3 この世界のすべての人々に、祝福あれ……
フェイシア王国ヴェチェレク公爵領、副領都グリューン――。
領都から外れて六十余年が経過したものの、公爵領内の経済の中心地として栄え続けている、森と湖に囲まれたフェイシアの宝石だ。
王国第二の人口を擁する活気あふれる街は、いまだに拡張を続け、多くの人をその胎内に呑みこみ続けていた。
街の中心には、ヴェチェレク公爵家の夏の離宮――かつて領政の中心であった領館がある。
今、離宮の一室で、引退した前公爵とその家族が集まっていた。
「……アリツェ」
天蓋付きの大きなベッドに横たわる前公爵――ドミニクは、力なくつぶやきながら、傍らに座るアリツェの腕を取る。
「ドミニクっ! お気を確かに!」
アリツェは涙ぐみ、ドミニクの冷え切ったしわくちゃな手を、固く握りしめる。
「泣かないで……」
ドミニクは震える手を伸ばし、アリツェの目尻をぬぐった。
アリツェは、零れ落ちる涙をとどめられなかった。視界がどんどんとぼやけていく。
だが、目を逸らすわけにはいかない。最愛の人との、最期の別れだ。
「君には、感謝しかない……。生まれ変わっても、また、ボクと結婚をしてくれるかい?」
ドミニクは微笑を浮かべながら、アリツェに問うた。
「えぇ、えぇ。もちろんですわ!」
アリツェはより一層、ドミニクの手を握り締める力を強め、うなずいた。
「わたくしには……。わたくしには、ドミニクしかおりませんわ!」
他の人など、考えられようか。
「ありがとう、アリツェ。そして、ごめんね……。一足先に、ボクは逝かせてもらうよ……」
ドミニクは満足げにうなずくと、静かに目を閉じた。
「ドミニク……」
アリツェは鼻をすすり、涙声で夫の名を呼ぶ。
「いつかきっと、君を探し出して、またもう一度、夫婦に……」
ドミニクはつぶやいた。
そのまま、ドミニクの手から力が抜けていった――。
「ドミニクっ!!」
アリツェは叫んだ。
だが、ドミニクはもう、動かない。
「……今まで、本当にありがとうございました。あなたがいなければ、わたくしもここまで、生きられなかったでしょう」
アリツェはベッドに突っ伏し、肩を震わせた。
「ゆっくりと、お休みくださいませ……」
日の暮れるまで、アリツェは泣き腫らした。
★ ☆ ★ ☆ ★
ドミニクとの別れから、三年が経過した。
アリツェの心には、ぽっかりとおおきな穴が開いていた。もはや埋めようのないその空虚が、アリツェの肉体と精神を、徐々に蝕んでいく。
アリツェは残された日々を、ただひたすら精霊への祈りに捧げていた。もう、新たなことに取り組めるだけの気力も体力も、残されてはいない。日がな一日、ベッドの上で祈る毎日――。
アリツェはベッドに横たわり、窓の外の景色を眺めた。
グリューンの街並みは、かつて子爵領だったころの面影など、もはやなかった。このグリューンの変化と同様に、古い人間も、もう退場する時期なのだろう。
アリツェは痛む身体をさすりながら、大きく息をついた。
「母上、お加減はいかがでしょうか?」
初老の男が入ってきた。愛する息子、エミルだ。その後ろには、フランや孫、かわいいひ孫たちまでいる。
「エミル……。どうやら、わたくしにもとうとう、お迎えがいらっしゃったようですわ」
アリツェは直感していた。自らの寿命が、刻一刻と迫っていると。
日々衰える筋肉に、どんどんと増していく神経痛。アリツェの身体は、エミルの施す癒しの精霊術でも、もはやどうにもならないところまできていた。
「弱気な発言だなんて、母上らしくありません……。まだ、公爵領には母上のお力が必要です」
エミルはベッドサイドに座り込み、アリツェの手を握り締めた。
「何をおっしゃっているのですか、エミル。わたくしの役目は、もう、とうに終わっておりますわ」
アリツェは頭を振る。
「……まだまだ幼かったあなたに、世界を救うための重責を担わせて、わたくしはなんて情けない母親なのかと、嘆いたものです」
「母上……」
エミルはうつむいた。肩が震えている。
「ですが、こうして、素晴らしい精霊使いに成長しました。あなたは、母自慢の息子ですわ」
アリツェは微笑を浮かべると、力を振り絞って、エミルの頭を撫でた。
「母上っ!」
ベッドの上に、ぽつりぽつりと染みができる。
「泣いてはいけませんわ。人の死は、決して避けられるものではありません」
「しかしっ!」
エミルは顔を上げ、くしゃくしゃに表情をゆがませる。
「うふふ。そんな顔をされては、母は安心して、愛するあの人のところへいけません」
アリツェは震える手で、エミルの涙をぬぐった。
「母を、困らせるものではありませんわ」
アリツェは手を戻しながら、かつてエミルが幼いころに、散々繰り返した言葉を口にした。昔を懐かしみつつ……。
「はいっ、はいっ……」
アリツェの言葉を聞き、エミルは泣きながらも微笑んだ。
「先に逝ったお兄様、クリスティーナ、そして、ドミニク……」
アリツェは天を見上げた。
「わたくしは幸せですわ。こうして愛する家族に見守られ、愛する人たちの待つ新たな世界へと、旅立てるのです」
