9話 806号法廷
評議室を出て、エレベーターで8階に移動し、迷路のような通路を通り抜けた先の部屋に案内されると、そこは控室のようなスペースになっていて、その奥には、大きな観音開きのドアが鎮座していました。
「どうぞ、中へ。この先が、これから皆さんと一緒に公判に立ち合って頂く『806号法廷』です」
裁判長さんに促され、恐る恐る足を踏み入れた私たち。室内には数か所にドアがあるだけで窓はなく、閉塞感こそないものの、ここでたくさんの犯罪が裁かれて来たのかと思うと、一種独特の空気感がありました。
法壇には裁判官3人と裁判員6人が並んで座れるよう、大きく横長に弧を描いたアーク型に造られており、両脇の壁面には大型のディスプレイ、法壇の上にも小型モニターが設置され、そこに検察官や弁護人が示す証拠の資料や画像などが映し出されます。
法壇のすぐ正面には書記官席、向かって右側が検察官席、左側に弁護人席があり、書記官席の向こうに証言台、その左斜め後ろに被告人席。そのすぐ後ろに腰の高さほどの柵が設えてあり、そこから先には概ね50席ほどの傍聴席が並んでいました。
法壇での席位置は、中央に裁判長、その両脇に右陪席と左陪席、さらにその右側に裁判員1番、2番、3番、左側に4番、5番、6番、補充裁判員のお二人は、法壇の後ろの席に並んで座り、最終日の判決の言い渡しの際には、傍聴席に座るとのこと。
間違いがないように、席には裁判員番号が貼りつけられていて、番号通りに着席した私たちに、にこにこしながら、新島裁判長が声を掛けました。
「如何ですか? 法壇の上から見た景色は」
「これは、また…」「凄い見晴らし…」
やや言葉に詰まる私たち。
そう、ニュース映像などで見るのは、主に傍聴席から見た景色で、今私たちが見ているのは、普段裁判官しか見ることのできない『法壇のむこう側』からの景色。フロアから一段高く設えられたこの場所に座る者には、誰かの人生を決定することへの責任が重く圧し掛かることを、私たちは後に実感することになるのです。
「実際の裁判では、裁判長席の真後ろにあるドアから入廷しますが、私たちは控室で待機して、中の準備が整うと内線が来ますので、それから入廷するという段取りになります。
入廷する際は、最初に裁判長がドアを開けて入り、次に裁判員1番、2番、3番、右陪席の順に右側へ、続いて裁判員6番、5番、4番の順に左側へ行き、補充裁判員1番、2番の順に後ろの席へ、最後に左陪席がドアを閉め、全員整列したところで『礼』をしてから着席します。では、やってみましょう」
退廷する際は、裁判長が最初に出た後、右陪席、裁判員3番、2番、1番…、と入るときの逆になるため、当日パニックにならないように、全員でリハーサルをすることに。
法廷には私たちだけでしたが、それでもかなり緊張します。もしこれが被告人ならその緊張感たるや、絶対にその立場にだけはなりたくないと思いつつ、本番さながらに、何度も繰り返し練習しました。
「裁判中は、私語は禁止ですので、もし気分が悪くなったりしたら、すぐに休憩を入れますので、お手元のメモ用紙に書いて、私に回してください。
お一人でも欠けたまま続行することは出来ませんので、その間、裁判は中断します。絶対に無理はしないように、お願いします」
実際に、私たち裁判員から裁判長に回すパターンと、裁判長から私たちに伝言を送る2パターンを、後ろの席の補充裁判員さんまで全員がスムーズに回せるように実践練習。
回し方はといいますと、多くの方が学生時代の授業中にやっていた『目立たないようシレッと送る』まさにあのやり方で、先生に見つかれば大目玉だった悪行が、この厳粛な場所で役立つことになろうとは、本当に世の中は分かりません。
法廷での説明を終え、再び評議室に戻ると、いよいよ来週から私たちが担当する『連続強制性行等致傷事件』の裁判の概要の説明に移りました。
「強制性行罪は、以前の強姦罪から変更になったもので、詳細は追って詳しく説明しますが、変更された大きなポイントとしては、
1.名称の変更。
2.姦淫の定義。
3.厳罰化。
4.親告罪から非親告罪に変更。
といったところで、無期または6年以上の懲役となります」
ホワイトボードを使い、簡潔に説明する新島裁判長さん。
被告人の男は、3名の被害女性それぞれに対し罪を認めておらず、今回の裁判では、3件の犯行が罪に当たるのか、当たるならその量刑の重さを決めることになります。
但し、被告人は逮捕され拘留されていても、判決が出るまでの間は『推定無罪』が原則となるため、私たち裁判員は先入観を持たずに公平な判断をしなければなりません。それ故、先ずは月曜日の第一回公判で、検察側と弁護側双方が行う『冒頭陳述』で、しっかりと両者の言い分を聞くことから始まるのです。
「月曜は1時までにこの第6評議室へ来て頂き、2時から先ほどの806号法廷で裁判が始まります。週末はゆっくり休んで、週明けの公判に備えてくださいね」
「はい」
「こちらは、みなさんが裁判員に選任された旨の『証明書』となります。お勤め先等への提出にお使いください」
手渡された書類が自分のもので間違いないことを確かめ、常に携帯するように言われた『裁判員カード』『ホットラインカード』とともにバッグの中へ。
最後に、裁判員、補充裁判員の日当について、選任手続きや審理、評議などの時間に応じて、一日当たり1万円を上限に決められ、交通費も含めた額が、後日まとめて振り込まれる旨の説明を受け、本日の全工程が終了。時刻は間もなく正午になろうとしていました。
「本日は以上となります。それでは皆さん、お疲れ様でした。お気を付けてお帰り下さい」
「お疲れ様でした」「失礼いたします」
裁判官お三方のお見送りで1階エントランスまで降り、そこで解散した私たち。自宅へ帰る人、会社に向かう人、それぞれが利用する路線の駅に向かうため、3つのグループに分散して、裁判所を後にしました。
たまたま同じ方向になった裁判員2番(女将さん)、4番(銀行員)のお二人と一緒に歩きながら、
「それにしても、まさか自分がこうなるとは」
「ですよね。まだ実感が湧かなくて」
「こういう事情でなければ、お昼でもご一緒に…と言いたいところですけど、外であれこれ話しちゃいけないって、釘を刺されましたものね~」
「一番話したいのは、そこですからね!」「ホントに!」
2番さんのみならず、冷静沈着そうな4番さんまでが同じ思いだったことに、安堵の笑みが零れました。
「それでは、月曜日に」
「失礼します」「またね」
逆方向のお二人と改札で別れ、一人ホームへ降りると、タイミングよく滑り込んで来た電車に乗り込みました。幸運にも空いていた席に座り、携帯をチェックすると、そこには百合原さんと夫からの山のような着信履歴が。
とりあえず、『後で電話する』とふたりに返信し、そのまま帰路についたものの、デパートのスイーツフェアをすっかり忘れていたことに気付いたのは、自宅に帰ってからでした。
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