非存在

下上筐大

巷にはさまざまな物語が溢れている。

英雄譚、怪異譚—。

いやいや、そんな大げさなものでなくとも人にはそれぞれ特有で固有で唯一の物語がある。それがない人間なんていうのは存在しない。もし、ない人間がいるというなら、そいつは生きているとは言えない。

そしてこれは僕の物語だ。僕の物語はいつもいつもバットエンドを迎える。一体どこで道を間違えたのか。つい最近かもしれないし、僕が幼い時かもしれないし、もしかしたら生まれた瞬間から道を外していたのかもしれない。バッドエンド—僕には悪いように思える結果も人が違えば、それはハッピーエンドなのかもしれない。結局、人によって感じ方も様々だっていうことだ。僕の物語を聞いて、どう感じるかは人それぞれだが、決して僕をかわいそうだとは思わないでほしい。なぜならこれは僕の贖罪の物語でもあるからだ。


僕、月夜待晴つきよまちはれ16歳。高2の嫌いなものトップ3は第1に早起き、第2に満員電車、そして第3に虫だ。

虫。虫が好きな人というのはこの世にたくさんいるが、僕はそんな人とは到底仲良くなれると思わない。虫のその気持ちの悪い見た目。多種多様な大きさ。触り心地。そんなものを全部ひっくるめて僕は虫が嫌いだ。力を少し強く加えただけで、死んでしまうそんなか弱くて儚い存在なのにも関わらず、虫をみると恐怖すら感じてしまう。不快な存在。虫。

そして、僕は身長が180cmある。突然なんの自慢なんだと思われるかもしれないが、決して自慢したいわけじゃない。そうじゃなくて、このくらいの身長だと、布団から足がはみ出るのだ。布団からはみ出た足。当然寝ている時は横向きになってるわけだし、夜に寝ていれば暗いから足元なんか全く見えない。そんな見えない恐怖も手伝い、僕はいつも夜寝るときにはもしも足元に虫がいたら…なんてことを考えながら不安な気持ちで寝ている。それならば、足元隠して、胸隠さずのように布団をかければいいではないかと思われるかもしれないが、胸を出している感覚が好きになれず、やはり足を出すことに落ち着くのだ。

8月某日。僕は夏はクーラーをガンガンにかけて布団をかぶって寝るという極めて贅沢な寝方をしている。この日もいつものようにクーラーのきいた涼しい部屋で、布団をかぶって寝ていた。足もいつものようにはみ出ている。寝るときは虫は怖いが、いつもいつも怯えていたら、寝るのにも一苦労である。だから、僕は寝るときにはいつも考え事というか妄想をしながら寝て、気を紛らわすのである。寝るときに考え事をしていると寝つきが悪くなるのだが、第1に寝るときに考え事をしないで寝る人間なんているのだろうか?僕の場合はそれで気が紛れてなんとか眠りにつけるといった感じなのだが、普通人は寝るときには考え事をするのだと思う。

考え事といっても大したことではなく、そのときそのときで適当にパッと思いついたことについて少し考えるだけだ。気を紛らわすのには最適である。今日もいつものように適当なことを考えていた。考えて、考えていた。

突然、足に何かが触れた。しかもかなり大きいものだ。でかい虫か?と思った。ゴキブリかもしくは蜘蛛かそれとも飼育放棄ででかくなった虫か…いやいや、そんなデカさじゃない。しかも第1に触れたとかじゃなくてその物体は僕の足首を包んだ。まさか蛇!?そこまで考えたところで、僕の体は急激に重くなった。

「ウッ…」

思わず声が漏れる。僕の体重が増えたわけじゃない。僕の体の上に何かが乗っかったのだ。正確には胸の辺りが重い。手はなぜか動かない。まるで締め付けられたように体が動かない。金縛りの類だろうか…それにしては顔は自由だし…

「動かないで…動いたら殺すよ。」

「ッ…?」

女の声だ。高く細くよく通る聞き心地の良い声。女の姿はどこにも見えないが、女の声がする。

「おい、どこにいる?」

「どこって文字通りあなたの上よ。あなたには見えないでしょうけど。」

「……?」

夢なのか?これは一体夢なのか?見えない女の声がして、それでけど重さはあって。

「私は時間限定の透明人間なのよ。」



透明人間—透明。その姿は一切見えず、背景に溶け込むとかじゃなくて、一切見えない。しかし、その存在は世間一般にはSFの世界の存在とされ、物理的ノーフューチャーとまで言われる。そんな存在がそんな非科学的な存在が今僕に乗っかっている…?僕の間近にいる…?

