電車の中の小さな笛吹き

ひろせあお

電車の中の小さな笛吹き

 クリスマスも夕方になろうかという時刻、賢一はやはり仕事に追われていました。勤務先の工場で不調に陥ったベルトコンベアーを早急に稼働させるにはどうしても特殊な型のボルトが必要で、そのためには街の遥か郊外にある部品工場まで急行しなければならなりませんでした。しかし、大急ぎでつないだ電話のやりとりに勘違いがあり、ようやく辿り着いたところまではよかったものの、あると思っていたサイズのボルトは結局本数が足らなかったのです。

 賢一は落胆して工場を後にしました。前日から降り続いた雪のせいで、郊外の工場町は一面真っ白になっていました。積雪のため自動車道が不通となり、かろうじて電車だけが動いていたので、賢一は上司に命令されて本数の少ない単線の電車にぎりぎり飛び乗りましたが、結果はこの有り様でした。

 駅のホームで帰りの電車を待つのは賢一だた一人きり。やがて薄暗闇の中から浮き上がるように近づく車両が見えました。一両きりの電車が背中に雪を背負いながらホームにゆっくりと滑り込み、徐にドアを開け、待ち侘びた賢一を招き入れます。わずかばかりの先客が座っているだけでした。

 暖房がやたらと効いた車内は、どの窓も曇って結露していました。徐行運転の末にようやく次の駅に到着すると、開いたドアから大小様々な雪の粒がいくつも舞い込んできます。集落でもあるのか客は賢一を残してみんな降りてしまいました。運転席はカーテンのついたガラス戸で仕切られているため、運転手の姿は賢一がいる場所から目にすることはできず、車内は事実上彼一人となりました。

 賢一は肩を落として座っていました。電車に乗る前、携帯電話で上司に電話したところ、ひどく叱られ、会社に戻ればまた一から叱られなくてはなりません。

 ――おれってつくづくドジだなあ。就職してもう三年だと言うのに、怒られてばっかりだ……

 まだ足りないのか――そう思われるほどため息が溢れます。何と悲しいクリスマスでしょうか。しかし、逃げ出すわけにもいかず、とにかく会社に戻らなくてはなりません。待たせている上司をこれ以上不機嫌にさせるのは避けなければ……

 と思った矢先のことでした。ガタゴト揺れていた電車が急にブレーキをかけて止まりました。何事かと戸惑っていると、やがて車内放送がかかり、先方の駅手前の線路で除雪作業をしなければならない、今しばらく停車する、と言うではありませんか。賢一は思わず頭を抱え込みました。

 ――これじゃあ、上司を怒らすばかりか、会社をクビだ……

 北風のようなため息が繰り返し溢れました。これではまるで軟禁されているのと変わりません。曇った窓を掌で円くこすって外の様子を窺うと、相変わらず雪がしんしんと降り続いていました。賢一は拝むような気持ちで、

 ――頼むから、止んでくれ……

と、心の中で何度もつぶやきました。

 腕時計を見ると五時を過ぎたところ……いや、そんなはずはない、工場を出る際、入り口に掛けてあった時計はすでに五時を回っていた、あれから優に三十分は経っている。コートの胸ポケットから出した携帯電話で時間を確認してみると、案の定あと十五分ほどで六時になろうかというところでした。腕時計は父親が長年大切に使っていたもので、賢一が就職した折りに譲り受けたものです。アンティークな作りで最初はもの珍しかったのですが、このところ遅れがちなため、いらいらさせられることも一度や二度ではありません。正しい時刻に合わせて竜頭を巻き直そうかとも思いましたが、電車が進まない苛立ちをぶつけるようにして荒っぽく手首からベルトを外すと、コートの内ポケットの奥に仕舞い込んでしまいました。

 すると、そのときです。ドレミファソラシド、ドシラソファミレド、ドレミファソラシド、ドシラソ……

 賢一は驚いて辺りを見回しました。自分だけになったと思っていた車内に実はもう一人乗客が残っていたのです。隅っこの席に小学生の男の子がいて、どこにでもあるようなリコーダーをそんな調子で吹いていました。

 子供とはいえ電車の中で笛を吹くなんて、一体親の躾はどうなっているのだと憤りを感じましたが、立ち往生した電車の中で退屈になるのも無理ないことかと賢一は考え直しました。すると、男の子は手ならしが終わったと見え、意気揚々と本格的な演奏を始めました。ジングルベール、ジングルベール、鈴が鳴るう――クリスマスにはぴったりの曲。しかも、小学生にしてはなかなかの腕前で、賢一は思わず聞き惚れてしまいました。彼もかつてはリコーダーが得意で、小学生だった頃の情景が目の前に浮かぶようです。

