22話 推定無罪の原則
評議室に戻り、ひとまず休憩をとることに。『証人尋問』という普段では経験することのないシチュエーションでの緊張から解放され、誰もが無意識に甘いものに手が伸びます。
私たちから少し遅れて、評議室に戻って来た司法修習生たち。余程きつく言われているのでしょう、黙ったままニコリともせずにソファーに腰掛けた彼らに、裁判員2番(女将)さんが話し掛けました。
「ね、あなたたちも疲れたでしょう? 一緒にお菓子を食べましょうよ。ねえ、裁判長さん、休憩中なんだから、それくらい良いですよね?」
「ええ、構いませんよ。みんなも頂きなさい」
「ありがとうございます!」「頂きます!」
礼儀正しくお礼を言い、一人ずつ好みのお菓子を手に取る4人。そんな彼らが可愛くて堪らない様子の2番(女将)さん。にこにこしながら、お代わりまで勧めていました。
ひとしきり、お菓子とお喋りでリフレッシュした後は、本日の公判についてのおさらいと意見交換です。
「初めての証人尋問ということで、皆さんお疲れになったでしょう。午前中のコンビニ店長、午後の警察官の証言から、どんな印象を受けたか、1番さんから順にお話し頂けますか?」
新島裁判長さんの問いかけに、まず裁判員1番(女子大生)さんが答えました。
「どう考えても、有罪としか思えませんでした。むしろ、やってないと思える部分が一個もないというか」
続いて裁判員2番(女将)さん。
「まったく同感ですね」
以降、補充裁判員のお二人も含め、全員が同じ意見で一致。
「それでは、全員一致で有罪決定! …と、簡単には行かないのが、日本の刑事裁判なんですよね」
そう言うと、ホワイトボードに『推定無罪の原則』と書いた新島裁判長さん。
「以前にも申し上げた通り、被告人は、刑事裁判で有罪が確定するまでは『罪を犯していない人』として扱わなければなりません。そしてもうひとつ…」
その下に『疑わしきは被告人の利益に』と記載。
「刑事裁判では、検察官が被告人の犯罪を証明しなければ、有罪とすることが出来ません。逆に、被告人が自らの無罪を証明出来なくても良いということになっているんですよ。
ですから、一つ一つの事実について、証拠によって『あった』とも『なかった』とも確信出来ない場合、被告人に有利な方向で決定しなければなりません。じゃあ、どういう場合に有罪に出来るかというと…」
続いて『合理的な疑問を残さない程度』と綴ると、
「法廷で見聞きした証拠にもとづいて、皆さんの常識に照らして、少しでも疑問が残るときは有罪とすることは出来ませんが、通常の人なら誰でも間違いないと考えられる場合に、初めて『犯罪の証明があった』ということになるんですよね」
さらに『人を裁く』と書いた文字に、大きくバツを付け、
「裁判というのは、人が人を裁くのではなく、検察官が提出した証拠が『合理的な疑問を残さない程度』かどうかを判断するもので、証拠にもとづき、皆さんの常識に照らして考えたとき、検察官の言い分に何の疑問もなく確信できるかというのが、裁判の基準なんですね」
新島裁判長さんの説明に、もの凄く納得しながら頷く私たちと、食い入るように聞きながら、真剣にメモを取る司法修習生たち。
「それじゃ、Aさんの件に関して、犯罪の証明をする上で、どのあたりがポイントになると思うか、お一人ずつご意見をお願いします」
今度は、補充裁判員2番さんから逆回りで、私たち裁判員だけではなく、裁判官お三方もそれぞれが一意見として発言。それらを、稲美さんがホワイトボードに箇条書きにして行きます。
・最初に声を掛けたのは、納刀被告、Aさん、どちらからか。
・援助交際を持ちかけた可能性。
・連れ去りか、家出か。
・怪我の状況と合意の有無。
・コンビニ駐車場に放置した人物は誰なのか。
等々、大まかにこのあたりに集中して、意見交換をすることに。
まずは、もし自分がAさんだったとして、あのシチュエーションで、通りすがりの納刀被告に援助交際を持ちかけるか、ということから。