「あなたに拒否権と発言権はないよ。」

「おい…お、」

「喋らないでって言ってるじゃん!!」

その女は透明人間は刃物、恐らくナイフだろうか。を空に掲げ、僕に牽制した。ナイフが意志を持っているかのように空を移動するのを見るのは初めての経験だった。もう二度と経験することもないだろうが。

「動いたり抵抗したりしたら、刺すよ。脅しじゃないよ。」

鋭い刃物を前にしかも見えない敵を前になおかつ体の上で主導権を握った敵を前に、僕のような一般的な高校生が一体どう動くというのだろうか。当然動くはずもなく僕は敵のペースに飲まれていく。

「私はあなたに頼みがあるの。聞いてくれるかしら?」

「……」

僕は無言で頷く。拒否権も発言権もないなら頷くしかない。

「頼みっていうのは山に穴を掘ってきてほしいの。大体の場所を書いた紙を机の上に置いとくからそれ見といて。」

山…山といえば僕らの間で山といったら共通認識として皆んな同じ山のことを思い出す。僕ら高校生だけでなく地元の人間だったら皆んなそこを思い出す。そんな地元にあるメジャーでポプュラーなスポットに穴を開けてこい…?なんだそりゃ

「おい穴って、なんだ…」

「だから喋る権利はあなたにないんだって。」

僕の首元に刃物を突きつける彼女。一度刃物の存在を確認してしまったから恐怖も増すというものだ。

「けど、まあ、なんというか穴を掘る目的はそうね…まあ、私のためよ。だから、頑張って掘ってきてね。そうしたら、命だけは保証してあげる…」

私のためってそりゃそうだろうが…答えになっていない答えを返して女は続ける。

「じゃあ、そういうことでよろしく。来週までには掘っといてね。頼むわよ。」

そのセリフを合図に僕の体は一気に軽くなる。軽くなった。だからといって僕はその場から動くことはできなかった。経験したことのない恐怖。未曾有の危機。すぐそばにせまる死。いやな汗が吹き出ていた。布団が濡れている。

「はあ…はあ…なんだよ一体…」

透明人間の出現。その透明人間からの謎の要求。頭の容量が追いつかない。大体ぼくは物理的ノーフューチャーを信じる性質ではないのだが、あそこまで肌をもってその存在を確認してしまうと、信じるとか信じないのではなくて、存在するものとして認識せざるを得ない。

「訳わかんねえ…」

結局、その日僕は寝ようと思った。思っただけで、実際に寝れた時間は一時間程度のものだろう。決して寝れる状況じゃなかった。虫どころではない。いつでも自分を殺せるという圧倒的優位を取られて、僕はお願い、脅しを受けたのだ。とにかく落ち着くのに精一杯だった。ひとまず、落ち着いてから、かといって何ができるでもなく、僕はひとまず寝た。寝つきは異常に悪かった。頭がボーッして、頭が熱くて、心臓も体に寝るなと指示を出しているようにたくさん動く。それでも何時間も目をつぶっていたらいつかは寝れる。実際僕は寝た。夢は見なかった。


朝八時。目覚まし時計に起こされた。ただでさえ朝に弱くて、その上短い睡眠時間。加えて昨日の出来事。体はこれまでにないほど重たかった。二日間不眠不休でぶっ続けで動き続けたような疲れ。もう学校を休もうかとも思ったが、そうはいかない。うちの家では高熱でなおかつ、親の審査、異常に厳しい審査をクリアしないと学校を休むことはできない。まあ、睡眠時間が非常に短いと微熱くらいは出るものなのだが、その程度では、親の審査はクリアできない。事実僕が休めるのはインフルエンザにかかったときぐらい。インフルエンザにかかってもそれに気づかずに学校に行くこともあったぐらいだ。僕が完全に休んでいいのは、原因不明の病にかかった時ぐらいだろう。


僕がリビングに行く頃には、もう皆んな揃っていた。僕は一人っ子だから、僕のほかは皆んな親だ。「おはよう。」

「んっんーおっはよー♩」

上機嫌だな母さん。こんな朝から。

「ん?晴。寝不足か。随分眠そうだ。」

「ああ…いや、大丈夫…」

父さんは朝の挨拶におはようの代わりに僕の体調を聞いてくる。かといって休ましてくれるはずもないのだが。

今日の朝飯は卵かけご飯。高校生の身としては後一品ぐらい欲しいのだが、作ってもらっている身として、贅沢は言えない。

朝飯を食べた後、いつものルーティーン、歯を磨いたり、顔を洗ったりを済まして僕は家を出る。

「行ってきま〜〜す。」

今日も学校だ。


学校は近い。歩いて5分、超近い。家に近いという余裕は人を油断させる。最初のうちは僕も遅刻しないようにと気を引き締めて出来るだけ家を早く出るようにしていた。しかし、今では、いかに家を遅く出るかの戦いになっていた。今ではもう遅刻ギリギリに登校するようになっていた。家の遠い人らが余裕たっぷりに登校しているにも関わらず、家の近い僕が遅刻ギリギリに登校する。いやいや、僕だけでなく家の近い人は総じてギリギリに登校する。この現象に何か名前はあるのだろうか?

そして今こうして僕と話している天生相田あもうそうたも僕と同じ家の近くに住んでいるにもかかわらず、遅刻ギリギリに登校する1人だ。

場所は学校。登校してから、始業するまでの短い間も僕らは話すことに忙しい。

「おい、晴。お前どんな顔してんだそりゃ」

「は?どういう意味?」

「顔がぷくんでいて、まるであんあんぱんぱんマンみたいだぜ。」

「なんちゅう卑猥なヒーローだ…」

「ああ、そんなのは冗談だ。顔がむくんでるのは冗談じゃないけど。寝不足か?」

「んー。まあそんなところ。」

「ヒーローといえばだな、俺の中での英雄はなんといっても舞鶴理子まいづるりこちゃんだよなやっぱり。」

「何回言うんだよ。お前。そんなに好きなら告白でもなんでもすればいいじゃん。」

「そんな大それたことできるわけねえー。見てるだけで十分なの。」

「そうかい。」

そう。天生は舞鶴に惚れている。ベタ惚れだ。彼の中でのヒーローは彼女らしい。なんともかっこいいんだと。天生と話しているときにはほぼ確実に舞鶴の名が出る。それぐらい天生は惚れている。もはや気持ち悪いレベルだ。


何だかんだと授業が始まると学校が終わるのはあっという間だ。文字通り一瞬だ。それは授業中僕が寝ているからという意味では…決してない。多分。

授業が終われば帰宅部であるところの僕は家に帰る。教室でだべってから帰るっていうのもありだが、今日は帰らざるをえない。なぜなら穴を掘る必要があるからだ。山に穴を掘れるかどうか。それで僕の生死が決定する。スコップ。デカめのスコップ。柄の部分が長いやつ。それは家にあった。なんというラッキー。地元は十分に田舎だが、それでもスコップを持っていると不自然なので、でかいカバンにいれて僕は自転車で山に向かった。

透明人間の書いて置いていった紙に記してあった場所に行くには、山の麓で自転車からおりて登山をする必要がある。登山といってもたった10分ほどだが、その道が僕にはしんどかった。

山といえば、虫の天国。まさにパラダイス。

虫だらけ。少し動けば、虫がひっついてくる、そんな環境。

もちろん僕もそんなことは分かっていた。だから、カバンのなかには大量の虫除けスプレーがある。いうならば、虫除けスプレーはもちろん虫除けの効果もあるが、スプレーをかけるだけで、心を落ち着かせる。精神安定の役割もある。さて、山に入るのは小学生以来。いざ、侵入。


「はあ……怖い。」

素直な気持ちだった。虫どころか、山は怖い。山はなんだか、未知な部分が多いから、不安な気持ちを煽る。用もなければ山なんぞには入りたくないのだけど…

「仕方がない…か」


登り始めたらすぐだった。ついた場所は山の中腹。平らな場所。木が生い茂る平らな場所。紙に書いてあったことによると、幅の指示はなく、深さは1mと書いてあったので、適当に穴を掘り始めた。深さとかは後から適当に調整可能だから、取り敢えずは適当にだ。まずは始めることが肝心なのだ。

辺りが徐々に暗くなったころ、穴掘りを始めて二時間といったところか。大分穴は掘れた。途中ミミズのような虫をみて、気持ち悪かったし、帰ろうとも思ったが、それでも穴は十分掘れた。自分に才能があるんじゃないかと、自惚れ始めたとき、僕は信じられないものを見た。信じるとか信じないとかじゃなくて、見えてしまったら信じざるを得ないのだけど。信じられないもの透明人間を前日体験したが、それとは違い、目の前に現れたものは視覚に脳に訴える恐怖があった。僕の掘った穴を挟んで5mほど離れたところに人間の倍のサイズはあろうかという巨大な蜘蛛がいた。


僕の視界に写ったあまりに巨大な生物。足1つとっても僕よりもでかい。そんな巨大な生物。

「ッ……」

狂っている。馬鹿げている。あり得ない。この世の全てのないを合わせてもあり得ないこの光景。そんな生物を前にして僕のできることといえば、腰を抜かしてその場に座りこむだけだった。嫌な汗が吹き出て止まらない。死ぬのかもしれない。透明人間、巨大蜘蛛。SF世界の住人…。現実は僕の頭を超えていく。僕が動けないでいる間にも蜘蛛は少しずつこちらに近づいてくる。

「ッ……ちっくしょ…」

まるで、土に根が伸びたように僕は動けなかった。

「動けよ……」

体に動きたくないという意志があるのかのように体は動かない。

「ああ…」

蜘蛛はもう穴のところにいた。それほど幅があるわけでもない穴にまたがるようにそこにいる蜘蛛。蜘蛛は僕をどうするつもりなのか。殺して食べる…?

