第73話 自縄自縛。

 いつねさんを傷つけたあの日から数日が経ち、月が改まって二月に入った。


 いつものメンバーの女性陣も元気を取り戻し、普通に登校してくるようになった。

 男性陣も変わらず元気だ。


 一番元気がないのは、他ならぬこの私だ。


「元気がないな。もう一週間以上になるぞ」

「……」


 気遣わしげな冬馬の声に、目線を上げる。

 声色と同じ、心配の色を浮かべた顔があった。


「事情は分かっているが、いつまでも気に病んでも仕方ないだろう」

「……はい……」


 そう。

 気に病んでも仕方ない。


 私の行動は取り返しがつかない。


「いつねはああ言ったが、百パーセントお前が悪い訳じゃない。誠やいつねにだって非はあるんだ。だからそう気を落とすな」

「それでも、私が余計なことをしなければ……変な気を回さなければ、こんなことにはならなかったはずです」


 こんなこと頼んでいない、と叫んだいつねさんの声がリフレインする。


「いつねのために、よかれと思ってやったことだろう? 結果、上手く行かなかったとしても、その気持ちは悪いものじゃない」


 でも、善意から行われた行為なら許される、という訳ではないだろう。


「なら、なぜいつねさんは傷ついたのですか?」

「恋愛だからさ」


 わかったようなことを言う冬馬に、私は少しだけ腹がたった。

 しかし――。


「少しは元気が出たか?」

「……」


 わざと私を怒らせようとしているのだと気づいて、怒気はすぐに霧散してしまった。


 チャイムが鳴った。


「そろそろ時間だな。今日は特別な日だ。そんな顔じゃ、三年の先輩方をお見送りできないぞ」


 そう。

 今日は卒業式の日なのである。



◆◇◆◇◆



「冴子先輩」

「あら和泉ちゃん。お見送り?」

「いえ。特に親しい先輩もいませんから。冴子様を見かけたので、声をかけただけです」

「あら。嬉しいわ」


 無邪気に微笑む顔には涙のあとはなく、それが冴子様らしいと思った。


 辺りを見回せば、泣いている三年生は結構いる。

 男子生徒にはまれだが。


「冬馬君に聞いたわよ。いつねちゃんとけんか中なんですって?」

「けんかというか、私が一方的に悪いんです」


 いつねさんは何も悪くない。


「そんなことないわ。事情はよく知らないけれど、友達との間のことに、どちらかが一方的に悪いことなんてほとんどありえないもの」

「でも――」

「安心したわ」

「え?」


 冴子様は大人びた顔を浮かべて言った。


「和泉ちゃんでもそんな悩みを抱えることがあるのね。あなたはそんな青臭い悩みなんかとは無縁の子なのかと思った」

「冴子様は私を買いかぶりすぎです」

「そうかしら。私、和泉ちゃんの下位互換って言われたこと、数えきれないくらいあるのよ?」


 誰だそんな恐ろしいことを言ったのは。

 私が冴子様の下位互換ならまだ分かるけれど。


「私なんてまだまだ子どもです。やっと出来た親友を傷つけてしまう程度の」

「親友だからこそ、でしょ?」

「?」

「ヤマアラシのジレンマって知ってるかしら?」

「……はい」


 フロイトが論じ、精神分析家のベラックが名付けたジレンマである。

 寒空にいる2匹のヤマアラシが身を寄せ合って暖め合いたいのに、お互いの針が刺さるので近づけない、というショーペンハウアーの寓話に由来している。


「このジレンマは、原文では精神的に卓越した人ほど非社交的で、内面がからっぽな凡人はその逆であるっていう否定的な趣旨だけれど、心理学的には別の肯定的な意味もあるのよ? 紆余曲折の末に、両方にとって丁度いい距離に気付くっていうね」

