第五章 帝国の皇子
1 私は精霊が嫌いになった
「殿下! お部屋へお戻りください!」
廊下に甲高い女の声が響いた。
ラディム付きの侍女が主人を呼ぶ、いつもの宮殿の一幕だ。
「はいはい、わかっているぞー。ザハリアーシュの説法の時間だよなー」
ラディムは投げやりな返事を返す。これもいつもの宮殿の一幕。
「時間どおりに部屋にいてくださらないと、また私が侍女長に叱られますっ!」
侍女は泣きそうな声で叫びつつ、ラディムを睨んだ。
「私付きになった君の不幸だねー。お勤め、頑張ってほしい」
少し年上の、この若い侍女をからかうのがラディムは好きだった。年齢が近い分話しやすいし、何よりも返ってくる反応が面白かったからだ。
毎日のように体の鍛錬やら勉強やらで、ぎちぎちのスケジュールをこなしていた。ラディムは侍女をいじることで、自身の精神面のバランスを取っていた。九歳の少年には、この皇宮での生活はなかなかに辛いものがあった。
「殿下ぁー」
侍女は座り込み、とうとう泣き出した。
(おっと、まずいまずい)
少しやりすぎたとラディムは反省する。かといって、今後もからかい続けることをやめるつもりもないが。ラディムの精神安定に、この感情豊かな侍女の存在は不可欠であった。
「はは、冗談冗談。すぐ戻るよ」
ぐすぐすと泣く侍女の腰を軽くポンっとたたくと、ラディムはさっさと自室に戻った。
「ラディム殿下、また侍女を泣かせたのですか」
ラディムが自室に入ると、長身で髭面の老年の男が待ちかまえていた。ラディムの教育係を務めている、世界再生教の司教ザハリアーシュだ。
廊下でのラディムと侍女とのやり取りが聞こえたのだろう、ザハリアーシュは大きくため息をついている。
ここバイアー帝国は世界再生教を国教としているため、政治の中枢部にも多くの教会関係者が入り込んでいる。ザハリアーシュもそんな教会聖職者の一人だった。ただ、政治畑というよりは、皇帝一家のプライベートを主戦場にしていたが。
「人聞きの悪い。ちょっとからかっただけじゃないか」
ラディムは頬を膨らませて抗議する。
思わず、「そもそもお前たちがこんなにぎちぎちにスケジュールを詰め込まなければ、侍女をからかって遊んだりはしないぞ」と、ラディムは喉から出かかったが、すんでのところで飲み込んだ。言ったら最後、ザハリアーシュに何を言われるか……。恐怖のお説教タイムが始まる。
ラディムはブルリと震えた。
「目下の者をからかうのも、ほどほどにしておきなさい。それに、エリシュカはまだ十三歳で見習いの立場。粗相があれば特に厳しく侍女長から叱責されるのです。将来、人の上に立つ殿下は、そのあたりもきちんと理解しないといけませんな」
ザハリアーシュの目は笑っている。笑っているが、なぜか恐ろしい。こういう時は、たいてい、内心ではすごく怒っている。
ザハリアーシュとまみえる時は、見た目の表情に騙されてはいけない。笑っていて、その実非常に怒っていたり、逆に、怒っているように見えて、頭を撫でて慰めたりする。なかなか掴みどころがない。
ザハリアーシュが教育係に付いて三年が経つ。だが、いまだにラディムはザハリアーシュの本質が見えなかった。ただ、微笑んでいる時ほど怖い、それだけは確かだった。
「わかった」
ラディムは背筋にうすら寒さを感じたので、素直に返事をした。
厳しい帝王教育に抗議する意味も込めて、ラディムは毎日のように説教の時間に遅れている。普段温厚なザハリアーシュも、さすがにそろそろ腹に据えかねているのだろうか。
それとも、立場の弱い見習い侍女をからかっている点が、お気に召さないのだろうか。
ラディムとしては単に気分転換として、相手をしてくれる侍女にちょっかいを出している程度の認識であったのだが。
ただ、ザハリアーシュの言うとおり、見習い侍女――エリシュカには大分苦労を掛けてしまったと、自省をした。正直なところ、エリシュカの立場の弱さという点に気づいていなかった。これではザハリアーシュが怒っても仕方がない。いくらお気に入りの侍女とはいえ、もっと節度のある態度をとるべきだった。
(これからは、ちゃんと時間通りに待機していよう。エリシュカをからかうのも、……ちょっとだけ自重しよう。うん、そうしよう)
ラディムは誓った。
この決意がいつまで続くかはわからない。だが、たしなめられた翌日にまた粗相をしては、ザハリアーシュのラディムに対する信頼は地に落ちるだろう。
ザハリアーシュのことは、口うるさいが信頼のできる良き祖父のように思っている。皇宮内でもそれほど多くないラディムの味方の一人だ。見捨てられる事態は避けなければならない。立場上、どうしてもラディムに対して不快感や敵意を持つ者が多くなるため、味方は大切にしなければならなかった。
「では、今日は『魔術』についてお話させていただきましょうか」
ザハリアーシュは大きく一つ咳ばらいをした。
「『魔術』? それって、巷では確か『精霊術』って言われてるやつだよな?」
一般に『精霊術』という名で広まっている不可思議な術。なぜだか世界再生教会内ではかたくなに『魔術』と呼ばれていた。『精霊術』などと言えば、偉い人に怒られる。
「ま・じゅ・つ、でございます、殿下。魔術を精霊術などという忌まわしいものと一緒になさらないでほしいですな」
グイっと顔をラディムに近づけ、ザハリアーシュは抗議した。少し顔が紅潮している。やはり、今のラディムの台詞は禁句だったらしい。
ザハリアーシュは、一緒にされて心外だという顔をしている。
「ふーん、で、何が違うんだ?」
鬱陶しく近づくザハリアーシュの顔から眼をそらしつつ、ラディムは聞いた。名称にこだわっているだけで、大した意味はないのではないかとラディムは思っていた。なので、聞き方もややおざなりだ。
「まったく違います! 術をかける対象が違うのです」
ザハリアーシュは少し大げさに両手を広げ、頭を振った。
「対象が違うだけで、理屈は同じなんじゃないのか?」
わざわざ名前を分けるような理由があるのだろうか。結果が変わってくるのか?
