2 捨てられたのでしょうか

「早くお迎えが来ないかしら」


 アリツェは読んでいた絵本から目を上げ、誰に聞かせるでもなくつぶやいた。


 拉致騒動のあった翌日、朝食を済ませるとエマはすぐに家を出た。領館にアリツェの件を報告するためだ。


 アリツェの父マルティン・プリンツは、フェイシア王国に所属する、辺境の小領地の領主だ。中心都市はここ、国境の街グリューンで、子爵として統治をしている。


 領館はグリューンの街のほぼ中央に置かれており、館内は領政府庁舎と子爵邸とに大きく区分けされていた。アリツェの私室も、領館の子爵邸側に置かれている。エマはその領館の子爵邸側に赴いていった。


 エマからは、「昼頃までには戻れると思うから、おとなしく家の中で待っていること」と、強く念押しされている。


 昨日の今日だ。アリツェとて、外を出歩こうは思わない。だから、こうしてエマから借りた絵本を読んでいた。もともと、エマの娘のために買った絵本らしい。娘が死んだ後も、捨てられず大事にとっておいたそうだ。


 内容は、大昔に中央大陸のほぼ真ん中にそびえるエウロペ山が大噴火を起こした際、一人の神官が危険を顧みずに火口へと飛び降り、ものの見事に噴火を収めた、というおとぎ話だった。実際にあった話なのかどうかは分からない。


 ただ、この一人の神官を神に祭り上げて信仰する宗教が、国家を超えてこの大陸中の人々の間に広まっていた。この宗教――世界再生教――の司祭たちは、おとぎ話が真実だとして、熱心に布教活動を行っている。伝道師という名の神官が、まだ布教が進まない地域に入り込み、説教をしてまわっているという話も聞く。


「わたくしも熱心に祈れば、お父様、お母様が振り向いてくださるようになるのかしら」


 アリツェはため息をついた。


 何をやっても、どれだけいい子にしていても、両親はアリツェを見ようともしなかった。


 いったい、何が悪いのだろうか。鋭く研がれたナイフでめった刺しにするかのように、理不尽さがアリツェの胸を容赦なく突き刺した。両親への想いも、千々に乱れた。


 沈んだ思いを無理やり振り払い、アリツェは胸元のペンダントをそっと手に取った。メダルの意匠に視線を向け、ゆっくりと目をつむって祈りをささげる。嫌な思いにとらわれそうなときは、必ずこの行為にすがった。ペンダントは、父からのたった一つの贈り物だったから――。


(でも、このペンダントを手にしていますと、お父様もお母様も、なぜかいいお顔をなさらないのですよね)


 不思議だった。父自らがアリツェに贈ったペンダントのはずだ。なのに、ペンダントを握り締め、眺めていると、両親はいつも顔をしかめ、憎々しげにアリツェを睨みつけた。


(お父様たちは、いったいどういった想いでこのペンダントを、わたくしに託したのでしょうか……)


 世界再生教では、『龍』は悪の化身とされている。両親はアリツェを呪うために、わざわざ縁起の悪い『龍』の意匠を彫り込んだペンダントを渡したのだろうか。世界再生教を熱心に信仰する両親が、『龍』のことを知らないはずはない。……あまり、考えたくはなかった。


 あれこれと思い悩む間に、気づいたらお昼が近くなっていた。


「そろそろ、エマ様が戻られる頃ですわね」


 アリツェは玄関に目を遣り、待ち人の帰還を今か今かと待ちわびた。







 ほどなくして、エマが返ってきた。鬼のような形相で。アリツェを領館へと送り届けるべき兵も連れて来ずに。


「まっっったく! なんなのあいつは!」


 エマはテーブルの脚を蹴った。大きな音が部屋に響く。


「あ、あの……。エマ様、どうなされましたの。それに、わたくしを迎えに来るはずの領館の者は、どちらにいらっしゃるのでしょうか」


 何が何やらわからず、アリツェはオロオロと周囲を見回す。


「アリツェ! よく聞きなさい!」


 エマはアリツェの両肩をつかみ、顔を近づけた。


「あんた、捨てられたよ」


 首をかしげるアリツェに構わず、エマはまくしたてる。


「子爵邸に行ったらさ、筆頭執事っていうやつが出てきたんだ。で、あんたを保護しているって話をしたんだけれど、あいつ、なんて言ったと思う?」


 筆頭執事と言えば、先代――アリツェの祖父――のころから仕えていた古参の使用人で、執事たちのまとめ役になっていた。アリツェに対して厳しくしつけをしてくる、口うるさいタイプの初老の男だ。アリツェは彼を苦手にしていた。