 しかし、窓の曇りを拭った円い跡の向こう側に、さっきよりも勢いの増した雪がまるで吹雪のように飛び交うのがふと目に入ると、賢一は急に現実に引き戻され、男の子の陽気で威勢のよい演奏がかえって腹立たしいものに思えてきました。

 我慢することができず思わず男の子に詰め寄ると、男の子はすっと両手の指を止め、リコーダーからつぼみのような唇を離しました。

「電車の中で笛を吹くなんて、お行儀が悪いじゃないか。しかも、電車が雪のせいで動かないようなときに、そんな浮かれた曲を吹くなんて、ばかげてる。ますます雪が強まったように思えるじゃないか」

 冷静に言い諭すつもりでいましたが、途中から変にむきになってしまい、そんな大人気ない自分が恥ずかしく思えて賢一はますます苛立ちを覚えました。

 すると、男の子は何ら臆する様子もなく、

「じゃあ、おにいさんは早く帰りたいの?」

と、尋ねてきました。賢一は、もちろんだ、と答えかけましたが、思い直します。急いで帰ったところで、上司に叱られるのが早まるだけ。自分はいったい何に急かされているのだろうか……

「分かった、分かったよ。好きなように吹いたらいいさ」

 男の子は、それなら、という顔でリコーダーに再び唇を押し当てます。流れてきたのは、『きよしこの夜』。夜と言うには少し早い時間でしたが、外はもうほとんど真っ暗でした。

 賢一は男の子の向かい側に腰かけます。心に音が染み渡り、目を閉じると幼かった頃の思い出がよみがえってきます。両親を前にして、きょうだい三人でやはり『きよしこの夜』。一番年長だった賢一は目の前の男の子のようにリコーダーを吹き、幼い妹と弟がそのメロディーによちよちと歌詞をのせます。それを教えた自分自身も意味はろくすっぽ理解しないままでしたが、楽しい時でも厳かに振る舞うことで得られる幸せを感じながら指を動かしていました。

 思えば、今では白髪の増えた両親とも、自分同様すっかり大きくなった妹と弟とも長らく会っていません。賢一が家族の住む故郷から遠く離れてしまったからです。たまに電話で話をすると、

「ちゃんと食べて働き過ぎんのよ。体に気をつけにゃあいけんよ」

と、母親から何度も釘を刺されるものの、賢一はそれに対して「はいはい」と生返事をするばかりでした。

「みんな元気にしているだろうか。今夜はどんなふうに過ごしているんだろう?」

 賢一はリコーダーが奏でる音色に吸い込まれていきました。


「お客さん、着きましたよ」

 気がつくと、賢一を乗せた電車は出入り口を開け放って終着駅のホームに止まっていました。声をかけた運転手は、賢一をひとり残して電車からホームへと足早に降りて行きます。知らぬ間に動き出した電車の物音に目を覚ますことのなかった自分は、リコーダーの甘く切ない音色に余程引き込まれてしまったらしい――そう思いながら周りを見渡しましたが、男の子の姿はどこにもありません。終点に着くやさっさと出て行ってしまったのか、あるいは途中の駅で降りてしまったのか……

 賢一は時刻を確かめようと、着っ放しのコートの袖をまくって腕時計を見ようとしましたが、さっき腹立ち紛れに外してしまったことを思い出し、携帯電話を取り出しました。まもなく七時になろうとしていました。ちょうどきりのいい時刻なので、腕時計の針を直してやろうと思い、賢一はコートの内ポケットに手を入れたが、どんなに奥を探っても時計の金属にも革のベルトにも指が触れることはありません。父親から譲られた大事な時計を失くしたのではないかと、賢一は立ち上がり、上着からズボンに至るまであらゆるポケットを調べましたがどこにも気配がありません。

 そのとき賢一ははっとしました。コートの袖をまくってみると、外したとばかり思っていた時計はちゃんと手首にあり、時刻も正確に七時を指していました。

「あの男の子と出会ったのは……」

 賢一は事の始まりを慌てて思い出そうとしましたが、すぐにやめてしまいました。時計の秒針は静かに前へと進みます。

 今年のクリスマスの夜はつらくて寂しいものになりそうです。でも、大晦日には久しぶりに故郷に帰ろう、賢一は心にそう決めていました。

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