第83話 遥か高みから……
アイリスが試合場に現れると、大きな歓声が彼女を迎えた。
この絶大な人気こそ、彼女がこの大会の主役である証拠だ。
アイリスは対面に立つジミナを見据えて心を落ち着かせる。
ジミナ・セーネン。彼は間違いなく強敵だ。こうして向かい合っても彼の強さは感じ取れないが、しかし底知れない何かが彼にはある。見た目の印象とはアンバランスな実力。どこか不揃いで、真実を惑わすような青年。
だが、アイリスは勝てないとは思わなかったし、それ以上に勝たねばならなかった。
武神祭で勝つことは、己の使命だとアイリスは信じている。
彼女に政治的なセンスは無く、彼女自身もそれを認めている。彼女にできるのはミドガル王国の強さの象徴であることだけだった。
アイリス・ミドガルがいればミドガル王国は安心だと思わせることが、彼女の使命なのだ。
それがたとえ神輿として担がれていてもよかった。力しか武器のない彼女は、自分が政治的に利用される立場であることも理解していた。
そう、最近までは。
担がれ続けた代償は、彼女が自分の足で立ち上がろうとして初めて露呈した。彼女は国の未来を憂い『紅の騎士団』を立ち上げたものの、人も予算も集まらず何も変えることができなかったのだ。
それから時間をかけ少しずつ人を集めたが、彼女が望む形には程遠かった。
かといって今さら政治に手を出しても、いいようにあしらわれ利用されるのがオチだ。だったら政治方面は人に任せ、彼女は彼女の得意分野で力を集めるしかない。
国民からの人気は大きな力であることを彼女は知っている。騎士団の頭脳を任せられる人材も揃ってきている。あとは彼女が武神祭で優勝し、国民からの人気を不動のものとすることができれば、必ずいい結果が待っているはずだ。
そう信じて、アイリスは剣を構えて開始を待った。
ジミナには悪いが、最初から全力で行く。何か隠していても、それを出す暇もなく一瞬で勝負を決める。
「アイリス・ミドガル対ジミナ・セーネン!! 試合開始ッ!!」
速攻。
アイリスは開始と同時に踏み込み、そこで止まった。
「……ぇ?」
ほんの小さな疑問の声が唇から漏れた。
なぜだろう、ジミナの姿が思ったより遠く感じた。
間合いを間違えたのだろうか?
そう思ったが、間違っていない。ただ、感覚としてジミナの姿が遠くにあるように感じた。
理由は分からない。緊張しているのかもしれない。
ただ、どちらにせよ彼女の足は止まってしまった。
仕切り直しだ。
アイリスは気持ちを切り替えて剣を構え、軽いフェイントを入れる。
ジミナの視線が釣られたのを確認した瞬間、彼女は斬り込んだ。
しかし。
「……ッ!?」
またしても、彼女の足は止まった。
アイリスはまるで何かを避けるかのように上体を反らし、後ろに跳んだ。
剣が見えた。
彼女には、ジミナの剣が自分の首を断ち切るのが見えたのだ。
だが、ジミナの剣は全く動いていない。
当然、彼女の首は繋がったままだ。
「なぜ……?」
呟かずにはいられなかった。
彼女は確かにジミナの剣を見たのだ。
彼女が斬り込んだ瞬間、圧倒的な威力を秘めたジミナの剣が自分の首を断ち切るのを。
完全に合わせられたと思った。
敗北を……いや、死を覚悟した。
だが、それは幻だったかのように、ジミナは剣すら構えずただ立っているだけだ。
何が起こったのか理解できない。
アイリスは剣を構え探るようにジミナの周りをじりじりと回る。
一周、二周、三周……。
いつもと変わらない間合い。しかしなぜかジミナの姿が遠く感じる。
「……こないのか?」
ジミナが問うた。
しかし、踏み込めない。
その一歩を、絶対に踏み込むなと本能が警告する。
「ハァァァァァアアアッ!!」
アイリスは迷いを断ち切るかのように咆えた。
そして前後に揺さぶりをかけ、一歩踏み込んだ。それは、彼女にとって最速の一歩。
しかし――見られているッ!!