「『旦那様には、娘は一人もおりません』ってね。いまだかつて、ただの一人も、娘がいたことはない、らしいよ。あの執事が言うには」


 エマが何を言っているのか、アリツェはすぐには理解できなかった。あまりにも衝撃的すぎた。


「う……そ……?」


 アリツェはふらふらとよろめき、そのまま床にへたり込んだ。


「こうも言われたよ。『あなた様がいったいどこのどなたのことをお話になっているのかは、存じ上げません。しかし、わがプリンツ家の娘だと騙るような者をお傍に置いておくことは、あなたのためにはならないでしょう。何があったとしても、責任はとれませんよ』、と」


(本当に、見捨てられましたの? でも、なぜですの?)


 確かに両親には疎まれていた。でも、まさか、いない子扱いをされるほどとは。


 こうなってくると、昨日の拉致騒動も両親の謀だったと思わざるを得なかった。突然、愛想よく買い物に誘い出してきたのも、今考えれば奇妙だ。喜びのあまり、まんまと乗せられ、何の疑問も抱かずホイホイついていった昨日の自分を、怒鳴りつけてやりたい……。


 屋敷からアリツェを体よく追い出すために、街の中を散策中に人さらいにさらわせてそのまま発見できなかったことにしよう、と企んだのだろう。悲しいかな、一連の両親の行動の意図が、今ならはっきりとわかる。


「あの執事の話っぷりを考えると、あんた、今後も付け狙われるかもしれないね。おそらく、奴隷にされるか殺されるかしない限り、ずっと追われるよ」


 なぜそこまで恨まれているのか、理由がわからない。単に疎ましいだけなら、屋敷の奥に軟禁でもしておけば済む話ではないかと思う。わざわざならず者の手を借りてまで危害を加えようとした意図が、アリツェにはまったくつかめなかった。


 せいぜい考えられる理由は、口減らしだろうか。


 最近、子爵家で自由に使える私邸費が下がったと、父が愚痴を言っている様子をアリツェは見ていた。確かに、季節を追うごとに屋敷で出される料理の質が、だんだんと低下していると感じていた。相当にやりくりが厳しいのかもしれない。


 だが、子爵家の本家筋に当たるプリンツ辺境伯家から、子爵家は多額の援助を受けている。アリツェは教育係からそのように教わっていた。


 辺境伯家は、王国の仮想敵国であるバイアー帝国への防衛の任についている。王国内でも特に発言力の強い家だ。その辺境伯家の影響下で、子爵家は下級貴族にしては力を持ち、羽振りもよいはずだった。


 以前はよく、領館に辺境伯家からの使節が訪れていた。だが、ここ数年はぱったりと見なくなっている。父の性格が災いし、辺境伯家との関係が悪化したのだろうか。それで、援助を打ち切られ、困窮しているのだろうか。


 父は領政府側に私邸費を増やすよう掛け合ったようだが、あっさりと断られたらしく、頭の固い官僚どもめと悪態をついてもいた。


 私邸費を増やせないとなると、今度は少しでも消費を抑えたいと考えるだろう。結果、両親はアリツェを切り捨てようと企てた。……考えられなくはなかった。


 しかし、アリツェは首をかしげた。その程度の理由で、実の娘にここまでの仕打ちをするだろうか、と。


「あんた、いったい領主様と何があったんだい。こんなに小さい子を捨てようだなんて、あたしゃ信じられないよ」


 アリツェのほうが聞きたいくらいだった。自分に非はないはずだ、と。


(わたくしも、訳が分かりませんわ……。わたくしは、ただただ、お父様、お母様の愛情が欲しかっただけですのに)


