第38話 ほんの少し手を貸しただけ
荒らされた研究室でニューは死体を見下ろしていた。ダークブラウンの髪に同色の瞳、野暮ったい眼鏡をかけて学術学園の制服を着ている。
目立たない外見を装っていたが、それでも隠せない色気がニューにはあった。
「紅の騎士団『獅子髭の』グレンね」
死体は苦悶の表情で虚空を睨んでいた。だいぶ痛めつけられたようだ。
騎士団では知られた名だったが、魔力を封じられれば呆気ないものだ。
ニューの興味はすぐに他に移った。
この研究室にはもう一人、騎士が倒れていた。彼にはまだ息があった。
「マルコ・グレンジャー。あなたは紅の騎士団に入ったのね」
その顔はニューの記憶にある人物だった。
美しい青髪に端正な顔立ちで、魔剣士としての実力も高く、将来は騎士団長になるだろうと噂された男。思えば昔から正義感が強かった。
マルコはかつて、ニューの許婚だった男だ。
何度も手紙を交わし、舞踏会では共に踊った相手。だが結局、親の決めた相手でしかなかった。彼がどう思っていたかはわからないが、ニューは最後まで彼に愛情を抱くことはなかった。
ただ、別に嫌いだったわけではない。
愛情こそ抱かなかったが、いい人だとは思った。
将来結婚することになっても不満はなかったし、誰もが称賛する彼と結婚すれば、輝かしい未来が続いていくと思っていた。
決められた道。
決められた相手。
決められた将来。
かつてのニューは自分の意思というものが薄かった。周囲の価値観に従い、周囲の言葉を聞いて生きてきた。別にそれが悪かったとは思わない。ただ、今思えばはそれはひどく窮屈な生き方だった。
彼の顔を眺めていると、ふと舞踏会の記憶が蘇った。
顔立ちの整ったマルコをアクセサリのように連れ回していたかつての自分を思い出して、ニューは苦笑した。
今すぐ忘れたい記憶は決まって、いつまでも忘れられない記憶になるのだ。
「ニュー、何してるの?」
突然、背後から声をかけられてニューは振り返った。
気配も何もなかったが、それほど驚きはない。その声は知っていたから。
「シャドウ様……」
黒髪の平凡な少年がいつの間にか研究室の中にいた。
少年はニューの横を通り過ぎて、研究室の棚を開けていく。
「この人、許婚だったんです」
「へぇ。どうするの?」
「私個人としては、生かす理由も殺す理由もありません」
「ならそれでいいと思うよ」
少年はそう言いながら棚を開けて何かを探していく。
ニューはマルコのそばを離れて少年の傍らに立った。
「シャドウ様、遅くなりましたが報告いたします」
「うん」
「現在シャドウガーデンは学園の周囲に潜伏し待機しております。指示があればいつでも動けます」
「うん」
「ただ、魔力が制限された状況下での戦闘にはリスクが伴います。普段通り動けるのは七陰の皆様ぐらいですが、現在王都にいるのはガンマ様だけです。それで……あの、ガンマ様はあまりこういったことが得意ではないというか……」
「センスゼロだね」
「あの……はい。わ、私も普段の半分ほどの力しか出せませんので……」
「そっか」
「ガンマ様が現在全体の指揮を執っています。魔力が制限された状況はそう長くは続かないとガンマ様は予測しており、無理をせずそれまで待てばいいと」
「うん」
「黒ずくめの男たちは大講堂にたてこもったまま動きがありません。現状彼らからの要求もないようです。騎士団は学園周辺を囲っていますが、この中で戦力になりそうなのはアイリス・ミドガルと他騎士団長だけ。平時の対立もあって連携は厳しいでしょうね」
「うん」
「シャドウ様からの指示がなければ、動きがあるまで待機ということになりますが」
「うん」
「よろしいですか?」
「うん……あ、ちょっと待った」
「はい」
「探し物があるんだ。ミスリルのピンセットと、地竜の骨の粉末と、それから灰の魔石の……」
少年が次々に挙げる器具を、ニューは戸棚から取り出していく。
「ありがと、いやー助かったよ」
「いえ、とんでもないです。あの、何に使うか伺ってもいいですか」
器具を両腕に抱える少年にニューは問いかける。
「ああ、これね。アーティファクトの調整をしているんだ」
「アーティファクトの調整ですか?」
まさか少年がアーティファクトにまで精通しているとは思わなかったが、しかし彼の存在を思えばできても不思議はない。しかし、なぜ今この状況でアーティファクトの調整をするのか。
「魔力の阻害をしているのは『強欲の瞳』というアーティファクトでね。今は強欲の瞳を一時的に無効化するアーティファクトの最終調整段階なんだ」
「なんと……さすがです」
まさか既に魔力阻害の原因を解明し、その対処法まで準備しているとは。
しかもこれほどの魔力阻害を引き起こすアーティファクトを無効化するとなれば、その準備に必要な知識は並大抵のものではない。国家最高峰の知識がなければ不可能だ。
ニューは彼の計り知れない頭脳に戦慄した。
「日が落ちる頃には完成すると思うよ」
「では、我々はそれに合わせてすぐ動けるように準備します」
「楽しみだなぁ」
「はい」
器具を抱えて出ていく少年を見送って、ニューは元許婚の意識を確認した。
漆黒の刀を彼の首筋に当てる。
呼吸も脈拍も正常、揺らぎはない。
生きてはいるが、間違いなく意識は失っている。
「命拾いしたわね」
ニューはマルコの首筋に薄い切り傷を残して姿を消した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「戻ったよ」
器具を抱えて帰ってきたシドの姿を見て、シェリーは微笑んだ。
彼女はシドから器具を受け取って机に並べていく。
「ありがとうございます。これで完成することができます」
「がんばって」
シェリーは早速アーティファクトの調整に取り掛かる。
シドはソファーに転がって本を読みだした。
そして静かな時間が流れた。
窓から差し込む陽の色が少しずつ茜に染まっていく。
シドは時々立ち上がりトイレに行く。
シェリーは頻繁にトイレに行くシドに胃腸薬を渡し、彼は微妙な顔で受け取った。
そうして陽は落ちていく。茜の色が強くなり、影が濃くなる。
シェリーがランプを点けると部屋の外が一段と暗くなった。
やがて陽が完全に落ちる頃にシェリーの作業は終わりを迎えた。
「できました」
シェリーはペンダントを持ってシドに見せた。
優雅に足を組み本を読んでいたシドはチラリと見る。
「すごいね」
「はい、やりました」
「うん、陽も落ちたしいい感じだ。学園の未来は君にかかっている」
シドは立ち上がってシェリーの背をポンポンと叩いた。
「もう僕に手伝えることはない、君の手で世界を救ってくれ」
「が、がんばります」
シェリーは少し緊張した声で言うと、ランプを手に地下への階段に向かう。
「本当にありがとう。シド君のおかげでお義父様を助けられます」
シェリーは最後に振り返って頭を下げた。
「僕はほんの少し力を貸しただけさ。お義父さん無事だといいね」
「はい」
シェリーは微笑んで階段を下りていった。
湿っぽい階段はしばらく続き、下りきった先は全く違う空気だった。
暗い地下通路をランプの灯りだけが照らす。
通路は入り組んでおり、一つ間違えば目的地にはたどり着けない。
「えっと……」
シェリーは地図を広げて大講堂への道を確認する。
「真っすぐ行って三本目を左で……」
最初はおっかなびっくり進んでいく。
かつて義父と一緒にこの地下通路を歩いた記憶が蘇る。仕事中の義父に無理を言って遊んでもらったのだ。それはシェリーにとって忘れられない大切な思い出だった。
彼女に父の記憶はない。父は彼女が生まれてすぐに亡くなった。
母の記憶も薄れている。母はシェリーが九歳になった夜に強盗に殺された。
あの夜、クローゼットの隙間から見た黒い影をシェリーは覚えている。母の叫びと、不気味なあの哄笑は今でも夢の中でシェリーを苦しめる。
事件のあと数年間、シェリーは声を出すことができなかった。周囲を拒絶し、ただ母の残したアーティファクトに取りつかれた。そして母の跡を辿るかのように研究に没頭した。
そんな彼女を救ってくれたのが義父だった。
シェリーを引き取って、研究を支援してくれて、家族の愛を注いでくれて、ようやく彼女は声を取り戻すことができた。
シェリーにとって家族の記憶とはそのほとんどが義父とのモノだった。
ずっと義父に支えられてきた。その恩を返す日が来たのだ。
「がんばらなきゃ」
シェリーは暗い道をたった一人で進んでいく。
その足取りにはもう、恐れはなかった。
そして、しばらくして辿り着く。
「ここが大講堂の下だ……」
道はいくつも分かれている。
一階へ向かう道、そこから中央へ、さらに二階へ……。
地図と道を見比べながら、シェリーは進んでいく。
「ぁ……!」
そして、見つけた。
そこは二階と三階の間にある小さな通気口だった。
人の出入りは無理だが、ペンダントを投げ込むには十分だ。
シェリーは通気口からこっそりと中の様子をうかがう。
気配を消すのに大切なのは力を抜くことだ、と。シドは言っていた。
力を抜いて、ゆっくりと呼吸する。
大講堂には沢山の生徒が座っていた。教師も少ないがいる。
そして黒ずくめの数はそれほど多くない。魔力が解放されればすぐに逃げ出せるだろうとシェリーは思った。
よし。
シェリーは通気口から離れ、ペンダントを取り出す。
それに用意した魔石をペンダントに組み込むと、白い光と文字が浮かび上がった。
光り輝くペンダントを握りしめたシェリーは、迷わず通気口から大講堂へ投げ入れた。
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