空蝉の卵

蓮見 悠都

空蝉の卵

 俺はなにもない人間だ。


 そう気付かされたのは、ここ数年のこと。言い換えれば、世間を知るってことだ。


 世間を知って、相対的に自分の立ち位置を思い起こしたってわけ。俺なんて、観衆の一人でしかないってことを。


 死に際の蝉が鳴いている。8月31日。


 もう、夏も終わる。


     ×    ×    ×


 野球のグラウンド。屋根つきのベンチがあり、意外と設備がよさそうだけどプロの二軍さえ来たことのない地味な場所。

 

 夕方、俺は散歩ついでにここに寄った。いや、本当はこっちのルートを選ぶはずではなかったが、道で同じ部活だった奴を見つけ急いで引き返した。5ヶ月ほど顔を合わせてない、という理由よりかは別々の進路にしたから別離するのは必然だ。


 逃げた、という表現が正しいのかもしれない。


 俺は小さくため息をついた。何やっているんだと。堂々と正面から受ける覚悟も、根性もないことを表してるようじゃないか。

 逃げるが、勝ち。それで世間は許してくれないのか。


 階段に座り、グラウンドの彼方を眺める。夕日が、今日も一日の役目を終えて境界線向こうへ消えていく。その残像であるオレンジ色の光が雲に混じり、ぼんやりと照らしている。

 俺はその景色に胸が掴まれ、スマホでパシャリと写真を撮る。それをどうするわけでもない。友達と共有するわけでもネット上にアップするわけでも印刷をするわけでもない。ただ、この夏の終焉を見ているようで、ぼんやりと感動していただけだ。


 この感情が、いつまでも続ければいいものを、と。


 足がかゆい。虫だ。虫に刺された。チッ、と舌打ちして丸くプクッと膨れ上がったところの周辺を爪を立てて掻く。だからといって、かゆみは止まらない。小さい頃、掻けば治ると信じて掻きつづけたもののかゆみはおさまらず、しまいには血が出てきた記憶がある。

 単純な作業だけでは、そううまくはいかないんだと知った。

 だから、我慢する。時間が経てば治ることに気付いたからだ。


「帰るか」


 そう呟き、立ち上がった。これ以上、蚊に刺されるのは御免だ、と。


 明日はもう学校だ。夏をただ浪費したように思えてくる、この喪失感はなんなのだろう。もっと、俺にすべきことがあったんじゃないのか、と自問自答してしまうのはどうしてなのだろう。

 

     ×    ×    ×


 俺は家に帰り、俺は机に乗った参考書やプリントが視界に入った。夏休みの宿題。まだ、すべて終わっていない。これからやったとしても、どうせ間に合うはずがない。


 俺はその現実から避けるように、ベッドで仰向けになった。もう、なにもする気力もない。しなければいけないことはあるのに、明日でタイムリミットなのにやる気が起きないのはどうしてだろうか。