ジミナの視線はただ真っすぐに彼女を捉えている。
そして何かを暗示するかのように彼の視線が動いた。
「――ッァアアアア!!」
その瞬間、アイリスは本能で止まった。
膨大な負荷が肉体を襲い、膝関節が嫌な音を立てる。
それでもかまわずアイリスは止まり、そのまま転がるように後ろに飛んだ。
ジミナの剣がアイリスの胸を貫くのを、彼女は確かに見た。
「……嘘」
しかし、彼女の胸は全く傷ついていない。
ジミナが剣を振った痕跡も見えない。
「嘘よ……」
彼女の前には剣すら構えないジミナが変わらずに佇んでいた。
「……どうした?」
彼は問うた。
得体のしれない何かに、アイリスの身体が震えた。
何とかしなければ。
焦燥と恐怖の混じった感情が彼女を突き動かした。
同時に、ジミナの視線が動いた。
まるで未来を予測しているかのように、先を見据え彼の剣先が僅かに震えた。
その瞬間、アイリスは自分の腕が断ち切られるのを幻視した。
「あ、ぁぁ……」
そして、彼女はすべてを理解した。
ジミナはただ、フェイントを入れただけなのだということを。
彼はアイリスの動きを完全に読み、視線と僅かな剣先の動きで忠告したのだ。
止まらねば斬るぞ――と。
たったそれだけで、アイリスは彼の剣を幻視した。
自分が斬られるのを、本当のことのように錯覚した。
かつて師に教えられた言葉がアイリスの脳裏によみがえる。「達人の『虚』は真実と錯覚する」その言葉通り、幼かったアイリスは師のフェイントに翻弄された。
しかしジミナのこれは、かつての師以上に『真実』だった。
そんなことが、果たしてあり得るのか――?
アイリスに自分が世界最強であるという自負はない。上には上がいるということも理解している。しかし、客観的事実としてアイリスは世界でも最上位にいる魔剣士だ。そのはずなのだ。
その彼女を、ただフェイントだけで翻弄することができるとすれば。
ジミナの実力は――まぎれもない世界最強。
それも、誰も手に負えない絶対的な最強だ。
そんなことが、あり得るのか?
あり得るものか。
アイリスは自分に言い聞かせた。
惑わされるな。
彼はまだ一度も剣を振っていない。憶測だけで決めつけるな。
「……止まるな」
アイリスは本能に言い聞かせるように呟いた。
彼女は絶対に止まらない覚悟を決めて、その一歩を踏み込んだ。
何か空を斬るような音がした。
次の瞬間。
凄まじい衝撃が、アイリスの全身を襲った。
ほんの数秒意識が暗転し、気が付くと彼女は空を眺めていた。
試合場の中心で、アイリスは仰向けに倒れていた。
何が起きたのだ。
アイリスには、ジミナの剣が見えなかった。ただ、ジミナの視線がアイリスを捉えて、同時に凄まじい衝撃に襲われた。
剣を手放さなかったのは奇跡だった。
アイリスは反応の鈍い身体を起こした。
「アイリス・ミドガル……まさかこの程度か?」
目前に、剣が突き付けられた。
ジミナは感情の見えない瞳でアイリスを見下ろしていた。
手を伸ばせば触れるほど近くにいるのに、彼の姿がずっと遠くにあるように見えた。
遥か遠く……。
ああ……そういうことか。
アイリスはようやく理解した。
彼の姿が遠くに見えたのは、錯覚でも何でもなかった。
彼は最初から、遠い遠い遥か高みから見下ろしていたのだ。アイリスがいくら手を伸ばしても届かない、遥か高みから……。
アイリスの手から剣が落ち、乾いた音が鳴った。
静まり返った会場に、その音が響いた。
アイリス・ミドガルがたった一撃で敗北した。
その事実に、誰もが呆然と動けなかった。
静寂の中。
コツ、コツ、とアイリスの背後から足音が響いた。
少しずつ会場が騒めきだす。
コツ、コツ、コツ、と足音は歩みを進め、そこで立ち止まる。
観衆は誰もが足音の主に注目していた。
ジミナでさえ、僅かな驚きを顔に浮かべていた。
「只今戻りました、父上」
そこにいたのは、美しいオリアナ王国の王女、ローズ・オリアナ。
ローズはアイリスとジミナには目もくれず、その蜂蜜色の瞳で特別席を見据えていた。
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