ブロッコリーについての批評
可笑林
第1話
ブロッコリーほど精彩を欠いた野菜もないだろう。
まず第一に味気ない。
どのような野菜にもそれ特有の風味や香りというものがあり、その点が人それぞれの好き嫌いにつながるものである。ニンジンやカボチャに感じる甘味、トマトやキュウリに感じる酸味、セロリやルッコラは言わずもがなだ。
それに引き換えブロッコリーはどうだ。まるで味がしない。「植物を噛んでいる」以外の感想が見当たらない。キャベツの系譜だそうだがキャベツにだってほんのりとした甘みを感じる。ブロッコリーにはそれがない。口腔内に虚無を生み出す植物だ。
奇妙な名前だと思って由来を調べてみれば、「ブロッコリー」とはイタリア語で「茎」という意味らしい。そらみろ。こんな屈辱があるか。私はもしも、街角で「おい『右乳首』」とでも呼ばれたらならばそれはもう憤慨して見るも絶えないほどに激昂するだろう。右乳首は私を構成する一部であって、決して私のアイデンティティーを表すものではない。
それだというのに、かの野菜は「茎」と呼ばれてなお、碌な抵抗も見せずに店頭に漫然と並んでいるではないか。茎と呼ばれているのだぞ。茎なんて他の植物にもあるじゃないか。もっと自らの特徴を名に冠したいとは思わないのか。
私のそんな思いとは裏腹に、ブロッコリーは物も言わずに今日も買われていく。
しかしそれも仕方ないことだ。ブロッコリーに際立った特徴はないのだから。
親戚と思われるカリフラワーやロマネスクは実に特徴的である。カリフラワーは口当たりも柔らかく、焼けば香ばしく茹でれば柔らかい。色合いも美しくシチューに入れれば香り付けにもなる。ロマネスコの方は、味に遊びはないが、その規則正しいフラクタルな形状は仏の螺髪を思い起こさせ、食する者に徳の高さすら覚えさせる。
一方ブロッコリーはどうだ。
煮ても焼いてもビクともせぬ。なんだか微妙に青臭いあの感じはまったくぬぐえない。そもそもどこを箸でつまんでよいのかわからないから食べにくい。上手くつまんだとしても、どこからかじればいいかもよくわからないから始末に置けない。一口で食べるには大きいし、噛み切るにしてもどこからかぶりつけばいいか見当もつかない。思い切って丸ごと頬張ってみれば、口の中でごつごつごろごろしていて咀嚼に難がある。では二口に分けてかじってみれば、箸に残った欠片がどうしても食べ物に見えず困惑するばかりだ。
余りに特徴がない上にコンクリートもかくやという形状不変なこの野菜は、一周廻ってむしろ存在感がある。ステーキプレートの端に無造作に置かれている様は、間伐し損ねた広葉樹を彷彿とさせる。ステーキを差し置いて一番に手をつけるほどのものでもなし、しかしてステーキを喰い終わったあとに口に入れるのも興ざめである。では箸休めにどうかと問われれば、大抵ブロッコリーの傍にはニンジンやジャガイモが添えられているので、かの野菜の出番はそもそもないのである。デミグラスだろうが和風だろうがあらゆるソースを受け付けないあの堂々たる姿にはある種の憧憬すら覚える、いや、覚えない。いいから料理されろ。
マヨネーズをかければ美味しいだろう。実際テレビコマーシャルで福山雅治がそうしていた。
そう思った諸君は甘い。少なくともブロッコリーよりは甘い。
『マヨネーズをかければ何でも旨い』
これは万古不変の真理であり。どんな野菜でも福山雅治がかじれば旨く見える。
かの大国ではブロッコリーは鼻つまみの代名詞だ。
国民皆保険の実施を検討する際、「保険料の強制徴収は国が無理やりブロッコリーを買わせるのと同じではないか」という議論が裁判所で巻き起こり、果ては大統領に対する抗議としてホワイトハウスに大量のブロッコリーが送り付けられる始末。
まったく、悔しくないのか!
私は声を大にして言いたい。ブロッコリー諸君! 君らは虐げられている!
今からでも遅くないから、とてつもなく辛くなるとか、途方もなく栄養分に満ちるとか、そういった突然変異をするとか、そういった進化をするべきだ!
それでも、今日も彼らは漫然と市場の隅で、泰然自若としているのだ。
ブロッコリーについての批評 可笑林 @White-Abalone
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます