俺は君の手を掴めない。雲の上の島で、俺だけが翼を持たないから。
西田井よしな
第1話
「何をしているんですか?」
誰かが俺に話しかけてきた。振り返ると、ひとりの少女が立っていた。
小柄で、灰に水晶の粉を混ぜ込んだような透明感のあるアッシュブロンドの髪が美しい。その格好はどこにでもいる村娘のそれだが、少し薄汚れている。俺に関心があるらしい割には無表情で、実際は道端の小石に話しかけるくらいの興味しかないのかも知れない。
「何か用か?」
だから俺も適当にあしらった。質問に質問で返された少女は、しかし表情一つ変えることなく、おもむろに視線を横に投げた。
「別に……」
その視線の先にあったのは、俺たちの視線とほぼ同じ高さで浮かんでいる雲の群だ。
空の果てまで白い絨毯を広げ、また盛り上がり、何にも遮られることのない太陽の光をいっぱいに浴びて仄かに輝いているそれは、天界の巨人が造り上げた宮殿のよう。
そして視線を少し下げれば、俺たちは天空を望む断崖の上に立っていることが分かる。一面の草原が、空から吹く風になびいて波紋を描いている。
「ただ、散歩をしていただけです。あなたもそうだと思ったので」
「あっそう」
「そんなことで馴れ馴れしく話しかけるな」という意味合いを言外に込めた冷たい口調で俺は相槌を打った。
「俺は仕事中だ。あんた、こんなとこ歩いていたら危ないぞ」
そう言って断崖の方へと体の向きを変え、土を踏みしめ、半歩前に進んで続ける。
「何せここは『浮遊島』の外縁部。世界の端っこだ」
少し間が空いて、天空から吹き付ける冷たい風が俺と少女の首筋を撫でる。向かいから吹いているのに、まるで背中から空中に突き落とされそうになる錯覚は未だになくならない。
少女に立ち去ろうとする気配がないので、俺はため息を一つ挟んで付け加えた。
「まあどうせ、浮遊島から落ちたってあんたは戻ってこれるか」
「あんたは、って?」
少女が不思議そうな目をしてこちらを見た。舌打ちをしたくなったが、俺から振ったようなものだし、別にいいか。
「俺は『翼』を持たない。あんたらと違ってな。この島の人間として欠陥品なんだよ、分かるか?」
そう言って親指で自分の背中を指さした。今は俺の背中にも、そして少女の背中にも何もない。だがこの少女に関しては、必要があればその背中から白いオーラ状の翼を生やして空を飛ぶことができることを、俺は前提条件として理解している。
「そうだったんですね」
少女は表情を変えることなく、しかしその声色は穏やかなものだった。全く何を考えているのか分からない。
「では、仕事というのは?」
「あ? 見回りだよ、見回り。浮遊島の縁に異常がないか、こうして歩き回って確かめるだけのな」
「では、散歩とあまり変わりませんね」
「あ?」
二回目の「あ?」にはいささか殺意がこもった。からかって言うのならまだ受け流せた。だかこの女、その仏頂面で淡々と、純然たる事実を突きつけるように言うのだから頭に来た。
「あんた俺を馬鹿にして楽しいか? お話しはもういいだろう、用がないなら失せろ」
そう言って睨みつけると、少女はにわかにその目を見開いて慌てだした。
「ま、待って! えっと、あ、もし失礼なことを言ってしまったのなら、すみません。別にそういうつもりで言った訳では……」
何だこいつ。自分が言ったことの意味をよく分かっていなかったのか? 本当に悪意はないらしい。それはそれで質が悪いとも言えるが、なんだかもう怒りも冷めてしまった。
「あのな、なんで俺が人里離れた土地でこんなつまらん仕事をやっているのか、さっきの話を聞いて想像できないか」
「それは、ええと……あっ、仲間はず……っん、んん!」
少女はまたしても思ったことが口に出そうになったらしく、咳ばらいをして誤魔化した。視線を逸らし、変化に乏しい顔ながらもダラダラと冷や汗を浮かべている。また俺を怒らせることがないように精一杯気を張っているらしい。
だが、どうやら頭が悪い訳ではなさそうだ。
「そういうことだ。飛べないのろまは世間では役立たずでしかない。爪弾きにされた俺に残された数少ない仕事なんだよ、これは」
「はい……」
