第一章 孤児院の少女

1 追われていますわ

「おいっ! こっちにいたぞ!」


 野太い男の声が、あたりに響き渡った。


 アリツェ・プリンツォヴァは懸命に足を動かした。捕まるわけにはいかない。何をされるか、わかったものではないのだから。


(いったい何事ですの。わたくしが、何をしたっていうのでしょう!)


 アリツェは混乱していた。人に追われる理由がわからない。


「チッ! ちょこまかと逃げやがって! おいっ、お前は裏から回れ、挟み撃ちにするぞ!」


 二手に分かれていく足音にアリツェは気づいた。


(このままでは捕まってしまいます。困りましたわ)


 狭い路地裏に入り込んだため、ほぼ一本道だ。逃げ込める場所がない。前に進むしかないが、どうやら何者かが先回りして、行く手をふさぎそうな気配だ。


 アリツェの足は、もはや限界に達しようとしていた。動きづらいヒールのついた靴が、疲労の蓄積に拍車をかけている。


(も、もう駄目ですわ……)


 アリツェは足をもつれさせ、バランスを崩した。何とか転倒は防いだものの、そのまま立ち止まり、地面にへたり込んだ。


 腰まで伸ばした自慢の金の髪は、すっかり乱れている。美しい艶も、失っていた。顔をうつむけて喘いでいると、はらりと髪が零れ落ち、頬にべっとりと張り付いた。付きの侍女に、「とても愛らしいです、お嬢様」と褒められた顔も、今や汗と泥で薄汚れているにちがいない。


「お父様……。お母さま……。いったいどこに、行ってしまいましたの」


 じわりと目に涙が浮かんだ。自分のみじめな姿に、ただただ泣いた。


 つい先刻まで、アリツェは両親とともに買い物を楽しんでいた。久しぶりに味わう、幸福な時間だった。


 両親はアリツェに対して冷淡だった。普段は、まったくかかわろうともしない。使用人に任せっきりになっていた。最後に食事を一緒に採ったのは、いつだっただろうか。


 そんな両親が、何の気まぐれか、突然アリツェを買い物に誘ってきた。しかも、護衛なしの家族水入らずで、だ。


 アリツェはうれしかった。まだ十歳、親には甘えたい年頃だ。


 昨日の夜は、興奮のあまりよく寝付けなかった。今朝も、余所行きのワンピースを、付きの侍女と笑いあい、胸躍らせながら選んだ。髪も、きれいに梳かした。


「それなのに、どうしてこんなことに……」


 いったいいつの間に、両親とはぐれてしまったのか。どうして自分は、路地裏なんかに入り込んでしまったのか。


 足音が、下卑た男の声が、どんどん近づいてくる。


(あぁ……。捕まってしまいますわ……)


 アリツェはあきらめ、己の不幸を呪って目を閉じた。


 侍女が言っていた。人さらいに捕まれば、奴隷として売られて、二度とまともな生活には戻れないだろう、と。


 とその時、不意に何者かに腰をつかまれて、ひょいっと抱えあげられた。


(え? え? 何事ですの!?)


 男たちはまだ追いついていない。なのに、今の自分の身に、いったい何が起きたのか。


 アリツェは焦り、じたばたと手足を動かし、暴れた。逃げなければ、と。


 ちらりと視界に入るのは、青いスカートのすそ。どうやら、抱え上げたのが女性だとわかる。


「ち、ちょっと。やめてくださいませ。何をなさる気ですの!?」


「シッ! あんた、追われているんだろ。大丈夫、私がかくまってやるよ」


 女は少しかすれた、しかし、どこか温かみのある声でつぶやいた。


 どうすることもできないアリツェは、なすがままに女に身を任せた。抵抗したところで、どうせ逃げられないと悟った。


 女はすぐ傍にある小さなレンガ造りの家の窓を通って、アリツェを抱えたまま中に侵入した。


 目に飛び込む床や壁の様子を見て、アリツェは目を見開いた。薄汚れ、ところどころ崩れかかっていた外壁の様子からは想像がつかないほど、室内は清潔に整っていたからだ。もちろん、アリツェの屋敷のような華美さは、かけらもないが。


