第3話声優の卵は、俺を選びました。
「兄さん。今日はどこの面接を受けるの?」
月曜日。一般の人なら、この日を憂鬱に感じ、嫌々と職場や学校に向かう。両親は先に出て、俺と良子だけで朝食を食べていると、嫌味を言ってきた妹、良子もその一人だ。
「俺はまだ、どこにも面接を受けねえよ」
だが、俺は無職だ。工場勤務の交代制で、自由はなく、時間に追われる生活を送っていた。ようやく手に入れた自由の時間。そんな簡単に手放してやるもんか。
「それなら丁度良かった。兄さん、先日に先生に会った事を覚えている?」
「確か、タバコを吸っていたあの人……。浅井さん……の事か?」
大人の女性だと思わせる雰囲気を持った、声優業界の事を教えてくれた浅井さんの事だろう。
「今日の朝の9時、駅前の喫茶店で待っているって」
勝手に俺の日程を決めないで欲しい。もし今日が、失業認定日で、ハロワに行かないといけなかったら、どうしてくれていたんだ。まだ、ずっと先の話だが。
「声優の次は、俺にタバコの魅力でも教えてくれるのか?」
「それは知らない。兄さんと、会って話がしたいとしか言っていなかった。それじゃあ、私は学校に行ってくる」
どうして、俺と喫茶店と話そうと思ったのか。
良子が信頼する養成所の先生なので、変な事をしないと思うんだが、たった数分しか話さなかったのに、俺のどこに興味を持ったのか、それを確かめるためにも、俺は喫茶店に行く運命のようだ。
「時間、ギリギリだな」
「いや、5分前に来たんですが」
指定された5分前。駅前の喫茶店に行くと、スーツを来て、一層大人の女性の空気を漂わせている浅井さんがいた。だが、5分前に来たのが気に入らないのか、ジト目で俺を見ていた。
「5分でも遅いぐらいだ。少年も社会人なら、それぐらいのビジネスマナーは知っていると思うんだが」
「そんなビジネスマナーは、クソ食らえと思います」
そんなビジネスマナーは、俺だって知っている。集合時間には、5分から10分前には、到着しないといけない。そして時間を指定した当の本人は、時間ちょうど、それか少し遅めでやって来る。このマナーは、一体誰が考えたのか。
「そうだな。そんなマナーは無くなればいいのにと、社会に出た頃の私も、そう思った」
怒るどころか、俺の意見に同情してくれた。浅井さんは、どこかの上司より、話が分かる人なのかもしれない。
「だが、そのくそったれなマナーは、世間に深く根付いてしまっている。変に反抗すると、少年が大変な目に会うだけだ。嫌でも、世間のルールには従った方がいいぞ」
「心得ておきます」
そして俺も席に座り、浅井さんの奢りで、コーヒーとパフェをご馳走してくれる事になると。
「改めまして。私は、緑茶プロダクションでマネージャー兼、GT養成所で講師をしている、浅井と言います」
「夏梅玄です……」
急にかしこまった態度で、名刺を渡してきたので、俺も少し慌ててしまったが、両手で名刺を受け取った。
「それで、俺の妹に
「少年。今、ニートなんだろ?」
「いや、失業中と言ってください」
こんな公衆の面前で、軽々しくニートと言わないで欲しい。ニートと言うワードは、世間にはよく思われていないので、白い目で見られることが多い。
「男は、どうして見栄を張るのか。変にカッコつける方が、みっともないぞ?」
「俺の生き方に、ケチ付けないでください」
浅井さんは、俺の反応が面白いのか、ニヤニヤとした顔で、コーヒーを飲むと。
「今日は少年に、職場を紹介しに来た」
「……はい?」
そして唐突に、浅井さんは、俺に仕事を紹介すると言ってきたので、俺は、あんぐりしてしまった。
「白井こけのファン、第1号なんだろ? それなら声優の卵、白井こけのマネージャーになってみないか?」
「無理です」
俺に声優の卵、白井こけのマネージャーを一任しようと考えているようだ。だが、俺にマネージャーの仕事をこなせるはずもない。マネージャーの仕事は、俺が今までやっていた工場勤務より、更に忙しいだろう。尚更、自分の時間が無くなる仕事を、どうしてやらないといけないのか。なので、即答でそう答えたが、浅井さんは、食い下がってきた。
「前回、白井こけが受けに行った声優のオーディション。委員長の妹役を勝ち取ったのは、鏡海里依だった。面接する前から決めていたらしく、名前だけで、売れっ子声優を選んだようだな」
「……そうですか」
この事は、現在授業を受けている白井こけ、俺の妹の良子は知らない事だろう。
必死に練習したであろう、台詞もわずかなキャラに、自分の声で命を芽吹かせようとした、声優の卵に、大人の事情で、不合格にされたと聞いたら、良子はショックを受けるだろう。