 アリツェはうつむくと、床に小さなシミがいくつかできる。いつの間にか、涙があふれてきていた。


「そうだねぇ……。これから、どうしようか」


 困ったような声でエマはつぶやいた。


「私としては、あんたをこのまま預かってもいいと思っている。死んだ娘の代わりってわけじゃ、ないけれど。これも何かの縁だし」


 エマは腕を組み、目をつむって考え込んだ。


「ただ、私の顔を領館の連中に知られてしまった以上、あんたをこの家に置いておくのも、危険な気がするんだよねぇ」


 エマの言うとおりだった。筆頭執事に、アリツェがエマのもとへと身を寄せていることを、知られてしまった。


「わたくし、いったいどうすれば、よろしいのでしょうか……」


 子供のアリツェは、領館以外の生活がよくわからない。今後の身の振りをどうすべきか、何も妙案が浮かばなかった。


「あんたにはちょっと厳しい環境かもしれないけれど、スラムの隅に身を置いてみるかい? あそこなら領館の奴らも、うかつに手は出せない」


 スラムと聞いて、アリツェは目を丸くした。それでは、奴隷にされるのとあまり変わらないのではないか。


「おっと、そんな驚いた顔をしないでちょうだい。スラムといっても、中心部のヤバい連中が居ついている場所には行かないよ。っていうか、そんなところに行ったら昨日の人さらいに遭遇する危険性が高い」


 昨日の男たちが脳裏に浮かび、アリツェはギュッと体をこわばらせた。


「スラムと下層市民街との境に、『精霊王』と呼ばれる神を信奉している連中が集まり、新興宗教を開いていてね。小さな教会と、それに併設して孤児院も運営しているんだ。新興宗教とはいっても、貧しい人に施しをしたり、孤児を集めて教育をしたりと、慈善活動をしているまっとうな団体さ。『精霊教』っていうんだけれど。結成されたのは、八~九年前かな」


 まったく知らなかった。世界再生教以外の宗教の話について、教育係から教えられる機会は一度もなかった。


「で、あんたは学もありそうだし、そこで孤児として保護されつつ、いろいろとその孤児院の手伝いをしながら生活をしていくのが、一番いいんじゃないかと思ったんだ。あそこなら、私もちょくちょく炊き出しの手伝いで顔を出しているし」


 エマも関係を持っている団体と聞いて、アリツェは安心した。であるならば、提案を受け入れて、精霊教の孤児院に厄介になるほうが、エマにとってもアリツェ自身にとっても、良い結果を生むのではないかと考えた。


「わかりましたわ、エマ様。わたくし、その精霊教の孤児院のお世話になろうかと思います」


「そうと決まれば、さっそく行動しようか。お昼を食べたら、孤児院へ行こう」


 エマの提案に、アリツェは大きくうなずいた。


 貴族として、領主の娘として生きてきた日々は、昨日で終わりを告げた。めぐまれた環境から一変するのは間違いない。ただ、エマからの話を聞く限りでは、孤児院生活になったとしても、そう惨めな思いをせずに済みそうなのは、不幸中の幸いではあった。


 だが、今後も忍び寄ってくるであろう両親からの追跡の手を考えると、アリツェはきゅっと胸を締め付けられる。喉も、からからに乾いた。


 これから何年もの間、領館の者たちに見つからず、孤児院で生活し続けられるだろうか。貴族として育てられた身で、孤児院の者たちとうまくやっていけるだろうか。


 悩んだところで、他に選択肢はない。いまだ無力な子供にすぎないアリツェには、ただ黙って大人に従っていく他に、生き延びる術はないのだから。


 運ばれてきたスープに、アリツェの顔が映りこんでいる。


 うつろな目をし、口をへの字に曲げているこの少女は、本当にアリツェ自身なのだろうか。昨日領館の私室で、付きの侍女に髪をとかしてもらっている際に見た、鏡に映っていた少女とは、まるで別人だ。


 アリツェは深いため息をつくと、スプーンを手に持ち、静かにスープを口に運び始めた。








 時は中央大陸歴八一〇年七月――。


 アリツェは人生という名の大海原に、たった一人放り出された。粗末な木舟は運命という名の荒波にもまれ、どこに向かっているのかさえ定かではない。


 ただひたすらに親の愛を求めた幼き日々。だが、待ち焦がれたその愛は、もはや手に届くところにはなかった。


 アリツェは目標を見失った。いつか再び、生きる目的を見いだせるだろうか――。

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