食べちゃうの…?嫌、死にたくない、死にたくない、まだ、死にたくない、くっ来るなよ、ああやめろっ

蜘蛛はもう僕から一メートルも離れていない位置にいた。恐怖が僕の意志とは関係なく口から出る。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!」

殺されるッッ!!

目を閉じて刹那僕は覚悟を決めた。



「……?あれ?」

生きている…どうして、蜘蛛は?目を開けても蜘蛛の姿はなく、代わりにあるのは元の山の光景。あれ、あれ?僕の頭がハテナで埋めつけられるころ声が聞こえた。

「あんな声で叫んじゃってどうしたんだい?何か怖いものでも見たのかい?君も男ならあんな情けない声を出すんじゃないよ。」

え??誰?こんな真夏に黒のコートに身を包んで、下も黒の長ズボン。男にしては長い髪。黒髪。黒が好きなのだろうか。僕よりも長身で細身。全体的に痩せている。見た目だけを見るとかなりの変人と見える。

「……」

しばしの沈黙。僕に何か喋れというのか。それに気づいてか、空気に耐えかねてか、男は口を開いた。「そういえば、君はどうしてこんなところにいるんだ。こんな山の中に。君も僕のような際物なのかい?」

自分のことを際物って言うのか…変人だ。質問なら僕にも答えやすい。真実を伏せて僕は話す。

「なんとなく穴を掘ってみたくなって。いい筋トレになるんです。」

「そうかい。筋トレとは若いねえー。僕も若い頃はよく筋トレをしたよ。」

信じられてしまった。でっち上げを信じられてしまった。

「ああ、それからこの山には近づかない方がいいよ。さっきみたいなのに君ももう会いたくはないだろう?」

「それは、そうですが…」

「さっきのも危なかったよ。僕が来てなかったら君は間違いなく死んでいる。間違いなく絶対に。」

「……」

改めて言葉にされると改めて恐怖を感じる。すぐそばまで近づいていた死を思い出す。

「ああ、お礼はいいよ。僕が好きでやってることだから。」

「好きで…?」

「そう。さっきのやつは僕の標的でもあった。」

男は続ける。

「僕は妖怪殺しを生業にしている、妖怪ハンターさ。」



「妖怪…?」

妖怪—人間の理解を超える不可解な現象。また、それを引き起こす非日常な力をもつ非科学な存在。妖怪なんて、いるはずがない。それが今現在、科学の浸透した現代での共通認識だ。

「妖怪なんているはずがない。そう言いたいのかい?」

僕は頷く。

「でもね、妖怪は実はそこら辺にどこにでもいるんだよ。ありふれているんだよ。君たちが気づかないだけで。」

「でも、さっきの蜘蛛は…」

「あいつは特別だ。この辺に現れて、人間に悪さをする。そんな困りもんだ。ついこの間にもこの山で失踪者がでたらしい。それは君も知ってるだろう?」

「…ええまあ。」

そう知っている。この辺に住んでるやつでそのことを知らないやつはいないぐらい、何もないこの地元を騒がせた。僕も山に入るときこの情報も怖かったが、穴を掘れずに透明人間に殺される方が、山で失踪する確率よりも高いから僕はノコノコと山に入った。そして今に至る。

「あの蜘蛛は見た通り蜘蛛の妖怪だ。なにか思うところがあったんだろうねえ。」

「はあ、、」

「妖怪にはそれぞれ意味があるんだ。意味のない妖怪なんてのはこの世にいない。ただの与太話だと思うのも結構だけど、君なら分かってくれるんじゃないの?」

えらい信用が分厚いな…僕。けど、先日の透明人間といい、さっきの蜘蛛といい…なんなんだ一体。

「さて、君はここから帰った方がいいよ。山は危ないからねえ。妖怪だけじゃない。地形的にも危ないよ。」

男はそう言い、胸から何かをだすと、僕にそれを手渡した。

「……これは?」

「これは僕の名刺だよ。何か困ったことがあったらかけてくるといい。なんでも相談に乗るよ。」

「はあ。」

「そういえば、君に名前を聞くのを忘れていた。教えてくれるかい?」

「僕は月夜待晴です。月に夜に待つと書いて月夜町です。晴れは天気の晴れです。」

「月夜待君。変わった名前だね。その名前は大事にするんだよ。」

男はそう言い残すと、どこかに消えていってしまった。男が残した名刺には電話番号とメールアドレスそして名前が書いてあった。

羽束師真斗はづかしまさと…」

「変わった名字だ…」

これが僕の運命を大きく変える男との出会いだったのだが、そんなことをこの時点の僕は知らなかったし、知ることもできなかっただろう。


僕は速攻で家に帰った。森にいるのはもうごめんという思いがあった。最短距離を最速で移動する。それが一番早い。帰り道では、特に何もなくひょうし抜けするほど何もなかった。時間帯としては日もとっぷりと暮れ、虫が鳴き始める時間だ。この時間帯に何かがあっても困るんだけど。色々ありすぎたからなあ。