 女は床にアリツェを横たえると、すぐに窓の雨どいを下ろした。


 薄明るかった室内が、さっと闇に包まれた。


「悪いね。落ち着くまで少し、このままで辛抱してちょうだい」


 アリツェは静かにうなずき、じっと身を潜めた。


「うん、いい子だ」


 女は満足げにうなずくと、アリツェの脇に座り込んだ。


『おいっ、いたか?』


『いやっ、こっちには来なかったぞ。もしかして、見失ったのか?』


 表から、かすかに男たちの怒鳴り声が漏れてくる。


 思わずアリツェは両手で己の身を抱えた。いつの間にか、全身が震えている。


 すると、女がアリツェの頭をやさしく撫ではじめた。不思議と、高ぶってきた感情が落ち着いていく。震えは、止まった。


『マジィな、このままじゃ、あの方になんと言われるか。おいっ、手分けしてもう一度、周辺を虱潰しだ』


 「おうっ」と男たちの声が聞こえると、いくつかに分かれて足音は散っていった。


 当面の危機は去り、アリツェはほっと胸をなでおろす。撫で続けられる頭の感触が、安堵も加わったことで、さらに心地よいものになっていく。


(気持ちが、いいですわ――)


 そのまま、意識を手放した――。







 鼻腔をくすぐる匂いにつられて、アリツェは目を覚ました。


 見知らぬ天井が見える。屋敷の自室の、見慣れた天井ではなかった。


 アリツェは混乱した。ここはどこだろう、と。


 上半身を起こし周囲を窺っていると、背後から声をかけられた。


「お、気が付いたかい。よく寝ていたね」


 振り返ると、中年の女が立っていた。


 中肉中背で、一般庶民がよく着る仕立ての悪い粗末な服を身にしている。赤髪を後頭部でまとめてお団子状にした、どこにでも見かけるような、平凡な顔立ちのおばさん。それが、アリツェのその女への第一印象だった。


 スカートの青色で、どうやら先ほど助けてくれた女だと悟った。ということは、ここはアリツェが連れ込まれた家の一室だろうか。


 アリツェはおずおずと立ち上がると、女に一礼した。


「ご助力、感謝いたしますわ。ならず者に追われ、困っておりましたの」


「あぁ、あぁ、いいよ、そんなにかしこまらなくても」


 女は大げさに首を左右に振った。


「申し訳ございません。しかし、そういわれましても、このしゃべりかたが地なんですの」


 これ以上崩そうと思っても、アリツェは他の話し方を知らなかった。


 まったく構ってくれない母の興味を引こうと、必死で母の口調を真似した結果の、このしゃべり方だ。


 だが、所詮は子供の悪あがきだった。結局、母がアリツェにやさしい言葉をかける機会は、ついぞ訪れなかった……。


「ふーん。睨んだとおり、いいところのお嬢様ってわけだ」


 女は無遠慮に、アリツェを上から下までなめるように見た。


「あ、あの……。もしかして、あなたもわたくしをどうにかなさろうと?」


 女の態度に、不穏なものを感じ、尋ねた。一難去ってまた一難、だろうかと。


「アッハッハ、そうじゃないよ。ただ、あんたの服装が、この辺を歩いているにしちゃヤケに程度のいいものだったからね。上等なシルクの真っ白なワンピースなんて、こんな下町では目立ちに目立っちまうものさ。だからつい、気になっちまって。別にこのままどこかに売っぱらおうだなんて、考えてるわけじゃないさ」


 大口をあけて笑いながら、女はアリツェの背中をバンバンと叩いた。


(い、痛いですわ……)


