第4話
「あら、いらっしゃい」
「こ、こんにちは……」
町の一角にある雑居ビル。その中に佇むカワウソカフェ、『カワイイカワウソカフェ』の中に1人で足を踏み入れたリョウコを待っていたのは、普段通りの柔らかく優しい心に大人の色気を混ぜたような、美人店長の笑顔であった。普段なら店長の傍で愛らしい表情を見せるコツメカワウソたちの方にまず目が行く彼女であったが、今回はそのような気分ではなかった。心の中に渦巻く形容しがたい不安や恐怖を沈めてくれるのは、いつも頼りになる店長だけだ――そんな縋るような思いで心がいっぱいだったからである。
とは言え、カフェに来たからにはまず飲み物を一杯飲むのが先決である。店長が直々に振る舞ってくれた抹茶ラテの味は、普段よりもどこか美味しく感じた。そして同時に、周りのケージの中で寛いだりせわしなく動き回るカワウソたちの自由気ままさを眺めていると、ついリョウコは自分の抱えている悩みがちっぽけなもののように思えてきた。細かいことは気にせず、のんびり生きることが大事だ、と無言で伝えるかのようにも見えた。それでも、今伝えないと絶対に後悔してしまう、と考えた彼女は、今日もカワウソとのんびり過ごさないか、と誘ってきた店員の言葉を敢えて断った上で、社長にはっきりと告げた。自分の悩みを聞いて欲しい、と。
「悩み、ねぇ……」
「あ、あの、すいません……営業妨害になったら……」
「……ふふ、心配はいらないわ。貴方の話、たっぷり聞いてあげる」
常連さんの悩み、解決させてあげない訳にはいかない――優しくも頼もしい一言に、リョウコは一瞬目頭が熱くなるほどの嬉しさを感じた。大事な友達にも打ち明けることが出来ない、いや正確にはその『友達』だからこそ相談する事が出来ないであろう悩みでも、きっと店長は真摯に聞いてくれるはずだ――彼女は、傍にいる美貌の持ち主を心から信頼しつくしていたのである。
店番やカワウソの世話を他の店員に任せつつ、店長はケージの中から顔を出した一頭のカワウソを肩に乗せ、彼女を店の奥へと案内した。突き当りにある扉を開いた先に広がっていたのは、椅子とテーブルが並ぶ小ぢんまりとした部屋だった。そして、リョウコがゆっくりと椅子に座ったのを確認した後、店長はそっと扉を閉めた。
「あれ、そのカワウソは……」
「私の事をすごい気に入ってるらしいの。離れると寂しがっちゃってねぇ……ふふ」
「そうなんですね……」
その言葉に同意するように頷くカワウソの仕草に癒されつつも、リョウコはゆっくりと言葉を紡ぎ、ずっと抱き続けていた不安や恐怖を店長に打ち明けた。
大事な友人の様子が、少し前からおかしくなっているような気がする。何がおかしいか、それをはっきりと言う事は難しいけれど、苦手だった魚を食べるようになったり大人風のメイクにこだわったり、今までの友達とは明らかに違う行動を取るようになったのは確かだ。もしかしたら当の本人が言ったように、単に趣味嗜好が変わっただけかもしれないし、自分の思い違いかもしれない。でも、心の中にある変な心地をどうしても無くす事が出来ない――。
「……友達が『友達』じゃなくなってる、そんな気がして……」
「……嫌われてる、って思ってるのかしら?」
「い、いえ!そんな事はないです……まあ動物へのマナーは凄い悪かったですけど……でも、みんな大事な友達なんです……」
――何が正しくて何がおかしいのか、自分は正しいのか間違えているのか、どうすれば良いのか全く分からない――ずっと抱え込んでいた思いを吐き終わったリョウコを、カワウソを肩に乗せた美人店長はじっと眺め続けていた。そしてしばしの沈黙の後、店長は彼女の考えをゆっくりと、しかしはっきりと述べ始めた。リョウコの苦しみの根幹にあるのは、ずっと抱え続けていた常識が崩れていく事かもしれない、と。
「常識……ですか?」
「端的に言ってしまうとそうなっちゃうけど、要はリョウコちゃんの中にある様々な固定観念かしら」
「固定観念……」
あの子は魚が嫌い、あの子のメイクは子供っぽい――仲の良い友人が相手でも、何度も顔を合わせていくうちにそう言った考えは必ず生まれてしまうもの。それが突然変わってしまえば慣れるのには時間がかかるものだ、と店長は丁寧に語った。悩めるリョウコには、その美貌が様々な知識や思いを蓄えた、女神の顔のようにも思えた。
「新しい常識に慣れるのが、一番理想的な案だと思うわね」
「そうですか……」
やっぱりそうなりますよね、と返したリョウコであったが、それでもなお彼女には不安が残っていた。店長の言う通り、変わってしまった友達を受け入れるにはそれなりに時間がかかるもの。もしその間に自分が耐え切れず、大事な友達を拒否してしまったとしたら――心の中に沸いた新たな疑問、そして自分を助けて欲しいと言う思いを、彼女は改めて店長に伝えた。
「どうすれば……どうすればいいんでしょうか……」
再び流れた沈黙の時間の後、店長はある『面白い話』を語り始めた。何十年も前に姿を消し、少し前に完全に絶滅した、という宣言が出された動物――ニホンカワウソだ。
「ニホン……ニホンカワウソ……?」
「ええ。絶滅した、もうこの世界には1頭もいない、なんて言われている動物ね」
「そ、そうですけど……」