「人の努力を買わず、知名度、儲けだけで選ぶ、情けなくて、汚い大人が許せないんだろ? そんな大人たちに一泡を吹かせるために、少年は声優業界で、足掻いてみたいと思わないか?」
「どうして俺に固執するんですか? その理由なら、別に俺でなくても良いのではないのかと思います」
その理由なら、俺を誘うのではなく、大卒や、中途採用でも雇って、マネージャーとして働かせればいいだろう。俺である理由が分からないので、そう聞いてみると。
「白井こけは、ファン第1号である少年となら、頑張ってみたいと言った」
どうやら俺が帰った後、良子は浅井さんに、マネージャーにふさわしいと推挙したようだ。
「自分の声、演技を好きと熱烈なラブコールを送る、気軽に相談できるファン1号なら、もっと頑張れる気がする。そう私に言ってきた」
白井こけに、熱烈にラブコールを送った記憶はない。気がするではなく、はっきりと頑張れると言えていたなら、俺も頑張って、白井こけのマネージャーになるか、真剣に考えようと思ったんだが。
本当に、素直じゃない、声優の卵だ。
「どうする? 少年の好きな白井こけからの、熱烈なオファー。こんな機会は、もう無いと思うけどな」
「……白井こけさんが通う、養成所を見学させてもらえませんか?」
すぐに決断しては、白井こけに失礼だと思う。これから白井こけに頑張って欲しいなら、ここは慎重に考えるべきだ。俺はそう思い、まずは職場見学と言うか、養成所を見学したいと申し出ると。
「少年のたった一度きりの人生だ。このまま何もせずに、広大な草原で寝ているか。それとも、兄妹で広大な土地で、まだ見ぬ世界に旅をするか。少年の好きな方を選んでくれ」
俺が声優のマネージャーに興味を持ったのが嬉しかったのか、浅井さんは、さっきとは違うニヤニヤとした顔で、コーヒーを啜っていた。
喫茶店を出て、浅井さんに連れられて、俺は養成所の中を、軽く見学させてもらった。俺は養成所に通う訳ではないので、じっくりと見ず、どんな事をしているのか、養成所の雰囲気を見せてもらった。
「少年、どうだった?」
一通り見せてもらうと、養成所の外にある喫煙所で、浅井さんはタバコで一服しながら、俺にそう聞いて来た。
「何とも言えませんね」
正直、軽く見ただけでは、声優業界については分からない。良子のように、声優を夢に見て、みんなキラキラしてレッスンを受けているような印象だった。
「何に引っかかっている?」
「声優を目指していない俺が、この業界に首を突っ込んでも良いのか。いろんなアニメを観ているだけの、にわかが、簡単に声優のマネージャーになっても良いのでしょうか?」
「最初は、誰だってにわかだ」
ふーっと煙を吐いた後、浅井さんは、続けて話をした。
「興味があるから、にわかな自分なりに勉強をし、その道を進んで行こうとしていく。最初から専門的な知識を覚えている奴なんていない。誰もが最初は、にわかでその分野に入っていくんだよ」
浅井さんの言う通り、最初から専門的な知識を覚えている奴なんていない。
俺は、何に躊躇していたのだろうか。アニメは観るが、アニメ業界の詳細なんて全く知らない。無知な俺が、白井こけのマネージャーを務められるのか、それが不安だったのだろう。
「あの白井こけさんから推薦状をもらってしまいましたからね……。断る理由がないですね」
だが、他のマネージャーに、良子の面倒を見てもらう方が不安だ。最初からコミュニケーションが取れている兄妹なら、白井こけのまだ眠っている力を、俺なら引き出せるのではないのかと思い、この決断に至った。
「また3日後に会おう。その時は履歴書、職務経歴表を持参して、この喫煙所で待っている私に話しかけるように。私が色々と少年から聞き出してやる」
「前の職場では、生意気な新人って評価されていましたから、そう簡単に俺の素性は表しませんよ」
俺の新たな人生が決まろうとしているせいか、何だかいつもよりも清々しい気分だ。浅井さんとは別れ、養成所を出ようとしたところで。
「兄さん」
もう学校が終わるような時間になっていたのか。ハンチング帽と、伊達メガネを身に着けた良子と鉢合わせた。
「とあるひよっこ声優さんからマネージャーの推薦状をもらった。次の就職先は、この声優事務所だな」
「ニートの兄さんに、声優のマネージャーが務まるかな……? ……けど、陰ながら応援してあげる」
「ありがとよ」
強がりを言っている、可愛くない妹だ。だが、俺の決意を聞いた良子は、すごく嬉しそうな表情をしていた。そんな顔をされてしまったら、良子の夢を叶えるサポートをしないといけないな。
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