第47話 二つの嘆願。
翌々日の月曜日。
私は外泊届けを出して自宅へと戻ってきた。
日曜日は学園祭の片付け日でつぶれ、月曜日が振替休日なのである。
帰宅の目的は、もちろん遥さんといつねさんのことに、一条の力を使ってもらうためである。
遥さんのことは公に出来ない。
公にすれば、彼女は即刻警察行きだ。
秘密裏に処理して、別の学校に通わせてもらえるように手配するつもりだった。
いつねさんのこともある。
彼女は自分だけ特別扱いは嫌だと言ったけれど、私はどうしても彼女をこのままにしておくことは出来なかった。
恨まれてもいい。
彼女には生きていて欲しい。
リムジンを降りて、自宅の門をくぐる。
暑さのピークは過ぎたとはいえ、まだまだ暑い。
足早に玄関に駆け込むと、祖父母が出迎えてくれた。
慣れないな。
こういうの。
「帰ったか」
「ただいま戻りました。お祖父様、お祖母様」
「おかえりなさい」
祖父は相変わらず難しい顔、お祖母様はにこやかな顔を浮かべている。
「用向きの概要はメールで聞いている。後で書斎に来なさい」
「はい」
「まずは汗を流していらっしゃいな。外は暑かったでしょう」
「はい。失礼します」
祖父母の前を辞して一旦自室に戻る。
いつものように、ウォークインクローゼットで適当な服を見繕って、今度は浴室に向かう。
脱いだ服やら下着やらをぽんぽん洗濯カゴへ入れると、浴室に入った。
どうでもいいことだが、この家には浴室が2つある。
祖父母、伯父夫婦が使う大きな浴室――もはや浴場という表現の方が正しい――が一つと、離れにある私や使用人が使う普通サイズの浴室の2つである。
昔の和泉は、自分は使用人と同じ扱いなのかと劣等感に苛まれたりもしたけれど、今思えばあれは和泉と祖父母、叔父夫婦が鉢合わせしないようにという、祖父の配慮だったのかもしれない。
閑話休題。
シャワーはぬるめ。
誘拐事件からおよそ三ヶ月たち、髪も少し伸びた。
迷ったけれど結局洗うことにして、全身泡まみれになる。
シャワーで流すとだいぶさっぱりした。
着替えて髪を丁寧に乾かし櫛を入れる。
鏡に写るのはいつもの眼力が強い普通顔。
若干、疲労の色も見えるか。
ここ数週間、毎日バンドの練習をしていたし、一昨日は本番だった。
昨日は片付けに追われていたし、疲れが見えたとしてもあにはからんや。
とはいえ、お化粧で隠すほどでもない。
学園では化粧も禁止されていないけれど、している人はあまりいない。
高校生ならすっぴんでも十分だからね。
社交の場に出るときはさすがにお化粧するけれど。
浴室の鏡で身だしなみを整えて、いよいよ祖父の書斎へ。
祖父とは和解しつつあるとは言っても、やはり緊張する。
見慣れた装飾彫りの扉を三度ノックする。
ちなみにこのノック。
日本ではなんとなく適当に行われていることが多いけれど、実は場合によって何回叩くかが決まっている。
二回はトイレのノック、三回はプライベート空間へのノック、四回が正式のノックなのである。
もちろん、これは欧米の文化ではそうだというだけで、日本では事情が異なるという意見もあるだろうけれど、こういう規則があることを知っておいて損はない。
今回の場合、書斎は祖父のプライベート空間なので三回ノックした。
「入れ」
すぐに声が返ってきた。
「失礼します」
そう言って書斎に入る。
ここはいつも古い本の香りがする。
祖父の書斎でなければ、とても落ち着く匂いだ。
祖父は椅子に腰掛けていて、向かって右後ろに佐脇さんが控えている。
今回の帰宅の目的である二件の事柄のあらましは、メールで佐脇さんに伝えてある。
祖父のアドレスも知らないではなかったけれど、何となくためらわれた。
まだ苦手意識は払拭できていない。
「脅迫状の送り主を捕まえたか」
「はい」
「しかし、あくまで実行犯であり、本命は別にいると」
「はい」
「しかもそれがあの男とはな……」
祖父の顔に深い苦慮の色が見えた。
「私は父のことを名前しか知りません。どのような人なのですか?」
「……どうしようもない悪党だ」
嫌悪。
それが祖父の顔ににじみ出る。
「
一夏とは、母の名前である。
祖父の話では、景宗という男は素性の知れない男だったらしい。
そもそも、母が景宗に出会ったという一条家のパーティーに、どうして参加できたのかも不明だそうだ。
一見、人畜無害な優男に見えるが、気性は荒かったという。
良く言えばワイルド、悪くいえばゴロツキだったそうだ。
いずれにせよ、母はそれまで出会ったことのないタイプだった景宗と恋に落ちた。
「あの男の周りには常に悪い噂が絶えなかった。私も伊予もあの男だけはやめておけと何度も言ったが、娘は聞く耳を持たなかった」
その挙句が駆け落ちだ、と祖父は長い長いため息を付いた。
「名家の令嬢として蝶よ花よと育てられた一夏に、普通の暮らしが出来たとは到底思えない。まして子育てなど――いや、すまん」
「……いえ」
虐待されていた頃の和泉の記憶は、まだ私の中にある。
確かに母も父も、人の親としては失格だったと思う。
「私は必死に一夏を探させた。しかし、一条の力を持ってしても、一夏は見つからなかった。あるいは、一時海外に逃げていたのかもしれない」