「あと、そうでなくとも人の仕事を無神経に散歩とか言うんじゃねえ。雨風吹けば島の縁が崩れることはあるし、外縁から飛び降り自殺とか、そこまで行かずともどこまで落ちれるかチキンレースしようとする馬鹿を止めるのも仕事の内だ。『もしも』は起こる。覚えておけ」
「すみません……」
少女はただでさえ小さい体をさらに縮めて平謝りした。
何だか今のやり取りで変に疲れてしまった。俺は見回りの仕事を続ける気も失せてその辺の草地に腰を下ろした。
「で、あんた本当に何の用もなく俺に話しかけたのか?」
「それは……」
「あまり人付き合いが上手そうにも見えんし、そんな奴が散歩仲間を見つけたと思ったって理由だけで年上の見知らぬ男に話しかけるのも不自然だ」
「……」
俺は彼女の警戒を解くために努めて優しく語りかけたが、少女は表情を固くして黙り込んでしまった。こちとら久しぶりに他人と話すものだから、喉がさび付いた馬車の車軸みたいに軋んでいるのだ。さっさと答えて欲しい。
「用があるとして俺にはさっぱり見当もつかんが、何だったら言ってみろ」
すると少女は俺の正面に正座し、ためらうように二、三度こちらに視線を投げた。
「あの、笑ったり、怒ったりしないで聞いてもらえますか……?」
「面倒だ。何でもいいから言え」
若干の苛立ちを込めて言うと、少女は観念したのか恐る恐る口を開いた。
「……寂しかったんです」
消え入りそうな小さな声。しかし精一杯絞り出したのであろうその言葉を、少女は口にした。
「私、この世界から脱出したいんです。それで、内地から逃げ出してここまで来ました。でも、お金とか寝床とか、そろそろ限界で……そしたら無性に心細くなって……」
そう打ち明けて、少女はうつむいてしまった。
「……ぷっ」
「あっ」と思った時には既に、俺は吹き出してしまっていた。
「ひ、酷いです!」
少女が顔を真っ赤に染めて憤慨するので、俺はますます愉快になって乾いた笑い声を上げた。
「ははっ、いや、でも笑わないと約束はしていないからな」
「それは、そうですけどっ……」
少女は何か文句を付けようとしたのだろうが、言葉が続かず、むすっと頬を膨らませた。でもそうして人間味のある表情をすると、なかなかどうして可愛らしい顔立ちをしているものだと気付かされる。
「何でそんな無謀なことまでして世界の果てまで逃げて来たのかは、まあ聞かないが……うん、面白い奴だな、あんた」
含んだ酒を口の中で転がすように、一言一言をじっくりと噛みしめる。
「お兄さんだって私を馬鹿にしています。こっちは必死なんですから」
口調が少しツンツンしている。
「おあいこだな」
「むう……」
そのとき、柄でもない考えが脳裏をよぎった。
翼を持たず、そのせいで憂き目に遭い、孤立してきた俺は、自分から進んで世捨て人になることで尊厳を保とうとしてきた。だから馴れ合いなど馬鹿馬鹿しいと思うし、意地になって無頼を気取ってきた。
だがまあ、こいつも世界の縁っこに追いやられた人間だと言うのならば、多少の情けをかけても己の矜持には反することはあるまい。
「あんた、名前は?」
そう尋ねると、少女は一瞬驚いたように目を丸くしたが、やがてむずかゆそうにへの字に曲げた口を小さく開いた。
「ユピナ、です」
「ユピナか。俺はケンリヒ。誰かと仕事以外の話をしたのは本当に久し振りだ。そういう訳で俺は腹が減った」
そう言って話の風呂敷を広げていく俺を、ユピナは思案顔とも取れる無表情で見つめる。
「今日は少し食材が余っている。どうせ食べきれなくなるくらいなら誰かに処分してもらいたいんだが……」
最後に意味深長な視線を投げる。
が、しかし、
「ええと、それは……どうしましょう……?」
ユピナは俺の言わんとしていることが本気で分からないらしかった。小首を傾げ、あたふたと視線を泳がせている。
何なんだ、こいつは。
「じゃ、そういうことだから」
もうこいつは放っておいてさっさと家に帰ろう。
「あ、あのっ……お兄さん……っ!」
立ち上がった背中に、ユピナの悲痛な声が刺さる。振り返ると、親に見捨てられた小動物がいた。このままにしておいたら、パニックを起こして浮遊島から落っこちてしまうのではないかな。
ため息をひとつ吐く。
「……早く来い」
そう告げると、小動物はぱあっと瞳を輝かせた。
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