家に帰ってからは風呂に入って、ご飯を食べて、歯を磨いて、自室に直行した。自室に戻ると机の上に手紙が置いてあった。透明人間からだ。手紙によると穴を掘ったことはもう確認したので、次のお願いをしに明日来るとのことだ。仕事が早いことで…

手紙を読んで、僕は今日の蜘蛛について考えていた。考えたところで、何か出てくるというわけでもないのだが、考えないわけにはいかなかった。あんな非日常を見せつけられて、何も考えずにいられるなんて、もうそいつは生きているとは言えない。そしてあの男はこう言った。

「妖怪はどこにでもいる。気づかないだけだよ。」

妖怪はどこにでもいて、僕たちはその存在に気づかない。科学が世界を解明したこの世界では妖怪なんていう存在は信じられることもなく、妖怪の存在を信じる奴なんていうのは、よほどの物好きか、夢を見るのが好きな奴だけだろう。現実に則さない。現実に適さない。そんな存在が妖怪。

「けどなあ……」

続けて現れた透明人間と巨大蜘蛛。あれは現実とか日常とか科学とかとはかけ離れてて、ん?

「そういえば…」

そういえば

「もしかして、透明人間は妖怪か?」

そう思った僕はすぐさまに羽束師さんに連絡を取ることにした。電話をするには遅い時間なので、メールを打つことにする。

メールには、昨日夜中に透明人間に会ったこと。そこで脅されて今日山に穴を掘りに行っていたこと。そして、明日透明人間が僕に会いにくること。

を記した。

メールを打って返信が返ってくるかは定かじゃなかったが、僕はもう寝ることにした。もう疲れていた。夢は見なかった。


朝8時。目覚まし時計に起こされる。朝は眠いが、確認することがある。返信がきているかどうかだ。はたして、返信はきていた。

【そういうことがあったなら僕に言ってくれよ、月夜待君。水臭いじゃないか。】

えらい親しいな…

【さて、それじゃ君の家のある場所を教えてくれるかな?】

昨日知ったばかりの男に住所を教えることに抵抗がなかったわけではないが、仕方がないので、僕は住所を彼に送りつけた。

学校に携帯は持って行けないので、携帯は家に置いておく。リビングに行くともう皆んな揃っていた。

「おはよう。」

「はいはいおっはよー♩」

相変わらず元気な母さん。

「ん?どうした晴なんだかいいことがあったような顔をしてるな。」

今日はえらく見透かしたようなことをいう父さん。それもそうだ。自分を悩ませる現状を打破できそうなのだ。それが嬉しくないわけがない。

「ん。まあそうだね。色々。」

「なになに?母さんにも聞かせてー!もしかして彼女とか?」

元気すぎてときどきうざい母さんだが、もちろん事情は説明しない。

「あーもうなんでもいいじゃん。」

「あらーいやらしい。」

まあいつも通りだ。

その後朝ごはんをたべて朝のルーティーンを済まして家をでる。

僕は授業も片手間にとっとと学校が終わらないかと一人焦っていた。焦ったところでどうにかなるものでもないのだが、気持ちの問題。焦っていたかったんだ。

そして念願の学校終了。教室でだべることもなくとっとと家に帰って、部屋に直行する。携帯を見ると、はたして返信があった。

【はい、了解。それじゃ、君の家の周りにいるから今夜は透明少女ちゃんと適当に話しておいてくれ。大丈夫。安全は保証するさ。】

なんとも信頼できない、大丈夫だな…まあ信じるか。

そう、この世は信頼で成り立っているのだ。人を信頼して何が悪い。

今日はもうどこにも行かなかった。なんだか夜に備えてゆっくりしておきたかった。夜がきて、飯を食べて、風呂に入って、そして部屋に直行する。まあ起きておくのもありだと思ったが、それも面倒だったので、寝ることにした。寝て敵を待つ。最悪の待ち方だが、仕方がない。僕に何ができるというのだろうか。ある種の開き直りだが、僕は羽束師さんを信頼して寝ることにした。