アリツェはゆっくりと両手を胸の前で合わせる。
「詩人だねぇ、アリツェちゃん」
とその時、懐かしい声が聞こえた。
「マリエ、さん……」
「大丈夫さ。君の家族ともども、この世界は僕がしっかりと、面倒を見させてもらうよ」
マリエはエミルの隣に立ち、ニカッと笑った。
「えぇ、えぇ。よろしくお願いいたしますわ」
アリツェも微笑み返した。
「僕はまだ、あと十四年は生きられるからね。まかせてほしいな」
マリエは胸を叩き、うなずいた。
再転生したマリエは、アリツェよりも十四歳年下だ。これまで、精霊使いたちは全員、ほぼ同じ年齢で亡くなっている。素直に考えれば、マリエの寿命も、今のアリツェと同程度になるのは間違いない。
であれば、確かにマリエは、あと十四年ほどは生きられる。安心して、後を託せた。
「……しゃべりすぎましたわ」
アリツェは激しい倦怠感を抱いた。どうやら残された最期の力も、すべて使い切ったのだろうと悟る。
「母上……」
「アリツェちゃん……」
エミルやマリエの声が、微かに耳に入ってきた。だが、もう振りむくこともかなわない。
アリツェは脳裏に、『精霊王』と愛する人々の顔を順繰りに思い浮かべた。
「精霊王様と、この世界のすべての人々に、祝福あれ……」
アリツェはつぶやくと、静かに目を閉じた――。
★ ☆ ★ ☆ ★
横見悠太は、ゆっくりと目を開き、体を起こした。
「……ここは?」
周囲を見回すも、ただ真っ白な空間が広がっているだけだった。地に足のつかない浮遊感もある。
「誰もいない。何も、無い?」
悠太はつぶやき、改めて周りを見た。既視感がある。
「そうか、オレ、ゲームクリアしたんだな……」
悠太は思い出した。この空間が、初めてゲーム管理者ヴァーツラフと出会った場所だと。
誰もいない理由は、ヴァーツラフがマリエとして、いまだにゲーム内にいるからなのだろう。
悠太は真っ白な空間に、ぽつりと一つ扉があるのに気が付いた。扉に意識を向けると、身体が勝手にその扉へ向かって移動する。
扉を開くと、何かの研究所のような場所に出た。無数のガラス柱が立ち並び、様々な色に輝いている。その七色に輝く光景は、幻想的とさえ言えた。
「これは……」
悠太はある一つのガラス柱の前に立った。見覚えがある。
「オレの転生体を入れたガラス柱、か?」
ガラス柱の中は、すでに空っぽになっていた。ただ、ガラスの部分だけが、青く光っている。
「……アリツェは、青が好きだったからなぁ。納得だ」
悠太は笑いながら、ガラスの表面を撫でた。
ヴァーツラフに『君色に染めてほしい』と言われた時、ガラス柱はまだ無色透明だった。今、青に光っているということは、悠太――アリツェの色は青だったということだ。
「あれから、アリツェは新たに赤子として生まれ変われたのかなぁ。興味はあるけれど、ヴァーツラフもいない今、確認のしようもないか」
すでに悠太のガラス柱の中には、何もない。
自らの分身たるアリツェは、果たしてどうなったのだろうか。ラディムやクリスティーナも、あの世界で新たに生まれ変われたのだろうか。気にはなるが、ヴァーツラフが再びこの空間に戻ってくるまで、待つわけにもいかない。
「よし、ログアウトしよう」
悠太は端末を操作し、ゲームから完全にログアウトした。
★ ☆ ★ ☆ ★
「うっ……」
悠太はうめき声を上げた。
久しぶりの、生身の感覚……。
「悠太!」
横から悠太を呼ぶ声が聞こえた。父と母の声だ。
「父さん、母さん。今、帰ったよ」
悠太はヘッドセットを外すと、傍で涙を流す両親の姿を見つめた。
「よかったわ!」
「おかえり!」
両親は声を上げ、悠太をギュッと抱きしめる。二人の温もりを感じて、現実世界に戻ってきたのだと、悠太は強く実感した。
「二人とも、聞いて?」
密着する両親に向かって、悠太はゆっくりと口を開いた。
「オレはもっと、生き続けるよ。このゲームのおかげで、生きる希望を見出したんだ」
悠太は力強く宣言した。
両親は目を大きく見開いて、悠太の顔を覗き込む。
悠太が微笑を浮かべると、父が、「テストプレイに参加させて、良かった……」とつぶやいた。
両親はすでに帰宅し、今は消灯時間直前。一人、静かに考えられる貴重な時間だった。
悠太は窓の外に目を遣る。
真っ黒く塗りつぶされた夜の闇に、ぼんやりと浮かび上がるのは愛するユリナ・カタクラ――片倉優里菜の顔だった。
悠太がアリツェの人格に融合される直前、優里菜と誓った約束を思い出す。この現実世界で、いつか直接会おうと。
お互いに身動きが取れないほどの病を抱えている。現実には難しいのかもしれない。
……でも、あきらめるわけにはいかない。
アリツェも、不可能を可能にしてきたではないか。一心同体とも言える悠太が、同じことをできないはずはない。
「優里菜、いつか君と、会える日を……」
悠太は決意を込めて、つぶやいた――。
―― END ――
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