第41話 壁ドンの日

「梅雨は雨が多くてお買い物しにくいですね……」


 しとしとと雨が降る日。トキは買い物袋下げ、傘をさしながらそんなことを呟いた。足を踏み出せばアスファルトにうっすらまとわりついた雨水がピチャリと音を立てる。濡れると気持ち悪いのでいつものタイツは履かずに、珍しく靴下を履いている。だが、代わりにその靴下が濡れてしまい体重をかける事に水が染み出して結局気持ち悪い。


 嫌な気分で家にたどり着き、その扉を開ける。


「ただいま戻りました……」


 靴と靴下を脱ぎ、裸足でぺたぺたと廊下を歩いてリビングの扉を引く。いつもはすぐに聞こえてくるツチノコの「おかえり」がないので暗い気分のトキがさらに凹んでしまった。単にトキの「ただいま」が小さな声だったのでツチノコが聞こえなかっただけだが。


 リビングにツチノコは居た。珍しくテレビの画面を食い入るように見ていて、トキが部屋に入ってきたのにも気が付かない様子だった。


「えと、ただいま?ツチノコ」


 そうトキが声をかけたら、ツチノコの肩がビクンと震えて慌ててテレビのリモコンを操作する。テレビから聞こえる音声がそれまでとまるで違うものになり、別のチャンネルに切り替わったことが画面を見ていないトキにもわかった。


「お、おかえりトキ……ごめん、帰ってきたの気が付かなかった」


「大丈夫ですよ?ツチノコがそんなに夢中でテレビ見てるなんて珍しいですね?」


 またツチノコの肩が震えた。


「そ、そうか?」


「ええ。なんの番組だったんですか?」


「え、あ……あ!トキ、今日の晩御飯なに?」


「へ?今日は……」


 その後は晩御飯の話になってしまった。トキはツチノコが見ていたテレビが気になってモヤモヤしていたが、二人で食卓を囲む頃にはそんなことは忘れてしまった。





「なんだか久々に晴れてる気がしますね、じめっとはしてますが……」


 それから一週間後。オレンジ色の空の下、トキは買い物袋のみを手にして、バサバサと空を飛んでいた。雨の日に飛ぶのは服が濡れやすいので基本的に歩きなのだが、普段一人で買い出しする時はこうして飛んで移動する。


 とんっ、と軽い音と共に家の前に降り立つ。玄関に向かって歩こうとするところで、ふと立ち止まる。そのトキの目線は、外からよく見える窓に向けられていた。

 トキとツチノコの家のリビングには雨戸が着くような大きな窓があり、そのすぐ横にテレビやソファを置いているのでカーテンを閉めていなければ中の様子が外からもよくわかるのだ。


 トキは無意識のうちに隠れるような姿勢をとる。壁に張り付くような形で、顔だけひょっこり出して外からリビングの様子を探る。

 見えるのはツチノコ。テレビの前のソファには座らず、立ち上がって興奮気味に尻尾を振っている。そのツチノコの目線の先はテレビの画面。トキからは見えにくいが、学生服の男女が学校の廊下にいるシーンのようだった。女の子が壁に背をつき、男の子がその前に立って何やら口を動かしている。


 ふと一週間前のツチノコを思い出し、納得する。ツチノコの性格を考えると、こういった番組に見入っていたことがバレるのは少し嫌がりそうな気がした。


 そして、トキにはそのシチュエーションに見覚えがあった。まだツチノコと暮らすようになって日が浅い頃、図書館に行くたびにそういった小説……女の子同士の、そういった小説を読まされていた。コノハ教授とミミ准教授の百合教育である。トキも普通に楽しんでいた。テレビの中の男女がこの次どういった姿勢になるのかは容易に想像できた。


 ドンッ。と、音が鳴ったであろう勢いで男の子が壁に手をつく。その壁と男の子の間にいるのが女の子。壁ドンというやつだ。


(まあそうでしょうね……ベタですけど私はそういうのも好きですが……あれ?)


 テレビの画面から、テレビに釘付けになったツチノコに目を移したトキ。そして、今までなかなかツチノコが見せなかった表情を目にする。


 頬を染めて、胸に手を当てて、口をぽかんと開けて、目を見開いて。キュンキュンしてますという感じの表情。


 キュンキュンなツチノコをみて、トキがキュンと来たのは言うまでもない。思わず頭を引っ込めて、ツチノコから絶対見えないように位置に移動する。


 一、二回深呼吸をする。そして、これからのことを脳内シュミレーションする。『これから』とは、今から家に入ってどうしてあげようということだ。


(ツチノコの事だから、壁ドンしてみたがるんでしょうね……私がツチノコのことを壁まで誘導すれば自然な流れでできるでしょうか?あ、でも私が『受け』の姿勢にならないとツチノコもやりにくいでしょうし……)


 色々思考した上で、トキは結論を出した。


(なるようになるでしょう!)


