遠い昔のあの日より - No side -
――油断。完全な油断。
瓦礫にもたれ掛かり、血だまりの中で座り込んでいることに嫌気がさす。
センリは血の塊を吐き出して、立ち上がろうと全身に力を入れる。
だが、それは叶わなかった。
熱と激痛に支配された体は鉛のように重く、手の指先がわずかに動いただけ。
「チッ……やっと大人しくなったか」
離れた位置から忌々しげに男がぼやいた。長剣を携えた若い男だ。
視界の中には男の他に五人いる。
斧を握る初老の男。ナイフを構えた褐色の女。片腕を切り落とされた大男。残りの男女二人は首と手足を分断され、血を撒き散らして転がっていた。
邪神を祀る巨大な礼拝堂は崩壊寸前であり、割れた天井の隙間からは魔界特有の濁った空が覗いている。
「この状況で二人も殺るなんて……。でもこれでおしまいよね」
荒い呼吸を繰り返し、嬉しそうに汗を拭う女。
センリはつまらなそうに妖魔たちを眺め、大きく切り裂かれた己の腹部を右手で押さえた。傷は内臓まで達しており、折れた肋骨がわずかに見える。肩に刺さった女のナイフが左腕の感覚を奪っていなければ、溢れ出る血を幾分か減らすことが出来ただろう。
「うふふっ♪ ねぇ、どんな気分?」
乱れた短い髪をかき上げ、嘲るように女が笑った。
続いて周りの男たちも低く嗤う。
「複数を相手にしたの、初めてでしょ? 神もあんたらも愚かだものね。不変を疑いもしないで、あたしらが手を組むことなんて考えてなかったでしょ? 実に滑稽だわ」
悠然と語りながら男たちに前を譲り、女は片手をセンリに伸ばした。
放っておいても数分足らずで絶命するほどの深手だが、妖魔たちは油断なく武器を構えていた。気を緩めたのは一瞬だけで、すぐに警戒の眼差しをセンリに向ける。
初老の男が斧頭を正面に向け、
「回復か蘇生を使うかもしれん、油断するな。確実に息の根を止めるぞ」
呼びかけを合図に、男たちがゆっくりと距離を縮めていく。
女は詠唱を開始し、センリを囲むように次々と生まれる氷塊が、埃まみれの空気を冷やしていく。
一度止まった殺し合いが、再び始まるその前に。
ようやくセンリが口を開いた。
「安心しなよ。俺は回復も蘇生も使えない」
妖魔たちが危惧していることは見当違いに他ならない。
だから笑った。
悔しそうな、諦めたような笑みだった。
「でも、あんたたちじゃ俺は殺せないよ。
天才と謳われたこの俺が、八千年かけても殺せないんだからな……」
最後の言葉は、誰の耳にも届かなかった。
宙に浮いていた幾百の氷塊を含め、この場にあるすべての武器が刹那に消える。
センリ以外の全員が動きを止めて目を見開いた。
消えたことに驚いたから、ではない。
「あーあ……」
やたらと間延びした、新たな女の声が響き渡る。
同時に、礼拝堂全体が世界から切り取られた。
――幻結界・
完璧な檻と化したことを、この場の全員が悟った。
「駄目だよセンリ……こういう時は逃げないと……」
穏やかに言いながら微笑むノエルサーガは、のんびりとした足取りで褐色の女の横を抜けてセンリに向かう。
妖魔たちは誰一人動かない。強張った表情で固まっている。
ノエルからは敵意も殺気も感じられない。武器を持っているわけでも、幻獣を連れているわけでもない。完全に隙だらけであり、端から見れば攻撃を仕掛けるチャンスである。しかも数に分があるうえ、片方は戦える状態ではない。
それなのに、誰も仕掛けようとしない。視線すら動かさない。
恐らく本能的に理解したのだろう。斬りかかっても術を放っても、易々と躱されて意味をなさないのだと。
「上位魔族が六人だよ……さすがに無理だってわかるでしょ……? 意識を保っているのもぎりぎりじゃない……今は生身で……血が不足するだけで動けなくなるんだから……以前よりも気を付けないと……」
ノエルは妖魔たちには目もくれず、センリの正面に座る。次いで俯くセンリに手を伸ばし、
「とりあえず傷だけ塞ぐね……重症なんだから……動いちゃだめだよ……」
とても優しく注意して、肩に刺さったナイフを抜き捨てる。淡い緑の光がセンリを包み、肩と腹部が完治する。だが折れた肋骨はそのままだ。
「あとはやっていいでしょ……? 逃げなかったセンリが悪いんだから……」
「…………勝手にしろ」
掠れた声でため息交じりに応え、センリは両目を伏せた。
ノエルはふふっと笑って、ゆっくり立ち上がる。全身に光を纏い、男性へと変化した。
「魔界にいないから来ないと思った……?
知らされなかったんだね……かわいそうに……
センリはね……大事な大事なオレの妻の……大事な大事な〝たからもの〟なの……
だからずっと見守ってる……
本当は傍にいたいけど……嫌がるから……遠くから見てるの……」
ノエルはゆっくり振り向き、後ずさる妖魔たちを眺める。
「彼女の宝を傷付けた罪は、重いよ」
その目は笑っていなかった。
**
「――終わったよ、シン」
短く報告し、ノエルは手にした通信機に微笑みかける。
「思った通り来たよ……刺客……
やっぱりばれちゃったみたいだね……天界が落ちたあの時に……」
周囲はひどい有様だった。
数分前までは生きていた四体全員が、潰れたトマトの如く頭部を破壊され、中身を撒いて倒れていた。
対するノエルも大量の血で汚れてはいる。だがそれはすべて他者のモノであり、ノエル自身はかすり傷さえ負っていない。
「あー……センリは気を失ってる……」
空いた手でノエルがぱちんと指を鳴らすと、瞬く間に体の汚れが弾け消えた。
「うん……まぁ……負けるまでは手を出さない約束だからね……
本当は……無茶なんてしないでほしいし……怪我もしてほしくないけど……
それはオレのわがままだから……押し付けてもセンリは喜ばない……
センリが喜ばないなら……彼女も喜ばない……
だから止めないよ……嫌だけど……止めない……
こっちは大丈夫だから……シンはエルナの心配をしてあげて……まだ見つかってないんでしょ……?」
じゃあまたね、と通信を切り、それから無意識に天を見上げる。
幻結界は今も持続中であり、穴から見えるのは不自然な黒だけ。
ふいに、声が蘇る。
『素直じゃなかったけれど、おとうさんはいつも私を助けてくれた。だから、もしもまた会うことが出来たなら、今度は私が助けるの』
それは愛する彼女のことば。生前、何度も聞いた彼女の誓い。
ノエルはゆっくり息を吐き、それから歩き出した。邪魔な死体を避け、センリの前で足を止めると片膝をついた。
銀の髪に手をかざし、センリの体に『蘇生』をかける。すべての負傷が癒されて、新たに作られた血液が体内に宿る。あとは通力が回復すれば、何事もなく目覚めるだろう。
「シャロムの望みはオレが叶える……センリは絶対に死なせない……」
どれだけ嫌われても疎まれても、それだけは貫き通す。
遥か昔、センリと初めて会った時に、愛する妻にそう誓った。
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