おそらく深夜だろう。その時は突然訪れた。一昨日の夜と同じく。体が急激に重くなった。そして一日ぶりのその声。

「穴掘りご苦労。さて、次の依頼をするわ。」

こっちの都合なんて一切考えない彼女。

「ああ、忘れないであなたに発言権、拒否権がないことを。そして、…ぐッく」

突然唸りだす彼女。発作か!?と思ったが、全然違う。僕の体が軽くなったところで、僕の近くに羽束師さんがいることに気づいた。

羽束師さんは見えない彼女の首か頭かを右手で掴んで、左手でナイフを握っているだろう彼女の右手を掴んで抑えている。

「ぐッくっ…ゲホッぐ」

「いやあ、苦しそうだ。苦しみたくなかったらその右手のナイフを離しなよ。そうしたら、僕も手を離すよ。」

言われるや、よほど苦しかったのだろう、彼女はすぐにナイフを手放した。

「月夜待君それ持っといて。」

言われて僕はナイフを回収する。

羽束師さんはナイフを回収した僕をみて手を開いた。開いた瞬間に重量を持った物体が落ちる音が聞こえた。というより僕の上に落ちてきた。痛え!見えない彼女に羽束師さんは言う。

「さあ、どういうことか、訳を聞こうか。逃げようとしても無駄だよ。この部屋には結界がはってあるから逃げれないし、どんなに騒いでも大丈夫だ。と、その前に月夜待君。彼女に服を貸してやってくれ。」

「…?服ですか?」

「そう服だよ。そうだな上着と、ズボンでいいかな。彼女にはこの部屋は寒いんじゃないかな?」

「寒いんですか?」

たしかに設定温度はかなり低めで、女子には寒いかもしれないけど。

「そうだよ。だって彼女、今裸だからね。」


僕は急いで服を用意した。まだ、あんまり僕の着ていない上着、綺麗目のズボン、ズボンばっかりは半ズボンしかないから仕方がない。に、しても…

「裸の女性に乗っかられていたなんて…」

なんていうラッキースケベ!!いや、違う違う。下手をすれば殺されていたのだ。そんな状況じゃなければ鼻を伸ばして喜んでいたような状況だが、にしても。まさか。

「月夜待君、早くしてよ。」

「あっはいー」

なんとも情けない返事となってしまったが、とりあえず、服を床に置く。どこにいるかわからない彼女は服を拾って服を着た。服が宙に浮いているようにしか見えないが、服はもう着たらしい。

「あの……ありがとうございます…。」

「お礼はいいよ。僕は好きでやってることだからね。」

いや、僕に言えよそのお礼。えらい態度がしおらしくなったな。

「さて、これで、君がどこにいるかも見やすくなったし、君の話を聞こうか。君の物語を。まず、名前から教えてくれるかな?」

「私の名前は……」

名前は

「舞鶴理子です」


「……!!」

絶句。今なんて。舞鶴……?まさかそんな

「その反応を見てると舞鶴ちゃんと月夜待君は知り合いなの?」

「知り合いっていうか、クラスも同じです。」

「へえーー意外な縁だね」

全然意外そうじゃない羽束師さん。もうちょっと驚いても。

「それで、舞鶴ちゃん。君なにか嫌な体験とかある?そういうことになっちゃうのは大抵なにかあったからなんだけど。なにかないとそういうことにはならないんだけど。」

そういうことの指示内容は透明人間だろう。けど、何かあったら透明人間になれるのか?