「我々の魔術は、非生命体しか対象にしておりません。それに引き換え、精霊術とやらは、主に使い魔と呼ばれる生命体を対象としております」
聞いたことがある。それ故に、精霊教は使い魔となり得る動物の保護に力を入れているらしい。将来精霊使いになれる素養を持った者が、容易に使い魔を得られるようにと。
なぜだか動物に好かれやすいラディムは、どちらかと言えば精霊教のほうが肌に合いそうだなどと考えたこともある。以前そんなことを口にしたら、ザハリアーシュに鬼のような形相で怒られたことがあったので、以後、バカな考えは起こさないようにしているが。
「これは、大きな違いですぞ! この、使い魔を使役する点が問題なのです」
「はぁ、何だかよくわからんな。小難しい話は勘弁だぞ?」
使い魔を介すると、術者の意図を使い魔が読み取って、うまいこと動いてくれるとも聞いたことがある。それならば、使い魔対象に術を使った方が、術者本人は別の行動をとれていいのではないかとラディムは思うのだが。
「優秀な殿下が何をおっしゃります……」
ラディムの態度に対し、ザハリアーシュは大いに不満げな表情を浮かべる。
「殿下、精霊とは何ですか?」
「この世界の生命から力を奪い取って、自分の力にしている連中、だろ?」
何を当たり前のことを、とラディムは顔をしかめた。
「そのとおりでございます。彼奴らは我々の体内にある『生命力』を――精霊教の者どもは『霊素』などと言っているようですが――使い魔を介して奪い、この世にはない妖の術を使うのでございます」
そんなことは知っている。ただ、現れる結果だけを見れば、魔術も、妖の術とザハリアーシュが言う精霊術も、同じようなものにしか見えないのだが。
「魔術も同じじゃないのか? 魔術も『生命力』を取り出して何らかの作用を及ぼしているんだよな?」
いまいちザハリアーシュの言いたいことがわからない。ラディムは首をかしげた。
「確かに魔術も『生命力』を取り出すことで行使しております。しかし、その『生命力』の提供はあくまで術者――導師側の制御の及ぶ範囲のみでございます」
ザハリアーシュは少し間を置き、語気を強めて続けた。
「ところが! 精霊教徒どもの扱う精霊術は違います。奴らは使い魔を介して、術者の意図しない『生命力』まで奪おうとするのです。意志を持つ生物である使い魔と精霊が結託して、術者の思いがけない結果を招こうとするのです」
少し目を細めて、ザハリアーシュはラディムを見遣る。
「特に、精霊術を行使できる『生命力』を持つ者は、殿下と同年代のいまだ年若い子供のみ。使い魔たちの悪意に翻弄されやすいと言ってよいでしょうな」
ザハリアーシュは忌まわしそうに、不快感に顔をゆがませた。
「そいつは初耳だ。つまりなんだ、精霊術を行使する術者は、術者の意図しない『生命力』まで奪われるってことか?」
事実であれば、とんでもない話だった。使い魔が術者の意志に反して術者の生命力を大量に奪ってしまえば、術者はどうなる。普段から飼いならし、信頼関係が築けている使い魔ならいいだろう。だが、そうでなかった場合はどうだ? 何も知らずに魔獣などの危険な生物を使い魔にしてしまえば、想像するだに恐ろしい結果となるだろう。
特に、術を使えるのは現状ではラディムと歳の変わらない少年少女だけだ。そんな子供が、使い魔と十分な信頼関係を、果たして築けているだろうか?
