トラブルの足音
扉を開けて宿に入るとどうにもカビの匂いが鼻につく。
宿の一階は食事が出来るような造りになっているようだが、人の気配は全く無い。
路地裏に近い場所にあるしこんなもんか?とエノスは考えながら入ってすぐの所にあったカウンターに向かう。
「…………」
カウンターの前でしばらく待ってみるも店主が顔を見せる気配すらない。
このままじっと待っていても仕方がないのでカウンターの上にあった呼び鈴を鳴らす。
カンカンと伸びのない濁った音が鳴り響くとようやくカウンターの後ろ側から店主らしき男が出てきた。
どうやらカウンターの後ろ側には休憩するスペースなどがあるようだった。
店主はエノスの顔を見るやいなや突き放すように言葉を発する。
「あー……埋まってるよ」
それだけ言うとまたすぐに裏に引っ込もうとする。
エノスは店主の意外な言葉を聞き、無人のテーブル達に一瞬目を移す。
「お、おい。ちょっと待ってくれ」
既に身体が半分隠れている店主を慌てて呼び戻す。
「あぁ……だから空いてるけど埋まってんだよ」
「違う、そうじゃないんだ。ここの宿に泊ってるって人に用事があって……」
エノスの言葉に店主の眼が剣呑な光を帯びるが黙っているところを見ると続きを話せ、という事だろうと推察した。
「あぁ……俺はギルドで依頼を受けてきて、依頼人がここに泊まっているって話だったんだ」
「依頼人の名前はなんて書いてあったんだ?」
その言葉を聞いてエノスは一瞬たじろいた。
なんとか依頼を受けないと、という事で頭が一杯だったエノスは依頼人の名前や期間などの細かい事は頭に入っていなかった。
ここで答えを間違えるとロクな事にならない気がしたエノスは咄嗟にガンツォから受け取った紙に目をやった。
「えっと、モデクレス……だな」
ガンツォはやはり気の利くおっさんで、依頼人の名前や期間、護衛依頼の目的地までしっかりと書いてくれていた。
あぁ安物のエールじゃ駄目だ、ガンツォには葡萄酒を目一杯飲ませてやらないと、とエノスは感謝していた。
「おぉ、そうだったか。モデクレスの旦那は二階の一番奥の部屋だ。ノックしてから"ギルドの依頼を請けてきた"と言えよ。いやーお前もそういう事なら先に言えよなぁ」
先に言えと言われてもさっさと裏へ行こうとされたのだからどうにもならないだろうとエノスは苦笑いする。
それよりも店主の態度が突然柔らかくなった事に違和感を覚えた。
「それじゃあ、とりあえず挨拶をしてきますので」
「ああ、分かった。あとウチは寂れてるけど客がいない訳じゃあねぇ。今は事情ってもんがあんだ。料理の方には自信があるしよぉ。大体なぁ、いつもだったら俺の美しいカミさんがなぁ……っといけねぇ。……まぁ俺は大体裏にいるからなんかあったら声を掛けろよ」
と、店主はカウンター裏の扉を指さした。
放っておいたらいつまでだって喋っていそうな店主は自分で自粛する事も出来るらしい。
入った時はがらんとした店内に重苦しい雰囲気を感じたエノスだったが、楽しそうな店主を見て少し安心とした気分になった。
二階への階段は入り口から真っ直ぐ突き当たった所にあった。
食事するテーブル達をぐるりと回るように階段が伸びていて二階に繋がっている。
二階のいくつかの部屋の扉が下から確認できる所をみると、吹き抜けになっていると表現したらいいだろうか。
とにかくエノスは階段をのぼり二階に上がる。
二階にはいくつかの部屋があり、それぞれの部屋の中には何となく気配があるように感じる。
しかしそれにしては、あまりにも静かな事が少し不気味に思えた。
突き当りの部屋までたどり着いたエノスは店主に言われたように扉をノックすると「ギルドの依頼を請けてきた」と言った。
すると、しばらくして中からゆっくりと扉が開いた。
部屋はかなり広く、小洒落た置物なども置かれており、中央にはテーブルとソファまでおいてあった。
エノスがここの宿に抱いていた印象とはどこか違って見える部屋だった。
そのソファには恰幅のいい男座っており、エノスを値踏みするように見ていた。
身なりの整った所をみると経済的には豊かであろうと想像できる。
少なくとも路地裏のカビが生えた宿が似つかわしくないのは確かだった。
「どうも、ギルドから依頼を請けてきました」
「あぁ、それはさっき聞いたよ」
素気なく返されたがエノスは特に棘があるように感じなかった。
それよりも気になったのは視線だ。
上から下まで舐め回すようにエノスを見ている。
エノスは自分の容姿に自信がなかった。
銀に近い灰色の髪は適度に切りそろえられていて、金色に近い黄色の瞳。
体は筋肉質ではあるが、一年に渡る"入院"とやらで硬い筋肉の上に脂肪が少し付きはじめている、というような体型だ。
エノス自身としてはヴィクターを含め、入院時に見たことのある人々と比較しても自分の見た目は一般的だと考えてはいた。
しかし鏡で見る自分が、自分の記憶の中に居ないのだ。
それなのに腕を動かすと鏡の中の知らない自分が同時に動き出す。
エノスは鏡を見るのがとても嫌いだった。
そんなエノスに目の前の男は容赦のない視線を投げかけてくる。
もしかしたら何かおかしなところでもあるのだろうか?などとエノスは考えていた。
「ふむ……ギルドから来たと言っていたがランクは?」
