思わず身体が震える。
そうして昇降口の方をぼうっと眺めていたところに背後から声がかかった。
「厳島さん」
苑が声のする方へ振り返ると制服であるブレザーを着た男子がいた。朗らかな表情に優しい眼差し、同い年とは思えない落ち着いた雰囲気を感じる。
気になるのは、彼は校内ではなく校門側からやってきた。まだ下校時間からそんなに経っていないのにどうして外から。制服姿なのだから着替えに帰ったわけでもなさそうだった。
苑はひとまず挨拶を済ませようと、彼の方へ向き直り丁寧に頭を下げた。
「初めまして。厳島苑と申します」
「ご丁寧にどうも。
苑とは対照的に晴臣は簡素な挨拶を返すが、嫌味っぽさはなく爽やかさを感じるほど丸みのある口調だった。
粗野で粗暴なクラスメイトとは違うあまり接したことのないタイプ。苑は緊張気味に尋ねる。
「古都島さん、紹介された身で言うのはおこがましいのですが、あの……」
「とりあえず場所を移そうか。暖かくなってきたとはいえ日が落ちると冷えるからね」
そう言って晴臣は「こっちだよ」と、苑を手招き歩きだす。
苑が慌てて追ってみるとすぐに追いついたので、斜め後ろについて歩く。
昇降口を通り抜け階段を上がって三階へ。向かった先は北側の端っこにある生徒会室だった。
生徒会室とは名ばかりで倉庫のような場所だと聞いている。普段から生徒が立ち寄ることはなく、生徒会の役員も不必要に訪れることはない。
晴臣はためらわずにドアを開けた。
「鍵、かかっていないのですね」
「普段はかかってるよ。先生に開けといてもらったんだ」
中に入るとと埃っぽい空気とインクの匂いが鼻腔をくすぐる。適度に換気はしているのだろうけど、人が居ない空間というのはそれだけ濁りやすい。
室内を見るとひどく散らかっていた。中央に寄せた机には行事に使われたであろう道具類が散乱していて、見ているだけで気が滅入りそうだった。
壁には年間行事の表が貼られていて、カラーペンで注釈が書き込まれている。その下の棚には備品がしまわれていたり、授業で制作したであろう彫刻作品が転がしてあった。
「古都島さんは生徒会の方ではないんですか?」
「
「忙しい……?」
学生である彼が学校に来れないほどのこと。まさかと思うけどすでに働いているとかなのだろうか。
晴臣はふたり分のパイプ椅子を引っ張り出し、片方を苑の側へ置いた。
「ありがとうございます」
苑は椅子へと腰を下ろし、鞄を机の上に丁寧にのせる。
晴臣も向かい合うように椅子へ座った。
「あの、古都島さんは普段はなにをされているのですか?」
想定してなかった質問に晴臣は一瞬呆けてしまう。
「これはまたずいぶんとおおざっぱな質問だね」
「すみません……忙しいと言っていたのでお仕事かなにかしていらっしゃるのかと」
「そうだね、そんなところだよ。家業を継ぐための手伝いで、勤めているわけじゃないけど」
「家業ですか。どんなお仕事か聞いても?」
「アドバイザーみたいなものだよ。陳腐な言い方をすれば人助けさ」
苑はいまいち理解に至らない感じで首をかしげる。
「以前に先生から依頼を受けたことがあるんだ。それで困っている厳島さんのことを
「でも私は相談するような困りごとは……」
「最近見続けてる夢っていうのは? 枕を濡らすことはないとしても、安眠できてるわけじゃないだろう」
そう言われては頷くしかない。あの夢のあと、落ち着かない気分になるのは間違いないのだから。
「それはそうなのですけど……あの、こんなこと言うのは失礼なのですが、それをお話ししてどうにかなるものなんでしょうか」
あれは私の夢の中の出来事。解決できるのは自分以外の誰にもできないと、そう思っていた。
不安げな表情をする苑とは対照的に、晴臣はやわらかい笑みを浮かべたまま答える。
「
「いえ、そんなことは……」
「ところで、厳島さんは空に対してどんなイメージを持ってる?」
戸惑う苑をよそに晴臣は話を進めた。
「えっと、そうですね、大きいとか高いとか、あとは青空は気持ちがいいですよね」
「他には?」
「うーん……自由な感じがあります。伸び伸びとして、なんでもできそうな」
「自由か。そうか……」
晴臣は少し考える仕草を見せる。
「厳島さんは兄弟か姉妹はいる?」
「いえ、いません」
「ご両親と仲は良い?」
「良い方だと思いますけど」
「けっこう過保護だったりする?」
「どうでしょうか。厳しいところはあると思います」
そこまで聞いて晴臣は再び考える仕草で黙り込む。
晴臣はしばらくしてもだんまりのままで、苑はおずおずと声をかける。
「古都島さん?」
「うん? あぁごめん。ちょっと昔を思い出してて」
「昔ですか?」
「厳島さん。きっと君はいまの生活に満足していないのかもしれないね」
苑の言葉を無視した発言は、彼女を驚かせるには十分だった。
私が不満を持っている……自分ではそんな感情に陥ったことはない、と思う。
「どうして、そう思うのですか?」
苑は真っすぐな瞳を晴臣に向けた。それを受けてか、晴臣はいままでより慎重に言葉を続ける。
「ここからは厳島さんの内面に踏み込むことを話すから、少しでも不快感を覚えたなら言ってほしい」
晴臣を見つめたまま頷く。
「おそらく君はそれなりに裕福な家庭で不自由のない生活をしてきたんだと思う。幼少のころからね。