ラディムは冷や汗をかいた。
「まだはっきりしたところはわかっておりません。しかし、一つ確実なことがあります。精霊は、精霊術行使の際に、大地の『生命力』を奪っている痕跡があります」
「つまり、どういうことだ? 大地の生命力?」
大地の生命力とは、つまり、草木の生命力のことだろうかとラディムは首をひねった。よくわからない。
「作物が育ったり温泉が湧いたりといった現象は、いずれも大地の生命力によるものと私たちは考えておりますな。ですので、精霊術を使えば使うほど、この大地の『生命力』は奪われ、いずれ大地が枯れかねないのです」
「なんだって!? つまり、将来的に人間が生きていけなくなる、そういう話か?」
大問題だ。帝国が崩壊、いや、最悪人類滅亡だなんて結果が起こりかねない。
「はい、我々世界再生教は、そのように考えております」
目を閉じ、ザハリアーシュは静かにうなずく。
「なんて奴らだ……。であるならば、確かに精霊術は邪な術だな」
精霊術を使えば使うほど、この世界は生命の生きづらいものに変質する。良き力なはずがない。
「私は、精霊が嫌いになったぞ。ザハリアーシュの話を聞くまでは、なぜこの帝国で精霊が疎まれているのかいまいちわからなかったが、これで理由がよく分かった」
ラディムは今までの己の無知を恥じた。皇家として、国を護るためにも精霊教はきちんと排除しなければいけない。いや、帝国だけではない。この世界から精霊教は一切排除されるべきだ。
「魔術は使い魔を介しません。したがって、あくまで使われるのは術者本人の生命力のみ。この大地を枯らすことはありません」
ザハリアーシュは精霊術との違いを強調した。魔術のみを使っている分には安全だ、と。
「賢明なる陛下は、われわれの話をよく理解してくださり、こうして世界再生教が帝国の国教となりました。ありがたい話です」
ザハリアーシュは皇帝を持ち上げ、褒め称える。
「私はてっきり、陛下が動物嫌いだから精霊教を否定し、世界再生教を重視したのかと短絡的に思っていた。でも違ったんだな。これ以上精霊教がのさばって、精霊術を行使する人間が増えたら大変だ。陛下の判断は正しいと、私も思う」
ザハリアーシュの称賛の言葉に、ラディムも同意した。皇帝は確かな考えのもとに世界再生教を国教としたのだ、と。
「私も今後は、もっと世界再生教の教義に耳を傾けよう」
宗教を国民の心をつなぐための道具としか見ていなかったラディムだが、認識を改めようと思った。
「殿下、ありがとうございます」
ラディムの態度に満足したのか、ザハリアーシュは深々と一礼をした。
「以前、私から申し上げたと思いますが、殿下はかなりの量の『生命力』をお持ちでいらっしゃる。ですので、殿下には正しく『魔術』のことを知ってもらい、適切に行使をしていただきたいのです」
幼いころ、ザハリアーシュに不思議な道具を使って、ラディムの体内の『生命力』を調べられたことがあった。あの時のザハリアーシュの驚愕の顔を、今でも忘れない。それだけ、ラディムの『生命力』は群を抜いていたのだ。
「殿下の高い『生命力』を狙い、精霊教の輩が殿下に接触してこないとも限りません。そのようなとき、殿下はきちんと拒絶の意思表示ができなければならないのです。いかに精霊が邪悪であるかをこうしてお教えしているのは、そういったわけでございますな。精霊教の一見して正当に見える甘っちょろい教義に、だまされないためにも」
ザハリアーシュはラディムの目をしっかりと見据えて、一気に畳みかけるように話した。
「あ、あぁ、もちろん。せいぜい気を付けるさ。そして、今後はより一層魔術の修練に力を入れていくよ」
ラディムはザハリアーシュの勢いに少したじろぎつつ、首肯した。
「それでこそ殿下です。私も一生懸命指導いたしますので、頑張りましょう」
ザハリアーシュは微笑を浮かべ、もう一度深く礼をした。
「エリシュカ、今いいか?」
ラディムは侍女の控室に足を運び、エリシュカを呼び出した。
「で、殿下! いかがなされましたか?」
呼ばれたエリシュカは、大慌てでラディムの傍へ駆け寄った。何事かと不安そうな表情を浮かべている。
「いやなに、お前にはずいぶん迷惑をかけてしまったな、と」
ラディムは深々と頭を下げた。
「そんな……。殿下のお世話が私の仕事です。頭を下げられると困ります」
ラディムの態度にエリシュカは目を見開き、両手をパタパタと振る。
「いや、お前が見習いという立場なのをすっかり失念していた。大分侍女長に言われているんだろ? すまなかった。ザハリアーシュにも叱られてしまったよ」
ラディムは慌てふためいているエリシュカの顔をじっと見つめながら詫びた。
「そういっていただけるだけで、私は満足です。殿下、お気遣いありがとうございます」
ようやく冷静さを取り戻したエリシュカは、少しはにかみながらこてんと首をかしげた。
「明日からも、よろしく頼むな」
謝罪が通じて嬉しくなったラディムも、ニッと微笑んだ。これからは、からかい方に気を付けよう、きちんと状況を見よう、と固く決心した。
だたし、ラディムの精神衛生のためにも、からかうこと自体はやめないが――。
「はいっ! もちろんです!」
エリシュカは笑顔で大きくうなずいた。
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