ようやく男の観察が終わったのか沈黙が破られた。
「実はですね、先程登録したばかりでしてランクはシングルスターです。ですがっ……」
言いにくい事ではあるがここで嘘をつく訳にはいかない。
しかし断られるわけにもいかないエノスは先んじて腕は立つ、と続けようとした。
が、エノスの言葉は目の前の男性があげた腕に遮られた。
「あいつらよりよっぽど腕が立ちそうだな」
ボソっと呟く男性。そして徐に立ち上がった。
「私が、ん……モデ……クレスだ」
男性はそういうと立ち上がったまま手を差し伸べてきた。
さっきもこういうシーンがあったと思い返すエノス。
でもまさかここで冒険者証を求めているということはないだろう、ならば握手だと確信してその手を握った。
モデクレスは少し驚いた顔をした後、笑いを堪えるようにして「冒険者証を」と言った。
冒険者証をエノスから受け取ったモデクレスは小さな石を取り出して何かをしている。
怪訝そうな目でみていたエノスに依頼をギルドに貼ってもらうとこの石を受け取れて、それを以て冒険者証で依頼者を識別できるようになるのだ、というような話を教えてくれた。
まずはエノスの受注を確認して着任した記録を残すようだった。
どうやら同じ日に二度も同じ間違えをしてしまったらしいと分かりエノスは少し恥ずかしくなった。
「ふむ、エノスか」
モデクレスは手続きを完了させたついでに名前を冒険者証から読み取ったらしい。
エノスは手渡された冒険者証を受け取りポケットにねじ込む。
「まぁ握手も悪くはないだろう。どこかの国ではお互いに武器を隠していませんよ、という意味合いもあるようだから。こういった仕事をしている訳だしね」
「こういった仕事と言いますと……?」
「おや、聞いていなかったかね?あぁ依頼には書いていなかったかな。そもそもモデクレスという名前も符号のようなものでね。どこから話が通ったか、というのが分かるようになっているんだが……」
モデクレスはそう言いながら扉の方を指差す。
それにつられるようにしてエノスが振り返るとそこにはボロを纏った少年がいた。
確かにさっき扉が開いた時にモデクレスはソファに座っていたし、自動的に開くわけがないから誰かが開けていたのは当然だった。
敵意があればすぐに気付いたはずだ、とエノスは自分に言い訳をする。
「彼は?」
「あぁ、奴隷だ。私は奴隷の売買を主に行っていてね。買った奴隷を無事に送り届けるという依頼を出していたわけだ」
モデクレスはニカッと笑いなんでもない事のように言った。
ーー奴隷
他国では黙認されているようだがここスターティア王国では禁止されていて、咎められると死罪も有り得るから関わるなとヴィクターが言っていたのを思い出すエノス。
「もう依頼の契約はバッチリ完了しているからな。頑張って守ってくれよ」
嵌められた。
いや、ガンツォが必死に止めようとしていた事を思い返すとこの状況はエノス自ら嵌りに行ったようなものだったが。
衝撃に立ち直れないでいると背後の扉を叩く音がした。
「私……です」
「入れ」
ヴィクターとは結局こういうやり取りは出来なかったなぁとエノスは頭の隅で考えていたが、そんな考えはすぐに消え去る事になった。
開いた扉からおずおずという雰囲気で入って来た少女の頭には猫耳がついていた。
「あぁっ」「あっ」
どちらが発した声が早かったか、二人が揃って声を上げる。
「おや、知り合いだったか?」
怪訝そうな顔をしたモデクレスが少女に尋ねる。
「いえ……えっと……」
どうにも言い出しづらそうな顔をしている少女。
「あぁ、さっき道端であってこの宿の場所を聞いたんだ」
「場所を? そうなのか、マナ」
マナと言われた少女は俯きながら「はい……」と答えた。
なんだか妙な空気を感じているだろうモデクレスは「まぁいいか」とでもいうように居住まいを正す。
「それで、頼んでいたものは調達できたのか?」
「はい……無事にお店の方とお話が出来まして、明日の朝こちらに届く形になります」
マナは俯きながらも"無事に"という所でこちらを上目遣いで見つめてきた。
「そうか、それならいい。あとシャーンに一人増えたから晩メシを追加するように言ってこい。おっと、こいつを忘れていたな」
シャーンというのはあのおしゃべりが好きそうな宿の主人かな?などとエノスは考えていた。
モデクレスは立ち上がると部屋の隅にあった机の上から首輪を持ってきた。
マナは何も言わずにモデクレスに近づき、目を閉じて頭を少し上げた。
エノスはキスでもするのだろうか?このまま見ていていいのだろうか?と内心あたふたしていたが、そんな様子もなくマナの首に冷たそうな金属の輪が嵌められた。
奴隷は冷えたあの首輪によって管理しているのかと考えるとエノスの脳も急速に冷えていく。
「それでは、行ってまいります」
「あぁ、ついでにお湯を沸かしてここに持ってくるように」
マナは分かりました、返事をして部屋を出ていく。
扉が閉まるとすぐに外から罵声が聞こえた。
この声は……どこかで聞いたことがあるような、とエノスは耳をすましてみる。
「このアバズレが!」「そうだ」「そ……だ」
エノスの耳は確かに捉えた……トラブルの足音を。
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