母の行方が知れぬまま、四年の歳月が過ぎたという。
「ある冬の終わりの寒い夜、一本の電話がかかってきた。一夏からだった。子どもを育てられないので、預かって欲しいということだった」
告げられた住所に行くと、すっかり衰弱した私が発見された。
「私は一夏を『失敗作』だと思った。あれは人間としても、女としても、母親としても失格だ。私は一夏の二の舞いにはすまいと、お前を厳しく育てた」
少々行き過ぎだったことは謝る、と祖父は頭を下げた。
行き過ぎについては、先日祖父自身の口から聞いた。
和解には時間がかかると思うけれど、いずれもっと打ち解けられると信じている。
「確かに一夏は『失敗作』だ。それでも――」
生きているのならもう一度会いたい、と祖父は言った。
「一夏がああなってしまったことの責任の一端は、間違いなく私や伊予にある。当時は自分のことを棚に上げていたが、こうして優秀な人間に育ったお前を見れば嫌でも分かる。私たちは育て方を間違った」
後悔に暮れる祖父を見るのはとても辛かった。
「話を元に戻そう。服部 遥をどうにかすればいいのだな?」
「はい。彼女は父につけこまれています。彼女の家の借金を全額肩代わりするというのは、多分、人の道に反すると思いますので、一条系列の銀行に融資をして頂ければと」
「お前はそれでいいのか?」
「え?」
思わず質問に疑問で返してしまった。
「裏切られたことに恨みはないのか、ということだ」
そういうことか。
「ありません。彼女はその――クラスメイトですから」
あえて友達とは言わなかった。
私はともかく、彼女はきっとそうは思っていないだろう。
「分かった。彼女の転校についても何とかしよう。あの男には嗅ぎつけられないように、少し離れた学校になるかもしれんが」
「細部は本人やご両親と詰めて頂ければと思います。後はすべてお祖父様にお任せいたします」
「うむ」
これで遥さんのことは一件落着だろう。
次は――。
「五和 いつねのことも聞いている」
「はい。出来れば最高の治療環境を用意して頂ければ――」
「ダメだ」
「……なぜですか?」
祖父は一旦目元を押さえて沈黙すると、再び私の方を見た。
「一条は大きな財閥だ。その関係者は何万人にも及ぶ」
「それは分かっているつもりです」
「そのすべての関係者を差し置いて、お前の友人だけを特別扱いするというのは、道理が通らん」
「……」
ぐうの音もでない。
「服部 遥のケースは身内から出た不始末だから別だ。私にしてやれるのは、せいぜい、ニコ=アエジェル症候群を研究している大学病院を紹介してやるくらいだろう。それ以上はえこひいきになる。下の者に示しがつかない」
祖父は悔しくなるほど冷静だ。
「私のことはいくら恨んでくれても構わん。だが、それが上に立つものの身の振り方という者だ。親族なら話は別だが、友人というだけでは弱い。すまんな」
祖父の声がいささか弱くなった気がする。
気のせいだろうか。
「結局、彼女に近づいたのだな」
「え?」
「交友禁止リストを渡しただろう」
「!」
祖父はこうなると知っていて――!
「睨むな……。睨んでくれるな。一条の総帥とはいえ、神ではない。出来ることと出来ないことがあるのだ」
「どうせ死んでしまうから、いつねさんには近づくなと?」
「言い方に悪意を持たせればそうなる。個人的な弁解をさせて貰えるなら、お前が悲しむ姿を見たくなかったのだよ」
あくまで冷静な祖父の声に、私は我に返った。
「……申し訳ありません。無礼な口をききました」
「いや。友人とはそういうものだ。こういう運命は呪わしいが、お前に親しい友人が出来たこと自体は喜ばしい。お前は人間が嫌いなのだと思っていた」
祖父の考えは当たっているかもしれない。
私は基本的に人間嫌いだ。
友だちづきあいは煩わしいし、恋愛などもっと想像がつかない。
でも、転生し、百合ケ丘に通うようになって、少しづつ何かが変わりつつあるのかもしれない。
「ニコ=アエジェル症候群は、製薬会社を当てにすることは出来ないが、医大の研究室レベルでは少しずつ全容解明が進められていると聞く。彼女に間に合うことを祈ろう」
「……はい」
いつねさんにはあとどれくらいの時間が残されているのだろう。
少しでも長生きしてくれることを願ってやまない。
「だいぶ話したな。少し疲れた。休ませてくれるか」
「はい。遥さんの件、ありがとうございました」
「五和 いつねの件、力になれずすまないな」
「いえ。それでは失礼します」
私は書斎を後にした。
自室に戻り、ベッドに仰向けになる。
今日はここに泊まって、明日は直接学園に向かうことになる。
結局、いつねさんのことはどうにもならなかった。
『出来ることと出来ないことがあるのだ』
祖父の辛そうな台詞が脳裏にこだまする。
私も同じだ。
日本屈指の名家の令嬢といえども、出来ることはこんなに少ない。
私は自分の小さな手を見つめ、今日四回目のため息をつくのだった。
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