「そうですね、もし自分なら、まず自宅や学校の付近ではやらないと思います」
そう言ったのは、裁判員1番(女子大生)さん。一応、進行役として、新島裁判長さんが尋ねました。
「それは、どうしてですか?」
「だって、自分の生活圏だと、知り合いに見られてる可能性が高いじゃないですか?」
「私もそう思います。Aさんのお宅は、閑静な住宅街でしたよね? 誰も見てないようで、結構見られていたりするんですよね」
と、賛同した私に、補充裁判員2番(育休中ママ)さんも発言。
「1番さん、5番さんのおっしゃる通りだと思います。もしやるならリスクを避けて、絶対に知り合いと遭遇しない場所か、繁華街みたいな場所を選ぶと思います」
「僕は男なので、納刀被告側の立場だったらと考えたんですが」
そう言ったのは、裁判員4番(銀行員)さん。
「もし、住宅街で初対面の女子高生にいきなり援交を持ちかけられたとして、その自宅に上がり込む勇気はないです」
「なぜですか?」
「だって、いつ家族が帰宅するか分からないですよね?」
「僕もそう思います。それだったら、ホテルなりに移動することを提案すると思います」
「自分も、付き合ってる人なら別っすけど、知らない人の家とか、落ち着いて出来ないと思います」
熊野さんと、補充裁判員1番(車ディーラー)さんも、4番さんに賛同。他の皆さんも同様に、やはり『場所』が一番のネックということで一致。となると、嘘をついているのは納刀被告のほうと考えるのが自然ということになります。
そしてもう一つ、私たちが疑問に思ったことを、新島裁判長さんが説明してくださいました。
「午後の公判でお気付きの方もいらっしゃると思いますが、納刀被告の被害者は、この裁判の原告である3人の女性以外にも、じつはたくさんいらっしゃるんです」
「え? でも強制性行罪は親告罪じゃなくなったんじゃ?」
「建前上はそうなんですが、被害者本人が強く拒否した場合、強引に起訴することも出来ないんですよ」
「そうなんですか…」
「被害を受けた方は、何人くらい?」
「20人以上いらっしゃいます」
「嘘…!」「そんなに…!?」
「でもその数字って、分かっているだけで、よね…?」
そう言った裁判員2番(女将)さんの言葉に、全員がハッとし、イエスともノーとも取れない様子で小さく首を振りながら、新島裁判長さんが続けました。
「性被害者が保護されると、まず病院で検査を受けるんです」
怪我の処置や性感染症の検査、加害者のDNA採取などの他、望まない妊娠を回避するためアフターピルを処方。ただし、時間の経過とともにその効果は低下します。
検査を受けて3週間後に、性感染症などの検査結果とともに、妊娠していないかを検査するのですが、残念なことにAさん(女子高生)は妊娠していることが判明し、中絶手術を受けたのです。
ただでさえ受け入れがたいというのに、本人やご家族がどんな気持ちだったかと思うと、言葉になりません。
「だから、あのご両親…」
「5番さん、お気付きでしたか?」
思わず口をついて出た私の言葉に、悲しげな表情を見せた新島裁判長さん。
「お二人にとっては、本当に大切に育てて来られたお嬢さんなんでしょうね。被害者のお身内の中には、ああして裁判を傍聴に来られる方もいますし、被害者参加制度で直接裁判に参加される方もいるんですよね」
「あのご両親も、被害者参加制度に?」
「いえ、未成年なのでビデオ録画ですが、Aさんご本人が被害者証言に参加しますから」
後日、彼女を含め3人の被害女性たちの声を、私たちは法廷で聞くことになるのです。
本格的な評議は、すべてが結審した後に行うため、今日はほんのさわりだけといった意見交換のみでしたが、それでも皆さんの真剣さがひしひしと伝わって来ます。
こうして、公判三日目は終了。明日は裁判の日程で公判がお休みのため、帰路に就く足取りが、心なしか軽く感じるのでした。
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