一瞬店長の言い回しが気になったリョウコだったが、まるで心の中に直接語り掛けてくるような言葉を彼女はそのまま聞き続ける事にした。きっとこの不思議な例え話の中に、不安や恐怖を退けてくれるヒントが隠されている事を願いながら。
「例えばだけど、もしニホンカワウソが生きている、なんて言われたら信じるかしら?」
「……嬉しいですけど……正直、あまり信じないかもしれないです……」
生物の分野に詳しい身としては、環境破壊や乱獲などによって人間に追い詰められ、保護政策もうまくいかないまま姿を消してしまったという動物が、そう簡単に顔を出すなんてすぐに信じる事は出来ない――自分の意見を述べ続けていた時、ふとリョウコはある事に気が付いた。この『ニホンカワウソは絶滅した』と言う考えこそが、店長の言う『固定観念』、どうしても受け入れがたい目の前の現実なのだ、と言う事に。少しづつ落ち着きを取り戻し始めたリョウコに対し、店長は更にこんな言葉を投げてきた。自分が信じられない常識を受け入れたいのなら、違った観点から物事を見るのも大事だ、と。
その言葉を聞き、更に心のもやもやが晴れたような嬉しい感触に包まれ始めたリョウコであったが、次に店長の口から出た言葉は、彼女にとって意外なものであった。ニホンカワウソの生き残り方はカワウソとしてだけとは限らない、と。
「……どう言う事ですか?」
「……リョウコちゃん、『妖怪』は勿論知ってるわよね?」
「え、ようかい……知ってますけど、それが……?」
唐突に現れた、それまでの科学的な話と全くかけ離れた単語に一瞬戸惑ったリョウコであったが、続く店長の補足を聞いてようやく何を言っているのか把握することができた。ニホンカワウソという生物種ではなく、それを基に人間たちが想像した『妖怪』としてのカワウソなら、彼女も聞いた事があったからだ。キツネやタヌキのように美女や怪物など様々なものに化け、人間たちを翻弄する恐るべき怪異――かつて日本に暮らしていたというカワウソが持つ、もう1つの側面だ。
「ふふ、よく知ってるじゃない」
「ありがとうございます……前に調べていた時に少し書いてありまして……」
「あら、そうだったの。随分詳しく書かれた本ね」
「そうですねー……」
店長との会話が盛り上がる中、不意にリョウコの心の中に、ある1つの仮説が浮かんだ。そして、彼女はついそれを口に出してしまった。
「……あ、あの、もしかして店長……私の周りの異変の原因は『妖怪』だって……」
「あら、どうしてそう思ったのかしら?」
「……ご、ごめんなさい!つい……!」
直後、彼女は自身の言葉を必死に謝った。日頃の違和感を空想の存在である『妖怪』のせいにするなんて、幾ら尊敬する店長とは言え非科学的すぎるし、絶対に言うはずはない、と彼女は考えていた。だからこそ、彼女は店長を馬鹿にするような思いを口に出してしまった事を謝罪したのである。
「……そうですよね……妖怪なんて……」
「いるはずがない。どうしてそう言い切れるの?」
「……え?」
返ってきた店長の言葉は、口調こそ先程と同じ、真剣さの中にどこか艶やかさを秘めている経験豊かな大人の女性のものだった。だが、リョウコは明らかに何かが違う事を直感で感じた。3人の友達に対して抱いたふんわりとした違和感ではない、明らかに、店長の雰囲気が変わったのだ。
「ニホンカワウソは、確かに人間たちの前から姿を消した。このカワウソカフェにいるカワウソたちも、全員コツメカワウソと言う別の種類。リョウコちゃんたちにはそう感じるのかもしれないわね」
「あ、あの……何を言って……」
だけど、それは本当なのか。自分が信じている『常識』は常に正しいのか。あの時伝えた言葉を疑った事はあるのか。
語り続ける店長の瞳から、少しづつ光が消えていった。
「て、店長……」
「……もう1つ、言いたい事があるわ。リョウコちゃん……」
何故『妖怪』と言う存在を、馬鹿にするのか。
そう言いながらゆっくりと微笑み始めた店長を見た瞬間、リョウコは自分の中の血が一瞬にして凍るような心地を覚えた。例えて言うなら、今の彼女は美味しい獲物。目の前にいるのは、その獲物をどのように味わおうか、舌なめずりしながら楽しむ肉食動物。このまま大人しく店長の話をこの小さな部屋で聞き続けていれば自分がどうなってしまうか、それは最早考えずとも分かる事。店長がどれほど信頼できる『人物』だとしても、今しなければならない事はただ1つ――。
「……あ、あの、すいません、ちょっと用事が……」
――顔にひきつった笑顔を見せたまま、リョウコは何とか出まかせを言ってこの部屋、このカワウソカフェから逃げ出そうとした。しかし、ドアノブに手をかけようとした瞬間、彼女は足に何かが絡みついている事に気が付いた。そこにいたのは、先程までずっと店長の肩の上で寛ぎ、会話の成り行きを見守り続けていたあのコツメカワウソだった。優しく抱え上げ、その場所からどかそうとした瞬間だった。そっと持ち上げたカワウソが、リョウコの焦る表情をじっと見つめ――。
『もう、逃げちゃだめじゃない。まだ話は終わってないのよ?』
――カワウソカフェを営む美人店長と全く同じ声で話しかけてきた……。
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