 誰か、解明してほしい。


     ×    ×    ×


 適当に時間を潰して、気付いたら日付が変わっていた。


 終わった。


 俺は寝転んだベッドで暗がりを見ていた。カーテンの隙間から差し込んでくる、外の街灯が唯一の部屋の光。それもわずかな量で、結局は漆黒であることに違いはない。


 ブブッとスマホが震えた。誰だこんな時間にと送ってきた相手の名前を見ると、息を飲んでしまった。


 堺栞奈さかいかんな


『今すぐ、三中のプールに来て。水着を持参すること』


 こういう文字が送られてきた。


 また、何をやっているんだか。正とも負とも出せないまま、俺はスマホの画面を見つめた。


 すぐさま、ブブッと着信を知らせてくる。


『もし来なかったら、あたしはあなたを恨む』


 小学生でも思い付きそうな脅しだ。でも、それが俺に対する一番の攻略法だと彼女は知っている。


 俺はため息を一つつき、ベッドから体を起こした。


     ×    ×    ×


 親に見つからないよう家をすり抜け、自転車を引っ張りだして夜の街を漕いでいく。

 カンナは、何の用があるのだろうか。夜中、しかも数時間後には学校が始まるタイミング。狙っているとしか思えない。

 あいつのことだ。どうせ、理由も曖昧なまま適当な行動をしているのだろう。それに振り回されてきたこっちの身にもなってみろっつーんだよ。


 愚痴を吐きつつ、つい数ヵ月前まで通っていた中学校に到着する。近くの通路に自転車を止め、手ぶらのままプールへ近づく。

 無人であるはずの学校は、どこか気色悪かった。学校の構造が作り出してくる影から、科学では説明できない生物が溢れでできそうである。

 俺は裏門の近くの荒れ果てた柵から内部に侵入し、プールのほうへ向かった。


「あ、来た来たー」


 その声を聴くのが、たった数ヵ月しか間が空いていないのに、懐かしくて懐かしくてたまらなかった。


 ふっ、とプールの周りを張りめぐらされている金網によじ登って、プールサイドに着地した。


「よっ」


 カンナは水から顔を出して、新たな不法侵入者を迎える。


「なにしてるんだよ」


 まずは、彼女の行為に反感を醸す必要があったので呆れてみたが、それを無視してカンナは言った。


「ちょっと、リンドウ。水着を持ってこいって言ったよね」


「その前にいいか。お前はなにをしているんだ」


 不満げに、彼女は目を逸らす。「なにって……見りゃ、分かるでしょ」


 おおげさに、肩をすくめてみた。「そんなに泳ぎたいのかよ」


「そういうわけじゃない」


「じゃ、なんで」


「楽しいからよ」


 そのままの、なんとも正直な言い訳だ。


「安心しろ。水着は中に着ている」


 途端に、カンナの目が輝いた。


「そうっ、それでこそリンドウよ」


 そう言われてもなあと俺は苦笑するしかなかった。



     ×    ×    ×


 久しぶりに水に浸すこの感覚は、頭ではなく体が覚えていた。


 見れば、カンナはすいすいと水を進んでいく。そのフォームは美しくて、速い。


「お前、高校でもやってるのか」


 大声を出さなくても、周りの静けさのおかげで十分響く。


「当たり前じゃないの」


「そうか」


 俺は俯いて、そう返事をした。


「リンドウは?」


 平然と訊いてくる。意識しているのか、ただの天然なのか。


「やってるわけねえだろ」


「なんで?」


「ブランクが、ありすぎるっつーんだよ」


 ぬるさの中に、冷たさが混じったような水。水面にはところどころゴミが浮いていて、決して清潔とはいえない。


 しかし、そこには真夜中の月が鏡のように映っていた。俺は、これが特別で自分だけの物のような感覚がして、ぼんやりとその月を見つめていた。


「学校の授業では?」


 カンナの質問で我に返った。


「なにが?」


「水泳の授業」


「ねえよ」


「なーんだ、もったいない」


 そう口を尖らせたカンナは、こちらに向かってきた。月明かりに当たり、ようやく近くで見れた彼女は、子供がイタズラをした時のような笑顔になっていた。


「競争しよ。100メートルクロールで」


「やだよ。一切やってないんだぜ」


「まあまあ。夏休みはどうせ、家で引き込もってたんでしょ」


 部活に入っていない俺の内情を知っているようで、ちょっとドキッとした。


「はい、あたりー。ほら、やるよ」


 拒否を重ねても、無駄に時間を費やすだけだ。


「しょうがないな。いっとくけど、本当ににぶってるからな」


「いいのいいの。楽しければ」


 楽しい……ねえ。できる奴にそういうこといわれると、余計腹立つのを知っているのかよ。


「よーい、どん!」


 カンナの掛け声で、俺たちは一斉に壁を蹴った。


 開始早々、体に軽く痛みが走ったが、我慢して腕を回した。息継ぎで顔を上げるとき、カンナの位置を確認する余裕すらなく、ただ無我夢中で水の中を進んでいった。


 ようやく到着。もちろん惨敗。


 イエーイ、と手を上げて喜ぶカンナをよそに、俺はプールサイドの段差に腰を下ろして息を整えた。


「なんだよもうー、弱っちいな」


「いきなりこんなハードをやられて、疲れないわけないだろ」


「まだまだあ、続けるよ」


 俺は、死なない程度に付き合ってやろうと思った。


     ×    ×    ×


 それから数時間、カンナ泳ぎに付き合わされて、体力をなんとかコントロールしながら堪えきった。


 ちょっと休憩しよう、というカンナの提案で、俺は息をついた。ようやく、休めると。

 彼女が先にプールサイドに座った。その背後には、新しい太陽が境界線の近くまで昇ってきている。その姿が光に照らされ、俺は目を見張った。


 きれいで、美しくて、俺の感情を揺さぶってくるような。


 俺はその場を離れられず、数秒その立ち位置に留まったままだった。


「なに見てるの」


 カンナはこちらの目線に気づいたようで、怪訝な顔をしてくる。


「いいや」


 俺は笑みで返して、水中から出る。


「なによ、その顔。怪しいなあ」


 濡れた長い髪を振りながら、カンナはそう言ってくる。俺はなにもしゃべらずに、彼女と一人分の間隔を開けて座る。


「あーあ、気付いたらもう朝だよ」


「学校……」


 俺はぼそりと呟いて、その単語を口にした。


「リンドウはさあ、どうして地元の学校に行かなかったの?」


 決まってる。お前がいるからだよ。


「別に。特に理由はねえ」


「もうやらないの」


「水泳?」


「うん」


「さあね」


 そう誤魔化しといたが、心は決まってる。


「帰るか」


「そうね」


 二人同時に、ゆっくりと立ち上がった。


     ×    ×    ×

 

 金網から下に降りるとき、さすがに警戒しながら足を離した。着地成功。続いたカンナは、一切迷いなく地面に降り立った。


 柵から外部へ抜け出して、側を通る車に睨まれないようにしながら歩く。


「ありがとね」


 カンナが礼を言う。


「なにもしてねえよ」


 俺はそう返事して、止めてあった自転車のハンドルを握る。


「なあ、カンナ」


「なに?」


「……困ったことがあったら、言えよ。相談に乗るから」


 二人の中に、沈黙が引き起こる。俺はカンナの顔を見ることかでぎず、明後日の方向に目を逸らしていた。


 やがて、ぽつりと声が出された。


「……アホ」


 俺は恐る恐るカンナの表情を探った。彼女は続ける。


「でも、ありがと」


 それは、夏の最後にピッタリな笑顔だった。そこに当たっていた朝の光が、引き裂かれるものかとばかりに、映し出されていた。

 

 




 

 









 









 


  



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