 割と適当な感じで。ツチノコの望み(?)を叶えるべく、意を決して家に入る。


「ただいま戻りましたー!」


 わざと大きめな声で。こうすればツチノコもトキの帰宅に気が付き、早めにテレビを消すだろうと思ったのだ。案の定、ツチノコは慌てることなく廊下に出てきた。


「おかえり、トキ」


「ツチノコ、買ってきたやつ冷蔵庫に詰めるの手伝ってもらっていいですか?」


「もちろん」


 二人でリビングを通り、直結しているキッチンに入る。冷蔵庫を開けて、トキが買ってきた食材を綺麗に収納していく。それはただの作業で、二人でどうでもいい話をしながらそれを終えて冷蔵庫の扉を閉めた。


 そして、トキがすくっと立ち上がる。壁を背にして「ツチノコ」と声をかけた。


 ツチノコはきょとんとした表情で、「どうした?」と返す。トキと顔が合うように、体をトキに向ける。


 ツチノコが壁を向き、トキがその間に挟まる形。後は、ツチノコがもう一歩踏み出して壁に手をつくだけ。ただ、ここで自然と壁ドンが出てくるわけもないのでトキが素直な言葉を出す。


「したいこと、あるんじゃないですか?」


 そう言い放つトキは、夕日に当たって美しいオレンジがかかっていた。


 ツチノコの胸に何かが走る。


 同時に、鼓動を強める。


「な、なにを……」


「うふふ、ツチノコのことはお見通しなんですから」


「え、や、あの……」


 ツチノコが頬を赤く染める。もじもじと落ち着かない様子。いつもは積極的なツチノコがこうも恥ずかしがるのはなかなか珍しいので、トキが勇気を振り絞ってツチノコの手首を掴む。そして、自分の後ろの壁にその手のひらがつくように引っ張る。


 トン。


 壁ドンと言うには優しい音だが、形式としてはまさにそれである。それでもまだツチノコの踏ん切りがつかないようなので、トキは目をゆっくりと閉じる。さらに、少しだけ唇を突き出すようにして……


「と、トキ?」


 今まさにキスを、というシーンでツチノコが口を開いた。トキとしてはツチノコがやりたいのだろうと自身が恥ずかしいのを我慢しているのに、こうもノリが悪いと少しムッとしてしまう。かと言ってツチノコの話を無視するわけにもいかないので、ちゃんの次の言葉を待つ。


「あの、私、その……」


 やっぱりもじもじ。言うのを躊躇っているようだが、少し時間を置いてからポツリと吐いた。


「私が、壁側がいい……」


 その言葉から数秒の沈黙があった。やっとトキがその意味を理解し、今までの自分の勘違いの恥ずかしさと行っていたことの恥ずかしさが同時にやって来て、トキも真っ赤になる。


「ご、ごめんなさい!私ったら勝手に先走って、てっきりツチノコはそっち側かと……」


「うん、いや、こっちこそごめん……」


 お互いに顔を赤くしたままうつむいてしまい、そのまま動かなくなる。何を喋っていいかわからず、モヤモヤとした時間が過ぎる。


 数分して、先に口を開いたのはトキだった。内容は提案。


「せ、せっかくだから、しますか……?」


 ツチノコは言葉で返さなかったが、しっかりと頷いてみせた。トキはそれをOKサインとして、そそくさとバツの悪そうな感じでツチノコの後ろに回る。ツチノコも振り向き、トキとツチノコの位置関係が先程の逆になる。ただ、トキがピッタリと壁にくっついていた先程とは違い、ツチノコと壁の間にはトキ一人分の間があった。


 その分、ぐっとトキが歩を進める。意外に力強い一歩に、ツチノコは気圧されて一歩下がる。そのままもう一歩、もう一歩とだんだんスピードアップして、最終的にはツチノコの背中が壁についた。それから一瞬遅れて、ツチノコの横でドンッと勢いのある音がする。音の源には、トキの左手が突き立てられていた。


「え……は……ぁっ」


 ツチノコはさっきテレビを見ていたようなキュンキュン顔だった。だが、程度がそれよりもずっと上。息を荒くし、吐息混じりに変な声が出てしまっている。


 そして、そのツチノコの顎をトキがくっと手を当てる。そして、くいっと優しく引き、どちらかといえば背が高いトキと綺麗に目が合うようにする。


 ツチノコは口を結び、目をゆっくり閉じる。


 トキも目を薄くしながら、唇をツチノコの唇に。


 。





















「お、思ったよりドキドキしました……はずかしい……!!」


「私も……でも、でも……よかった……」


「今度は逆もしたいです……」


「うん、がんばる……」


 本日も平常運行、これが日常です。






















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