「何かって言われても…なにも思いつきませんけど…」

「じゃあ、そうだね。学校で嫌なこととかってある?」

「いえ、全然学校は楽しくて…」

「じゃあ習い事とか?」

「習い事はしてないです…」

「ふーーんじゃあ」

じゃあ

「家で嫌なことってある?」

「あ…えっと…家は」

「なるほど。家に問題があるんだね。」

羽束師さんはそう言って質問を続ける。

「大丈夫。僕は君を助けてあげる。だから、君はなんでも僕に言ってくれ。僕を信頼してほしい。」

「……」

「じゃあ質問。兄弟はいる?」

「…いません。一人っ子です。」

「親はどう?仲良くやってる?」

「親は……えっと、親は…」

「大丈夫、言ってごらん。」

そして彼女は言った。

「…私と母…は父から、その…暴力を受けています。」


「え……、」

二度目の絶句。まさか舞鶴がそんなこと。暴力を受けているなんて…

「へえ。いつから。」

「その、中学校からです。」

「何年生から?」

「三年生からです。急に暴力を振るい始めて。」

「具体的にはどんなことをされるの?」

「お腹を殴られたり、足を蹴られたり、髪を引っ張られたり」

「それだけ?」

「それだけって…」

「ああ、聞き方が悪かった。性的なことはされなかった?」

「ああ、いえ…それはなかったですが…あの母は」

「母は?」

「その…性的な暴力を受けてたと思います。」

「そうか。」

世間一般にいうDVというものだろう。それを中学生から…にわかには信じられないのだが…

「それで、暴力を受ける時間帯というのは?」

「時間帯ですか…?ええと、夜の10時〜1時の間ぐらい…です。」

「その間ずっと?」

「いえ、その間の時間で10分くらいです。」

「なるほど。君と母は逃げようと思ったことはないの?」

「いや…それは何度も。今にも逃げたいぐらい。けど、お金がなくて。」

「なるほどね。」

そう言って羽束師さんは全てを理解したかなように1つ息をついて、こう言った。

「君が透明人間になる理由が分かったよ。」



彼はこう言った。

「君は、何度も何度も消えたい。消えてしまいたいと思ったんじゃないのかい?

自分はもう消えてしまいたい。暴力から逃げたいが為に。自分もいつか母のように父から今よりも酷い暴力を受けるんじゃないか。

そう思うだけで、怖くて、辛くて、消えてしまいたいって思ったんじゃないのかい?何度も。何度も。

そして君は祈った。祈り続けた。神さまってのは気まぐれでね。人の願いを簡単に受け入れてくれる時ってのもあるのさ。

そして、君の願いは届いた。君の姿は消えた。周りから一切見えなくなった。時間制限の条件付きでね。」

「……」

そんなことって…

「羽束師さん、そんなことって…そんなことってありえない…」

「ありえなくないよ。現に彼女はこうして透明だし、君も昨日見ただろ?あの妖怪を。」

いや、それはそうだが。そうなのだが…

「さて、舞鶴ちゃん。君が透明になる時間っていうのは夜10時から1時の間だけだろ?」

「ええ…。そうです。」

「ああ、そうだろうな。透明人間になり始めたのはいつから?」

「高2の春からです。」

「なるほど。消える君に対して親は?まさか気づいてないのかい?」

「…母は自分の身を守ることに精一杯で…父も私のことなんて見てないし…」

「すごい家庭だね。」

率直に言う羽束師さん。

「僕は君が透明になることは解決できるけど、君の家庭の問題は解決ができない。透明のままでいたいかい?」

「いえ、透明なのは嫌です。色々と不便で…」

「そうかい、じゃあ、透明の問題を解決しようか。」

すっと立ち上がる羽束師さん。舞鶴の後ろに回り込んだ。

「さて、それじゃ動かないでね。痛くても辛くても動かないで。それと、月夜待君も端っこの方でじっとしといて。」

そう言うと、羽束師さんはどこから取り出したのか折本を手に持ってブツブツ呟き始めた。お経の類の何かだろうか。

しばらくすると、体感的には20分といったところだろう。舞鶴ちゃんが声を上げ始めた。

「……ッ…んッ…んん」

羽束師さんも声をかける。

「動かないで、舞鶴ちゃん今動いたら全てが台無しになる。」

「ああ…あああ……痛いッ!」

「我慢してあと少しだ。」

すると、部屋の空気が軽くなった。すっきりと軽くなった。舞鶴がだんだんと形をあらわにしていく。まるで、ズボンと上着から人が生まれてくるようなそんな印象を受けた。

「さあ、成功だ。月夜待君タオルある?」

「ええ、ありますが。」

「気の利かない男だね。彼女今汗だくだ。早く汗を拭いてあげな。」

「あ、はい。」

舞鶴は本当に汗だくだった。とりあえず、汗を拭く。彼女は意識を失ったのか動かずにいる。

「そうだねえ。あと一時間はそのままじゃないのかな。相当疲れているはずだよ彼女。」

「はあ…そうですか。」

「今彼女の体にいた妖怪、神様といってもいいかもね。そいつに彼女の体から出ていくように頼んだ。聞き分けのいい神様でね。すんなりと出て行ってくれたよ。」

「…彼女痛がってましたけど。」

「それは仕方ないね。呼吸をしたら二酸化炭素が放出されるぐらい仕方のないことだ。神さまに出て行ってもらうのも大変なのさ。」

「……」

「なにはともあれ、これで、彼女の透明化問題は無事解決した。しかし、問題はまだある。」

「家庭のですか…?」

「そうだ。深刻。恐らく彼女父親を殺そうと思ってたんだろう。」

「は……?」

「山中に穴を掘る。こんな意味の分からない行為に意味があるとしたら、彼女の家庭環境を考慮すると、父親を殺すしかないじゃないか。それとも、君の運動のサポートをしたかったのかい?」