それが災いしてか、良くも悪くも君は真面目になってしまった。約束を守り、ルールを遵守し、尊厳を維持する。もちろんそれが悪いとは言わない。良い面の方が多いとも思う。
ただそれ故に君には自由という選択肢が無くなってしまった。一度他人に決められたことを自ら崩すことができないんだ。
知り合いと話すときも敬語が抜けていないのはそれが原因だろう。敬語じゃなくていいと言われたことはないかな?」
苑は静かに頷く。何度か結奈や真尋に言われたことがあるが、そのたびに言葉を濁していた。
「空のイメージを聞いて自由と言ったね。その自由の中で自分は宙に浮いていて思うように動けない。きみの心を投影している夢なんだと、拙は思う」
自分が不自由しているなんて、そんなこと、考えたこともなかった。
だって私はいままで大きく困ることもなく、言ってしまえば順調に生きてきた。
念願だった友達もできた。
進路については不透明なところがあるけれど、不安があるわけじゃない。
ただ、友達については、ふたりとの関係には確かに少し思うところがないわけじゃなかった。
正しい言葉遣いには慣れている。でも、あのふたりのようにもっとくだけた会話をしたいと思うこともある。
でもそれが正しいかはわからなかった。だから変に
変わることが怖かった。日常を壊したくなかった。せっかくできた友達が離れてしまうのは嫌だった。
願わくば、きょうという日が続いてほしかった。あしたが来なければいいと思うこともある。
あぁ、そうか、これが私。
「古都島さん……」
苑の呟くような声。
「あの夢が私の心を映しているいるのなら、どうすればあの夢を変えられますか?」
晴臣は首のうしろをこすり、ゆっくりと話し出す。
「
でも、ある時受けた依頼である人に出会った。その人は
自分より強い人を助けることなんて無理だと思ってたけど、その人が求めていたのは自分より強い人間じゃなかった。
結果的に
誰かがそばに居ればそれだけで助けになれるものなんだと、
「古都島さんがそばに居てくださるということですか……?」
晴臣はなだめるような口調で言った。
「
苑はしばし思案するも、やはり難色を示す。
「でもそれは……」
「どうするかは厳島さん次第だよ。
困惑する苑を晴臣はせっつく。
「さあ、もう時間だからここは閉めてもらうよ」
「あっ……はい、わかりました」
釈然としない面持ちで苑は荷物を持ち外へと出る。晴臣も続いて出た。
「
「あ、あの……きょうは話を聞いていただいてありがとうございました。まだよくわからないですけど、なんとなく整理がついた気がします」
「助けになれたなら良かった。次は教室で話せたらいいね」
「そうですね。こんどは古都島さんのことも聞かせてください」
苑はゆっくりと微笑み、丁寧にお辞儀をしてから階段へと歩いていった。
先ほどまでの暗澹とした気持ちはすでに薄らいでいた。苑は少しばかり軽くなった足取りで校門へと出ると、そこにいた人影に歩を緩める。
談笑していた結奈と真尋が苑に気付いた。その視線に答えるように苑が声をかける。
「おふたりとも、どうしたんですか?」
「阿佐美が課題の提出を忘れてたからその付き添い」
「それで先生のとこ行ってきたら、まだ苑が残ってるって聞いて待ってたんだよ」
苑は少し驚いたように言った。
「私を待っていてくれたのですか?」
ふたりは頷く。
「ここのところいっしょに帰ることなかったでしょ。だから久しぶりにさ」
「あっ、言い出したのはぼくだからね!」
「なに張り合ってるのよ」
「結奈よりもぼくのほうが苑を好きってこと」
「さいですか。ほっといていこ、苑」
ふたりのやり取りを目の当たりにして、苑の胸にこみ上げてくるものがあった。
あたりまえのことなのかも知れないけれど、私はこのおふたりの友達なんだと、そう改めて実感する。
苑の目にたまった雫が頬をそっと撫でた。あわてて手で拭うがあふれ出る涙を止められない。
結奈と真尋は思いがけず言葉がでなかった。しかし結奈はすぐに鞄からハンカチを取り出して苑の顔へと優しく触れる。
「なにを言われたかはわからないけど、言いたいことがあるなら聞くよ」
「……私は……おふたりの友達で、いいのですよね……」
かすかな嗚咽が混じる。それでも苑の言葉ははっきりとしていた。
ふたりは躊躇うことなく頷く。
「そうだよ」「あたりまえじゃん!」
それを聞いた苑はますます大粒の涙を流すのだった。
***
気が付くと私はそこに立っていた。
眼前にあるのは見慣れた街並み。私の住む街だった。
整然と並ぶ街路樹は青々と輝き、まだ新しい一戸建てが軒を連ねている。
何度も見た光景。ただいつもと違うのは、私は地に足をつけていた。
足元のアスファルトがしっかりと私の身体を支えている。
顔を上げるとスカイブルーの空が広がる。その中をゆるやかにそよぐ風が私を包みこむ。
この青空の下、私は自由になれることを知った。
ふと周りに目をやると結奈と真尋がいた。何か言い争いをしている。きっとまた他愛のないことでもめているのだろう。
遠目にじっと眺めているとこちらに気付いたらしく、ふたりして手を振ってくれている。
私は深呼吸をして、ふたりに近付こうと一歩を踏み出した。もう怖がることはない。自由を手にしてみたい。
この、大空に翼を広げて――――
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