「……はぁ……」


 冴子様は何を言いたいのだろう。


「和泉ちゃんといつねちゃんは、今、少し近づき過ぎて針が刺さっちゃってるのよ。今は、丁度いい距離感を探っている最中。まだまだこれからよ」

「でも、もう会いたくないって言われました」


 あの悲痛な叫びが耳からずっと離れない。


「あら。そんなこと何度でも言ったり言われたりするものよ。私だって言ったことあるわ。でも、言った相手とは今でも親友よ?」

「……」

「怖いのね」

「……はい」


 冴子様とは違って、本当にもう会いたくないと思われていたらと思うと、怖くて仕方がない。


「気持ちは分かる……なんて軽々しいことは言わないわ。その悩みは、痛みは、いずみちゃんだけのものだから。でも、今以上に最悪な状態なんてあるのかしら?」

「……」


 確かに、今は最悪だ。

 これ以上、悪くなりようがない。


「ダメ元で、謝って話し合ってごらんなさい。案ずるより産むが易しってこともあるわよ?」

「……考えてみます」


 どちらにしても、平日は会いに行けない。

 謝りに行くとしても、次の日曜日だ。


「冴子様」

「なーに?」

「ありがとうございました」

「どういたしまして。青春せよ、女の子!」



◆◇◆◇◆



 冴子様にはああ言われたものの、その次の日曜日は結局、謝りに行けなかった。

 まだ心の整理がつかなかったからだ。


 鬱々とした日々が続いていた。


「お姉様、まだ悩んでいらっしゃいますの?」


 点呼のあと、就寝前の寮の自室で今日九回目のため息を数えていると、仁乃さんが呆れたようにそう言ってきた。


「すみません。空気を悪くしてしまって」

「いえ、そんなことは気にしてませんけれど、見ていていたたまれないんですのよ」

「すみません」

「だから、謝って欲しい訳ではありませんのよ」


 でも、自分でもどうしたらいいのか分からないのだ。


「正直、私はいつねさんが羨ましいですわ」

「? 羨ましい?」

「お姉様にそこまで深く思い悩んで貰えるのですから。私なんていつも応対がおざなりですのに」

「……そんなつもりはないのですけれど……」


 もしかして、いつねさん相手だけではなく、仁乃さんにも不愉快な思いをさせていたのだろうか。


「いえいえ。分かっていますわ。いつねさんとは付き合いの長さが違いますもの。私の方が馴れ馴れしくされて当然ですわ」

「私、馴れ馴れしいですか?」

「ちょっと語弊がありましたわね。気やすいと言った方が良いかもしれませんわ」


 確かに、付き合いの長さだけなら、仁乃さんはいつものメンバーの中で一番長い。

 もちろん、私ではなく和泉の話だけれども。


「自覚はありませんでした」

「お姉様、私がこんなにお慕い申し上げてるのに、つれないじゃありませんの」


 よよと泣きまねをする仁乃さんに、くすりと笑みがこぼれた。


「ようやく笑いましたわね」

「?」

「あの事件からこちら、ずっと暗い顔をしてましてよ? 冬馬様も、和泉が全然笑わなくなったって焦っていらっしゃいましたわ」

「冬馬くんが……」

「今回は冬馬様よりも私の勝ちですわね」


 ふふん、と仁乃さんは誇らしそうに笑う。

 その仕草がおかしくて、また私はくすりと笑った。


 仁乃さんのおかげで、私は色んな人に支えられているのだな、と気づいた。

 この数日間、私を心配して声をかけてくれた人たちの顔を思い出す。


 冬馬、ナキ、仁乃さん、誠、実梨さん、佳代さん、幸さん、嬉一、冴子様――本当にたくさんの人たちが私を支えてくれている。

 ぼっちだなんて、本当にもう絶対に言えない。


「今週の日曜日、いつねさんに会いに行きます」

「それがいいですわ。きっといつねさんも心待ちにしてましてよ?」

「そうであることを願います」


 ふっきれた、と思う。

 仁乃さんの存在を、とてもありがたく思った。


 明日からは元通りに振る舞おう。

 心配させたみんなにも謝らなければ。


 そう、密かに決心した時、スマホが鳴った。


 いけない。

 マナーモードにし忘れていた。

 

 メールだ。


「!」


 差出人は――いつねさんのお母さん!?


『件名:娘が危険な状態です』


 私は制服に着替えると、緊急の外出届けを申請するために、夜間受付へと走った。

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