「……ッ、けど、」

けど、なんだ。言葉が出てこない。

「けど、…もしかしたら何か隠したいものがあったとか…」

「そんな家庭状況で、わざわざ何を隠すって言うんだ。いや、僕の意見も間違っているかもしれないけど起きたら、彼女に尋ねてみなよ。恐らく彼女の次の依頼は君の父の殺害につながることじゃなかったのかな?」

「そんな…まさか」

「まあしかし、どうだろうね。彼女を救いたいと思わないか?月夜待君」

「…え?」

彼女を救うって…こんな絶望的な状況から救えるのか…?いや、どうやって…

「ここで、君が動かなければ最悪、彼女は死ぬかもしれないし、彼女は人を殺すかもしれないね。」

「……」

「だから、ここで彼女を救えるのは君くらいのものだ。僕は何もしてあげられない」

「いや…僕も何ができるっていうんですか…?」

「そうだねー、例えば」

例えば

「彼女の父親を殺すとか。」



「は……??」

本日三度目の絶句。一体何を言っているんだ。僕に人殺しをしろと。そう言うのか…?

「いや、ほんとに殺すんじゃなくて、彼女の前から父親の姿を消すようにするんだ。例えば、彼女の親に掛け合って、離婚をさせるように迫るとか。」

「…は、はあ。」

「やり方は色々あるさ。けど、離婚が一番じゃない?それは君が考えることでもあるんだけど。」

「い、いやけど……」

「ま、そういうわけで頼んだよ月夜待君。僕は妖怪以外の事情には疎くてね。頑張ってくれ。それじゃ。」

「ちょ…ちょっと待って。」

そう言い残すと彼は本当にどこかに行ってしまった。消えていってしまった。

「ああ……一体どうすれば。」


とりあえず、考えをとめ、彼女が起きるのを待つことにした。起きたのは本当に一時間後くらいで、まさしく深夜といった時間帯だ。

「ん……」

「あ、おはよう。」

「ひっ…」

なんだか怯える彼女。なぜ怯える…

「えっとあの元気?」

「元気で…あのそのごめんなさい!!」

彼女は謝ってきた。今までの主に一昨日の非行を彼女は謝罪した。こんな一般的な普通の子が抱えた事情を知って彼女を許せない人間は恐らくいない。

「ああ、いやいいんだよ。そんなのは。えっとそれで、あのお父さんとお母さんは離婚とかしないの?」

いきなり聞きにくいことをズバッと聞いていく。

「そのことは、そのよくて、あなたには関係ないですし。巻き込んでごめんなさい。」

勝手に巻き込んでおいて、突っぱねるようなとんでもない態度の彼女。もう関係ないとは言えない。こんなことを言われても僕の心はもう決まっている。

「いや、関係ないわけないよ。もう僕も関係者だ。」

「だから、そんなんじゃなくて、もう関わらないで。私の問題だから。」

もうどんなことを言われても突っぱねるようなことを言われても、僕の心は一切変わらない。

「そんなんじゃなくて!僕が君を助けたいんだ!もう他人なんかじゃないよ。それに勝手に巻き込んだのは君だろ!だから、君は僕に助けられるんだ!!助けられなきゃならないんだ!」

「もう。だからいいの。私はもう終わってるから」

「終わってなんかないよ。君はなんにも悪くなんてない!!どうしてそんな悲しいことを…」

「もう、いいんだって…」

このままでは押し問答だ。彼女の同意は得られない。ならば一方的に契約するしかない。

「舞鶴ちゃん。君がどう思おうが僕には関係ない。僕は君を助けたいと思ってしまったんだから。だから、君の同意なんていらない。僕は君を助ける。僕の人生をかけて助ける。」

なんだか、後半、告白みたいになってるが、そんなことは気にしない。

「うるさいなあ…!!もういいのに……」


これが僕の罪だ。助かりたくない。諦めた少女を助けたいと思ってしまった僕の罪だ。僕は人生をかけて罪を償うことになるのだが。さてはて、この時の僕は何も知らない。分かっていなかったんだ。


朝8時。目覚まし時計に起こされる。舞鶴は夜のうちに帰っていった。玄関から静かに。

リビングに向かうといつものように親がいた。

「おはよう。」

「んん!おはよう♩」

上機嫌な母さんだ。

「晴。なんだか、顔が引き締まっているな。顔のトレーニングでもしたのか?」

「ああ、いや、ありがとう。そうかな?」

父さんも母さんも特に何も言ってこなかったので、恐らく何も聞こえていなかったのだろう。よかったー。

朝ごはんを食べて今日も朝のルーティーンを済ませる。そして学校へ僕は向かう。

「いってきまーす。」

元気に家に挨拶をして、今日も学校に向かう。今日の足乗りはいつもとは違う。決意の足だ。決意の意志だ。罪を背負った決意の足だ。



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