あの夏の日のつづきを

このはな

第1話

 潮のにおいがする。

 歩きながら、うしろを振り返った。背の高い建物の向こうには、大きな海。水面がキラキラ光ってる。

 ざざん。ざざーん。坂の上まで聞こえてくる波の音。

 とっても、きれいだなあ。

 もっと海を見たくなって、ふと足を止めた。

 今わたしが歩くこの坂道は、お気に入りのお散歩コースだ。よく晴れているせいか、海がまぶしく見える。

 ううん、海だけじゃない。空も、街路樹の葉っぱも、みんなキラキラしてまぶしい。

 このまま、ずっと晴れていてほしいな。

 なんてことを思いながら空を見上げたとき、着メロが鳴った。

 携帯を取りだし、耳にあてがう。

「もしもし?」

 ちょっとあわてたような声が耳に飛びこんできた。

『あ、詩麻か? おれ、おれやけど』

 野球部のキャプテン、本宮くんだ。夏休みでも忙しいのかな。相変わらず早口だ。のんびり屋なわたしとは正反対の彼。

「おれやけど、って言われても。おれさん、なんて人知らへんし。どなたでしょうか?」

 なんだか、からかいたくなってしまった。わざと知らんふりをする。

 すると、ムッとした声が向こうからした。

『あのな、冗談言ってるんと違うんやで。緊急連絡なんやぞ!』

 緊急連絡? まじめな電話だったのか。それはわるいことをしちゃったな。

「へへっ、ごめん。だって、もとやん、いつも忙しそうなんだもん。休みのときぐらい、のんびりした方がいいと思わへん? って思っちゃったから」

『なんや、よう言うわ。そんなん理由にならへんぞ』

「まあ、いいじゃん。それより、なんの用やったん?」

『おう、そうや。忘れるとこじゃった』

 一拍、間を置いてから、彼は言った。

『磯田のやつ、事故って入院したんやって。これから見舞いに行くんやけど、おまえも来る? あいつ、アホなんや。なんでかよう知らんけど、屋根にのぼって落っこちたんだと。足の骨にヒビが入って、全治二か月なんだわ。ったく、まいるよなあ』

 思わず、わたしは絶句してしまった。



 本宮くんからの電話のあと、急いで家に帰ったら、お兄ちゃんがいた。

 お兄ちゃんはキッチンに立ち、キャベツを千切りしていた。

「たっ、ただいまあ!」

 息を切らして入って来たわたしを、お兄ちゃんはしげしげ眺める。

「どうしたんや、詩麻? のん気もののおまえが走って帰ってくるなんて。なんかあったんか?」

 お兄ちゃんの前を素通りした。

「う、うん、ちょっとね。なんかあったのは、わたしじゃないんやけど」

 返事をしながら冷蔵庫の扉を開けた。もう、のどがカラカラだ。麦茶の入った耐熱ガラスのポットを出して、コップに入れる。乾いたのどへ一気に流し込んだ。

「ふう、生き返った……」

 あの坂道を走って下ったから、たくさん汗をかいてしまった。シャツがぺっとり背中にくっついて、ちょっと気持ち悪い。

 扇風機の前に陣取り、シャツのすそを少し上げて、ブワーッと風を送る。

「はあ~、気持ちいい~」

「そんで? おまえじゃなかったら、誰に何があったんや」

 お兄ちゃんは、わたしが落ち着くのを待ってから質問してきた。包丁をまな板の上に置いて、エプロンを外す。

「そうだ。磯田くんだ!」

 わたしは「あっ」と叫んだ。

 バカだなあ、わたし。なんのために走って帰ってきたんだろ。磯田くんのこと忘れるなんてさ。

 チラッと振り返る。

 思ったとおり、お兄ちゃんが「またか……」と苦笑いをしていた。

「おまえ、ほんと忘れっぽいんだなあ。その調子じゃ、二学期が始まる日も忘れてるやろ」

 ムムッ、人のことバカにしちゃってさ。

「そんなことない。ちゃんと覚えているもん。九月一日でしょう?」

「バッカだなあ。九月二日だよ、今年は。カレンダー見ていないのか? やっぱりな」

「ちっ、ちがうもん! これは引っかけ。お兄ちゃんが覚えてるかどうか試したの!」

「あー、わかりました。はいはい」

 お兄ちゃんは、わたしの頭をなでて髪をクシャクシャにした。

「それで、磯田くんがどうしたん? 野球部の一年だったっけ?」

「そうだよ。もう、やめてよう。髪いじらないで」

 お兄ちゃんの大きな手を両手で払いのけてから、わたしは答えた。

「さっき連絡があったの。磯田くんが屋根から落っこちて骨折したんだって。これからお見舞いに行ってくる」

 お兄ちゃんは、小首をかしげた。

「そうか、じゃあ行かないとな。おまえ一応マネージャーなんだし。で、どこの病院なんや?」

「港中央病院」

「だったら、おれの車で送ってやる。でも、そのまえにメシを食ってからだ。今お好み焼きを作ってやるから、ちょっと待ってろ」

 お兄ちゃんはそう言って、キッチンに戻った。

「ええ~! この暑いのに、お好み焼き~?」

 こんなに暑いんだから、冷やし中華かひやむぎがよかったよ。

 そう言おうとしたのだけど、

「なんか言ったか?」

 お兄ちゃんがじろっとにらんできたので、わたしはあわてて口をつぐんだ。ここで、お兄ちゃんの機嫌を損ねたら、お昼ごはんが食べられなくなっちゃう。

 ま、いっか。お兄ちゃんの手料理は、おいしいんだし。お母さんがパートにでてるあいだ、わたしの胃袋はお兄ちゃんの気持ちひとつで決まってしまうのだ。ここはひとつ、よいしょしておこう。

「ううん、なんにも言ってないよ。詩麻、お好み大好き!」

「だろ?」

 お兄ちゃんは、うれしそうにニッと笑った。

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