一念、電話をも通る

@delpotoro

第1話


目覚まし時計の音で目を覚まし、洋子はいつものようにカーテンを開けた。どんよりした空が見えるも、今日は誕生日だった事を思いだし頬が緩む。そう、今日は誕生日。指折り数えて、待ち望んできた。辛い一日が終われば、夫の伝史、そして娘のあやかの三人でフレンチレストランだ。仕事先で叱られた時も、家事のやる気が出ない時も、この日を思っては耐えてきた。洋子は、重い体に活を入れ、朝食を作り始めた。


スタートだけ元気なマラソンランナーのように、朝の時計の針は早く進む。雑事を急いで片付け、夫を見送る。今日が誕生日であることに触れてくれなかったので、ふざけて

「あなた、今日が何の日か覚えているの?宇宙一大事な日よ。」

と聞くと

「恋に焦がれて鳴く蝉よりも、鳴かぬ蛍が身を焦がすのさ。想い焦がれて言葉は出ない、フランス料理に財布が焦げる」

といつものように軽口を叩く。

伝史は冗談好きで人当たりが良い。実際、洋子もそこに惹かれて結婚したのだ。プロポーズは今でも覚えている。「ところで高校化学の内容を覚えているかい?原子は三つの物質から構成されている。陽子、電子、中性子だ。その内、陽子と電子は常に強力な静電気力で引き合っている。僕の名前はのりふみだけど、伝史を音読みすればでんし、君の洋子という名前もようし、と読める。我々の間にも強力な引力が働いている理由は説明された、さぁ結婚しよう」しょうもないとは思いつつ、その底抜けの明るさは魅力で、頷いた。娘が出来た際、「宙清子、と名付けよう。これでうちも原子一家だ。」と高笑いしている姿にはさすがに驚き呆れたが、なんだかんだ上手くいってきた。


夫を送り出すともう娘を幼稚園に送らねばならない時間になった。歩いて10分もかからない幼稚園に向かい、あやかの手を引き家を出た。


道すがら、あやかがコンビニを指差しぐずり始めた。おまけ付きのチョコレートが欲しいらしい。今、大流行しているアニメのフィギュアが付いている。鉱石がキャラクターとなって出てくるアニメだ。ダイヤモンドやサファイアといった鉱石を主人公が求め旅をするアニメのどこが子供たちを惹き付けるのか、咲子には全く理解できない。しかし、一種の社会現象となり、多くの子供たちがその価値も知らず両親にダイヤモンドをねだっているらしい。

近頃、ついついあやかに厳しく当たってしまう事が多く、咲子は買おうと思った。しかし、ポケットに手を当て、財布を家に忘れた事に気付き、仕方なく

「ママは今お金持っていないから、あとでね」

と言い聞かせる。しかし、あやかは

「今がいい、今じゃないとダメ」

とぐずる。わざと私に嫌がらせしているのか、とふと考え苛立ちそうになるも、今日はこれから外食が控えていることを思い出すと心が落ち着いた。


ようやく娘を宥め、先に向かっていると夫から電話がかかってきた。こんな時間にかかってくる事を訝しく思いながら電話にでる。

「洋子、申し訳ないが今日の外食はキャンセルにしてもらえない?院長から急に命令があって夜までに間に合わない。本当にごめんな。来週、絶対に行こう。」


医師である夫は常に多忙だ。働いている病院は人手不足らしく、急な仕事が良く入る。夫の職業柄、仕方のないものと分かっていながら、つい口が動く。

「今日1日くらい断れないの?あれほど強く約束したと言うのに…」

「俺だって断れるものなら断りたいよ」

自制心はここで妥協しろと告げている。我儘なのは分かっているのだ。部下が上司の言うことを断れるはずがない。でも、言ってしまう。

「あなたはいつも上の人の言うがままじゃない。自分の意志は全くないみたい。固い意志を持ってない人間が、私は大嫌い。」

悠人が固まるのが分かった。やってしまった。思っている事を遥かに激しい言い方で伝えてしまった。重い沈黙の後、「意志なき医師か」

と呟く声が聞こえた。こんな時も下らない駄洒落なのだ。どこかで自分を戒めていた部分が燃え尽きた。これ以上会話を続けると、自分の知らない何者かが理性を支配する予感がして、電話を切った。横であやかが怯えた表情をしている。母親の経験が、あやかは何かを伝えようとしていることを告げていたが、無視して、先に進んだ。暗い空は今にも泣き出しそうだった。


気まずい沈黙の中、幼稚園に着き、あやかを預ける。今日は休みを取っていたので仕事はない。そのまま自宅に戻ったものの、たまった家事をこなす気力は湧かない。仕方なく借りてきた映画を見た。アメリカの古い映画だ。途中家族に崩壊の危機が訪れたものも、ハリウッドの約束事で最後はみんな幸せになる。映画の世界は楽で良い。家族の笑顔で終わるラストシーンを見ながら、何故か心が痛んだ。


昼御飯を食べ、スーパーで夕食の買い物をした。外食よりずっとお得、ずっと健康的、と自分を慰める。家に戻るともう幼稚園の終わる時間だった。天気予報を見ると午後から雨が降るようなので傘だけ持ち、すぐに家を出る。

幼稚園に着くと先生が青い顔をして近付いてきた。

「あやかちゃんが何を言っても聞いてくれません。ママに嫌われちゃう、て言いながら、落とし物を探しているのか、園内の庭を歩き回っています。何か大事な物、預けていたのですか?」

思い当たるふしは全くなかった。

「いえ、何も…とりあえず会わせてもらえませんか?」

中に入れてもらい庭に向かうと、すぐにあやかは見つかった。地面を手探りしながら歩いている。私を見ると泣きそうな表情で

「ママ、ごめんなさい。あやかを嫌いにならないで。」

と言う。事情が全く飲み込めず

「どうしたの?」

と戸惑いながら聞くと

「ママが固いイシを持ってない人は大嫌いだと言うから、固いイシをずっと探したけど見つからなかった。小石だらけなの。パパもあたしも石を持ってないけど嫌わないで。お願い。」

と返ってきた。


一瞬面食らったが、頭の中で意志、イシ、石、と文字が変換される。あやかは意志と石を取り違えたのだ。最近あやかが見続けているアニメでも登場人物が石を求め回る。その影響もあり勘違いしたのだろう。


それにしても、と思う。石を持っていないと嫌われる、と思い込むとは。そして固い石を探し続けるとは。

思わず抱きしめた。

「石を持っているかどうかなんて、関係ないよ。」

その先は言葉にせずとも伝わったようだ。あやかの目が微笑んだのが分かった。


二人手を繋ぎ帰っていると、メールの着信を告げる音が鳴った。夫からだ。さっき言い過ぎたこと謝らないと、と思いながら文面を開くと「事情を説明したら、同僚が代わってくれた。俺の人望なのか、君の怒りに運命を司る神まで怯えたのか。とにかくもうすぐ帰れる。意志なき医師、石ある医師に変身。」とあった。どんな変換ミスをしたら最後に石が出てくるのよ、と苦笑する。あやかの、石を手に入れたいという想いが通じたのだろうか。空を見上げると雲は去り、晴天が広がっていた。人生は映画ではない。山頂まで辿り着いても、道はまだ続く。止まない雨がないなら、照り続ける太陽もない。ただ、今は未来なんてどうでもいい。

なんといっても、お楽しみはすぐ先なのだ。

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