 アリツェが顔をしかめると、女は気づいたのか、慌てて手を止めた。


「おおっと、ごめんごめん。私の悪い癖が出た。っと、自己紹介がまだだったね。私はエマ。見てのとおりの、ひとり身のただのおせっかいおばさんさ」


 エマはにっと笑った。


「わたくしは、この国境の街グリューンの領主マルティン・プリンツが一子、アリツェ・プリンツォヴァですわ」


 アリツェは改めて、スカートの裾をつまみながら、深々と一礼をした。


「領主様ん家のお嬢様かいっ! これはこれは……」


 エマは声を張り、目を大きく見開いた。


「何はともあれ、無事でよかったよ。つかまっていたら、今頃奴隷市場行きだったろうからねぇ」


 エマの言葉に、アリツェはぶるっと震えた。助かってよかったと、改めて思う。


「ところで、なんでわたくしをわざわざ助けてくださったのですか? あなたが危ない目に合う理由なんて、ございませんでしょうに」


 お金持ち風の幼女を追いかける人さらい。理由もなく首を突っ込む理由がわからなかった。厄介ごとの匂いしか感じないだろうに、と、まだまだ未熟ものを自覚しているアリツェにも、容易に理解できる。


「あー、うん。なんていうかな……」


 エマは頭を掻くと、言いにくそうに押し黙った。


「私の死んだ娘に、似ていたからって理由じゃ、ダメかい?」


 エマには、幼くして亡くした娘がいたようだ。どうやら、アリツェにその娘の面影を感じて、自然と体が動いてしまったらしい。


「そう、でございますのね……。ではわたくしは、あなたの娘さんに感謝しないといけないですわね」


 アリツェは胸にしまい込んでいたペンダントを取り出すと、エマの娘のために小さく祈りをささげた。神の御許で静かに眠っているであろう、小さな女の子のために。


「ありがとね、祈ってくれて。それにしても、ずいぶんと見事なペンダントだね。鎖もそうだけれど、特にこの金色のメダルの部分。こんなに細工の美しいものを見たのは、初めてだよ」


 アリツェが手に握るペンダントを見て、エマは目を見張った。


 確かにアリツェの持つペンダントは美しかった。純金で作られ、鎖から下げたメダルの部分には、伝説の獣たる『龍』の意匠が小さく彫り込まれている。十歳の幼女が持つにしては、不釣り合いなのは間違いない。


 アリツェは慌てて、隠すようにペンダントを胸元に戻した。――『龍』の意匠は、あまり大っぴらに人に見せるべきものではなかったから。


「お父様からもらったプレゼントですの。実は、お父様からプレゼントをいただいたのは、これが唯一でして……。ですから、うれしくてうれしくて、わたくし、常に肌身離さず持ち歩いているんですの」


 胸元に隠したペンダントを、ワンピース越しにぎゅっと握りしめると、アリツェは脳裏に父の姿を思い浮かべ、静かに目を閉じた。


「そうかい、そいつはよかったね。大切にするんだよ」


 エマは満足げに、「うんうん」と口にした。


「さて、今日はもう日も暮れた。明日、私が領主様のもとに知らせに行くよ。あんたは迎えがくるまで、この家に隠れていなさい。人さらいどもがまだ、うろうろしているかもしれないからね」


 アリツェは頷いた。


 早く屋敷に帰りたい。両親もきっと、自分を探しているだろう。そうは思うが、先ほどの恐怖を思うと、今、表を歩くなんて無理な話だった。ここは、素直にエマに従うことにした。


「特製グラーシュができたよ。さ、一緒に食べよう」


 台所に戻ったエマが、容器によそったスープ状の食べ物を持ってきた。この地方の郷土料理で、グラーシュと呼ばれる、パプリカの粉末をふんだんに投入した濃赤色の牛肉シチューだ。屋敷でもよく食べている。


 椅子に腰を掛け、さっそくいただくことにした。緊張ですっかり忘れていた空腹感が、グラーシュの匂いでむくむくと湧き上がってきた。


「あ、おいしいですわ……」


 ひとくち含むと、アリツェは無意識のうちにつぶやいた。


 屋敷で食べるような豪華な付け合わせなどはない。クネドリーキと呼ばれる、ジャガイモのダンプリングが添えてあるだけの、いたってシンプルな一皿だ。だが、この素朴さが逆に新鮮で、アリツェは無心に口へと運んでいった。


「お貴族様のお口に合ったようで、よかったよ」


 アリツェの食事の様子を、エマは優しく微笑みながら眺めていた。


 その日はそのまま、少し狭いベッドの上で、エマに寄り添われながら、静かに眠りに落ちた。

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